第6話

 さる月夜。千葉は出稽古へ出ていた。

 場所はこの辺り一帯の金を統べる豪商の屋敷である。千葉は月に一度、そこの倅へ剣の真似事を教え、金子と馳走をいただくのが常となっていた。

 千葉は乗物を嫌う為、帰りは門弟が屋敷に迎えとして行く事になっており、その日は伊勢と阪原が担当であった。

 伊勢の暗殺計画はこの日に実行する事となった。迎えに出た二人まとめて闇討ちする手筈となった。

 当初の予定であれば阪原は暗殺の対象外であったが、「この好機を見逃さば後にない。阪原もろとも斬るべし」として皆の意見が重なったのである。その会合にはもはや理知はなかった。あるのは憤怒と憎悪。そして、狂気だけであった。






 二人の出立後間も無く、門弟達は跡をつけた。


 伊勢と阪原は何も語らぬまま豪商の屋敷へと向かった。元来寡黙な二人故、言葉が繋がらぬのは常の事であったが、この日は両者ともどこか落ち着きがなく身をそわとさせており、平素よりも強く結ばれた口元は緊張から沈黙を貫いているように見えた。二人の身を強張らせている原因は勿論門弟達の襲撃に由来している。鍛錬とはいえ日頃から命を燃やし、死狂いの如き剣を振るう伊勢と阪原の勘が、空気の震えを、血の臭いを感じさせる殺気を嗅ぎ取っていたのだった。


 月は見事な円を描き、一片の曇りもない空を淡い光で染めていた。

 暗殺には不向きな夜である。だが、その月明かりが人の心を、内なる狂気を駆り立てる。

 銀色の円月は刀身の渡りに似ていた。広がる月暈げつうんは波紋と重なった。幻惑の光は、人を凶行へと駆り立てた。門弟達は血走った目を浮かべ、影となって連なった。まるで地獄の底を彷徨う亡者のように……



 それは月光の偏りが射した一角に阪原の目が捕らわれた時であった。物陰に潜み損ねた亡者の一人と、目が合った。それが誰で、なんの目的であるか阪原は瞬時に理解した。いや、理解というより、肌に感じたといった方が正しい。研ぎ澄まされた五感により、阪原は今宵月が血に染まる未来を見たのであった。そしてそれが誰であるかも……


「伊勢。先に行け」


 立ち止まり、阪原はそう呟いた。


「なんだ。鼻緒でも切れたか?」


 伊勢が訝しげにそう尋ねると、似合わぬ微笑を浮かべ阪原は答える。


「小便だ」


「……手早く済ませよ」


 短いやり取りが終わると、伊勢は屋敷方面へ、阪原は物陰の彼方へ別れた。


 これは好機であると、門弟達は伊勢を追った。目の合った者は一抹の不安と迷いが生じていたが、集団の波に呑まれ皆に続いた。

 





「勘兵衛。今宵は、お前一人か?」


 伊勢が進む道の反対からやって来たのは千葉であった。ほどよく酔いが回っているらしく、普段の厳格な表情が緩んで見えた。


「先生! 申し訳ありません! 遅くなりました……」


「よい。ちと酔うてな。早めに失礼しただけの事。あの屋敷はどうもいかん。過ぎた飾りが酒の回りを早うする」


 カカと笑う千葉は機嫌よくそう答えると伊勢の横へ並んだ。歳の差は親子といっても差し支えないほどに離れているが、伊勢は恐縮してしまって、まったく父子の間柄とは呼べぬものであった。

 だが、それでも両者は満足そうな顔をして歩いていた。師と弟子という絆は、時に親兄弟のそれより強固なものとなり得る。この時伊勢は、坂原がいなくてよかったと、心の底からそう思い、また、申し訳なく感じた。


「阪原は小便に行きました。時期、見えるでしょう」


「新左衛門め。師より小便を取るか。けしからん」


 師の軽口になんと返したらよい思案した伊勢は僅かな微笑を浮かべた。彼は愛想笑いなどできぬ質であり、また、弁もまったく立たぬ方であった。千葉は伊勢の愚鈍を悟り、聞こえぬよう小さく溜息を吐いた。

 泰平の世において舌が回らぬのは致命傷である。仮に伊勢が千葉一心流の師範となれば、その時点で継承は潰えるだろう。己の腕一つで成り立つ時代でない事は、千葉が一番知っている事である。


 だが、千葉は横で口をまごつかせる、この純朴な少年を愛していた。

 これまで彼は、伊勢に自らの子のような情を注いでいた。それは勿論天稟の有無も多分にある。だが、千葉が一番に親愛の念を抱いたのは、その不器用さと誠実さであった。不器用ながら一人で、一所懸命に剣を振り練磨に勤しむその姿を、かつての自分と重ねていたのだった。

 千葉の存続を考るのであれば、跡目は当然阪原一択である。だが、人間とは時に、利害や合理の外にある選択をする事が、ままあるのであった。


 千葉は後継者を決めていた。

 伊勢を指名すると決めていた。


 そうして伊勢を自らの子とし、阪原には道場の支柱となってもらうよう説得するつもりであった。


 この選択には千葉の私心が多分に働いていた。方や乞食同然の貧弱。方や豪族の息子である。互いに得難き才を持つのであれば、貧者に救済の手を差し伸べるのが人の道ではないかと、千葉は思っていた。




「なぁ勘兵衛。私は……」




 千葉がそう言いかけた瞬間であった。


 穏やかに広がっていた天に雲がかかり、円月が欠けた。


「伊勢! 覚悟!」


 門弟達の声が響き、一瞬の静寂の後、肉が引き裂かれる音が、血の滴る音が聞こえた。

 疎らに数人分の足が遠ざかっていく。残されたのは……


「……先生……先生!」


 月明かりが再び広がる。


 千葉の老体に、一本の刀傷と、その傷を付けた獲物と、師の血に濡れた……。




 門弟達の内、駆け出したのは一人だった。他は男が切った瞬間、怖気付いて逃げ出してしまった。

 そう。千葉を斬ったのは一人だった。



「伊勢……」


 月に照らされ、鮮血に染まった同胞と師の亡骸を見てそう呟いたのは阪原であった。


 二人の男の運命が、歪な音を立て、回り始めた……

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