第4話

私は田嶋ハルさんの母が育てている、夏蜜柑の木を眺めながら、簡単な朝食をとっていた。今日は博物館に行く日だ。

彼女は片手ではあまるほどの大きな蜜柑を、ぱちんぱちんとひとつふたつ穫っては籠に入れてゆく。オードリー・ヘプバーンが着用するようなスカーフで頭をおおい、シンプルな浅黄色のフレアスカートをはいている。

パリの4月をハミングしている彼女はまるでミュージカル舞台に立つ女優だ。

彼女は35歳になった今も、その美貌は衰えてはいない。そんな彼女見たさに、いそいそと部屋から出て来て、自転車置き場や、ごみ置き場の清掃をしだす男性は多い。 

この団地の自治会長に引越しの挨拶に行ったとき、彼は「同じ女でこうも違うもんかいな」といわんばかりに、田嶋ミレさんの話ばかりした。

自分にはワイフがいてるから無理やけど、独身だったら速攻ものにしてたわ。抜け駆けして自分の飲食店に彼女をスカウトしたという知人とは金輪際、縁を切った。劇作家だった旦那さんがいかに女癖が悪かったか。こんな不運な女性見たことないわと、彼はこんこんと話し続けた。

ミレさんの娘のハルさんが、毎日のほとんどをひとりで過ごしていることは、自治会長はん、あんた分かってます?

男性数人が、ずっと空室で住人不在だった305号室から出てきた。

ブラウンの瞳と、精悍な顔つきのアメリカ人男性は、私を見るやウインクした。

手馴れた仕草だと感じた。

私は気になっていた。下の階に越してきた入居者が男性なのか、女性なのかということを。仮に入居者が女性であれば、同性同士、お互い生活スタイルが似ているから、それほど気を使わなくてもいい。けれど、こと異性となると困ることが多々ある。

たとえば、ベランダに干された自分の下着が風に飛ばされ、相手のベランダに落ちてしまうとか、食べた食事の内容が換気扇を伝って分かってしまうとか。

そういった他人にあまり知られたくないような、知られたら恥ずかしいようなことが異性に知られるのがどうしても嫌だったのだ。

私はそうっと玄関先に行き、入居者の表札を確かめた。

アルファベットでN. A.Kamitakaと書かれている。残念ながら「かみたか」さんが女性なのか男性なのかはこの名前からは判別がつかなかった。

博物館のある駅までは一時間半、自転車を漕いで行く。電車賃の節約のためだ。

いろどり団地は市街地からは少し離れ、いまだ手付かずの自然が残されている場所に、ひっそり建っていた。

団地の脇の水路には、水車を置けば勢い良く回りそうな山からの伏流水が、ほとばしる音を立てて流れている。太陽光の強い夏などはあちこちの場所で小さな虹を作るほどだ。

野生の猿や猪たちが縄張りを作る場所でもあり、近隣の果樹園や畑には、けもの除けの柵が建てられている。

時折、山歩きのハイカーたちのグループとすれ違うぐらいで人の気配はほとんどない。

ブナやカシワの深い青葉で陽ざしを遮られた遊歩道には、湧き水が山から染み出し、ところどころが窪んで水溜りになっていた。

柔らかい湿った落葉や木の匂いがかもし出す清浄な空気はふるさとの里山の匂いと似ていた。

コロニアル屋根の風見鶏が潮風をつかんで思いのままの運動を描く様子が目の前に現れると、そこで遊歩道は途切れ、住宅街に出る。

光に目が慣れたその時、自転車が何かを踏んだ気がした。それは踏んじゃいけない神聖なもの、あるいは言霊の宿る何かと思われた。

私は自転車を降り、ノートを拾い上げた。詩集のようだった。赤いリングで巻かれたノートの表紙には、lUNAE《ルーナエ》LUMEN《ルーメン》(月光)と書かれてあった。私は表紙をめくった。


Isolation ―春

キーツが嫌い

ヴィヴァルディが嫌い   

ボッティチェリはもっと嫌い

感受性なんていらない

私は叫ぶ

放っておいて

ひとりが好きなんだから


2ページ目にはこう書かれていた。

タイトルはない。


わたしはそこを永久とわという

扉の奥に隠された煉獄の

炎が揺らぐその場所に

導きたまえ我が体を

沈黙のまだ明けきらぬしじまに

息こらす我を 

君いまだ見ぬか


屋根裏から淡い三日月を見る頬づえをついた女の子のイラスト。

何を思い、何に悩み、これを書いたのか。

背後で若い女の気配がした。

私は振り返った。

田嶋ハルさんだった。

「か、返してください。それは私のです」

巣から蹴落とされたヒナのような、か細い声だった。これから先、もしかしたら一生笑うことなどないだろう口もとを、白い綿シャツの袖で押さえている。ほっそりとした手首からはためらい傷がのぞく。

私はハルさんの手をとり「たったいま拾ったのよ。ここで」といった。

彼女は読んだのですか?といいたげな表情をしたが、何もいわずノートを奪い取り、走り去っていった。

私は横倒しになった自転車をもとに戻し、ハルさんの後姿が見えなくなるまで歩道を押して歩いた。

閉館まぎわの博物館はひとけもまばらだった。私は入館料を払って中に入った。

そこはフロアーごとに古代から現代までの地球の姿や、生物の進化の様子がわかるような展示になっていた。

模型やイラストのほかにアンモナイトや三葉虫の化石が並んでいた。

縞状鉄鋼層やイスア礫岩が展示されているのは5階の特別展示室だ。

部屋の入り口の脇には女性がいた。特別展示なので別にチケットがいるらしい。閉館時間まであと10分。私は急いで特別展示を見るのに必要なチケットを別に買い、ふたたび5階まで戻った。しかし扉にはすでに鍵が掛けられ、中に入ることは出来なかった。

私は扉に耳を押し当て、中の様子を窺おうとした。空調の音もやみ、静まり返った部屋の中からはコトリとも音がしない。

「お客さん」ふいに誰かに呼ばれ振り返った。警備員の男性だった。不審者を捕らえたような目で彼は私を見た。

「閉館時間です」冷たい声と表情だった。私は二枚の半券を握り締めて「まだ何も見ていなくて」といった。

「たまにいるんですよねぇ。閉館時間ぎりぎりにやってきて、ごねる人が」自業自得でしょう、といいたげに私を見た。

彼の声は乱れたノイズにしか聞こえなかった。イーコスのテレパシーがそれにかき消されるようなことになりはしないか、心配だった。

「お帰りはあちらです」警備員はEXITと書かれた非常階段を指差して私に出るよう促した。ペンローズのだまし絵の階段のように、降りても降りても永遠に出口にたどりつくことが出来なければいいのに。

たぶん階段を降りたら二度とここには戻って来られない気がする。

私は湿気臭い階段の途中で座り込んだ。

警備員が立ち去ったその時、私の体は動いた。夢中で階段をかけ昇ると特別展示室の前に来た。中にいるであろうイスア礫岩のイーコスに、部屋の外から話しかけた。

彼は隠れ鬼をしている子どものように息をひそめているようだった。

「ようやく会えてうれしい。ドア越しだけど」かすかだが、イーコスの呼吸をテレパシーで感じることができる。彼はイスア礫岩の中にいると確信した。

私は鼓動が早まるのを感じた。

「最近知ってびっくりしたんだけど、あなたのふるさとは、ほとんどが氷で覆われていて、その氷はいままで溶けたことがないって、本当?」私はそれを知った時の驚きを早口に伝えた。

「私のふるさとは、春が近づくといろんなところから音がし出すの。雪や氷の溶ける音。芽吹きの音。動物たちが目覚める声……」

「この街にやって来たのは、生き別れた父を探し出すため。探すあては今のところ何もない。運よく探し出せて父に会えたとしても、そこからがまた大変。父は私に心を開かないかも知れないし……いろいろと考えたら私って無茶なことをしてるわよね」

「もしあなたが何かに傷ついているのなら、私でよかったら話を聞くけれど。私たち、仲良くなれない?」

私は彼の神経を逆撫でしないよう、驚かさないよう、言葉を選んで話をしたつもりだったが、イーコスは押し黙ったままだった。

その時、背後に人らしき影を感じた。

警備員ではない若い男の人だった。暗がりで彼の顔はよく見えない。床に座り込んでいる私を見て、「イスア礫岩を見に来たんですね」と当たりまえのようにいった。

地層や岩石に夢中になる人間は皆、善人だと思っているような口ぶりだ。

「イスア礫岩に魅了される女性、けっこう多いんですよ。反対に縞状鉄鉱層は男性が多いかな」彼はそういうと、出口に案内しますよ、といった。私は懐中電灯に照らされた足元を一段一段降りていった。

一階の職員専用出口には先ほどの警備員がいた。私を見るなり、「あんた、まだここにいたの」と呆れ果てていった。

外はすっかり暗くなっていた。

「ご苦労様。五十嵐くんはもう帰ってもいいわ」アーシャ先生の声だった。

若い男性は五十嵐隼じゅんといい、先生のゼミの学生だった。人に好かれるような子犬のような一途で素直な性格が、表情に表れていた。

今回の特別展示にはK大学地質科学学科の学生数人がサポーターとして派遣されていた。五十嵐さんは私に「今度は開館時間内に来てくださいね」と笑っていった。

「ご迷惑をお掛けしました」私は頭を下げ謝罪した。

萌黄色のサリーを身につけた先生は、私を叱るどころか、穏やかないい方で「イスア礫岩と交流はできましたか?」といった。

「残念ながら嫌われているみたいです私」「イスア礫岩に限らず、地層や岩石のなか

なか人を寄せ付けないところが、かえって魅力的だという人もいますけれど?」と先生はいたずらっぽく笑って、大学に戻っていった。

外は春霞がかかり、月はぼんやり浮かんでいた。私は自転車を押しながら、あれこれ考えていた。 

父にしろ、イスア礫岩にしろ、どうして私の求めるものは、難しいもの、手の届かないものばかりなのだろう?

志や理想が高いといわれれば、それもあるかも知れないとも思うが、たぶん、私自身の自己評価が低いせいもある。

親にしろ、学校にしろ、友人にしろ、今まで自分のありのままの姿を、彼らにすんなり受け入れられた経験が少ないためだ。人に頼らなくても生きていけると虚勢を張っている偏屈屋そのものだったから皆、近寄りがたかったのかも知れない。

あくる日、私は熱を出した。

この団地に越してきて初めてのことだ。

頭には氷嚢をあてられ、強制的に寝かせられた。森島ミドリさんはかいがいしく私の世話をした。

「風邪だから二、三日休めば良くなるとお医者様もいわれましたから、今日明日はゆっくり休みましょう」

「すみません」

「気にしないでください。お互い様です。何か欲しいものはありますか?」

「いえ、今のところ何も」

「では、何か用があればいつでもこのロープを引っ張って、私を呼んで下さい」ミドリさんは三階の私のいる部屋のベランダから一本のロープを下まで垂らし終えると、帰っていった。天井には滑車、ロープの先には大きな鈴がついている。

私は感心した。なにより彼女の手際がいいことと、手先が驚くほど器用だということに。

二時間ほど眠った。枕元の水差しから水を注ごうとしたが、空になっていた。水ごときで申し訳ないと思いながら、ミドリさんが設置してくれたロープを引っ張ってみた。耳を澄ましてみたが、ロープの先にくくりつけられた鈴が鳴っているかどうかは分からない。

しばらくして玄関の扉が開いた。

 「喉が渇いてしまって……」私は体全体で息をしていった。

 「これに注げばいいかな」

ミドリさんではない。若い男性の声だ。

 「な、何ですか、あなたは!じょ、女性の部屋にいきなり入って来て!け、け、警察を呼びますよっ!」私はロープを何度も引いて助けを求めた。ミドリさんが急いでやって来た。

 「今、見知らぬ男が部屋の中に!」体の震えは止まらない。

少ししてその男はたっぷり水がはいった水差しを抱え、戻って来た。

「誰かと思えば。神鷹くんではないですか」ミドリさんはいった。

この親切な男性は、ノエマ・アレン・神鷹さんといって、昨日、南アメリカから日本に来たばかり。神鷹さんのお父様はアーシャ先生が研究する地層学の共同研究者だ。

2号棟505号室の五十嵐さんとは同じK大学の学生さんだ。神鷹さんは、私の住む部屋の下、1号棟205号室に越してきた。今、現在は勉強より、ロック・クライミングに傾倒しているらしい。

彼が部屋で本を読んでいたら、目の前に一本のロープがたわんで揺れていた。張りのないロープを見た彼は、登攀者に危険が及ぶ状況と考えた。まさか団地を登る輩などいないとは分かっていながらも、本能的に体が動いた、驚かせてごめんなさい、と申し訳なさそうに彼はいった。

私はコップに注がれた透き通る水をひとくち口に含んだ。ほのかに甘く、森の薫りが口いっぱいに広がった。

「美味しい」私は驚きいった。

水は全身の細胞ひとつひとつに沁み渡ってゆくように感じた。

「布引の湧水ですね」ミドリさんはいった。

不思議ミラクルなパワーを秘めた湧水のことは海外まで知れ渡っています」彼はいった。

布引の湧水とは六甲山の地中深くから湧き出す天然水のことだ。過去、外国船の船員がこの湧水を持ち帰り、その後も長い航海を続けたが、どんなに時間がたっても腐ることはなかったという逸話がある。

神鷹さんは私に握手を求めた。

ホールドといって、岩のわずかの出っ張りや、窪みに指を入れたりかけたりして体を支持、保持するロック・クライミングの技がある。彼の指先の皮という皮がめくれ上がっているのはそのせいだった。

狭い岩場を難なくすり抜けることができそうな引き締った体形、涼しい口元には意思の強さが表れている。

大地を思わせる、豊かなかち色の肌や、空のように青く澄んだ瞳は、自然を相手にする人たちの持つ特徴なのかも知れない。

この湧水の出来事以来、神鷹さんと私は信頼のおける友人となった。

入居者が女性ではなく男性だったことは少し残念だったが、彼には不思議なくらい親近感を覚えた。ノエマという名前が同じだったこともあるのかも知れない。

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