カルテ9−2 踏み出したさきは

セルリアンはフレンズから疎まれ嫌われる存在。

その事実は、サキはその身をもって嫌という程理解している。多くのフレンズにとってセルリアンが不吉や死の象徴であるのと同様に、サキにとってもセルリアンという存在は自分の運命に降り掛かった呪いであり、孤独な過去そのものであった。今はそれも運命の一つと受け入れて入るが、この青い両腕を心から好きになれたわけではない。


だから博士を苦しめている病気がセルリアンの形質を帯びた腫瘍だと知った時、サキは恐らく生まれてはじめて激しい嫌悪の念を抱いた。ずっと心の支えになってくれていた博士の命を、今セルリアンが蝕もうとしている。その構図が許せなかった。


けれどサキは医師としての理性をもって、湧きおこる陰性感情をどうにか飲み込み、気分を落ち着けた。そしてもう一度改めて論文に向き合った。

さて、フレンズの組織からセルリアンが生まれるという事実は本当なのだろうか。サキはそう思った。論文である以上、主張を裏付ける根拠が必ず記載されているはず。サキは続きの記述に目を通した。


「FCCSの腫瘍は神経膠細胞が腫瘍化して発生すると考えられている。非常に特徴的な点は、たった一つの細胞が肥大する点にある。腫瘍細胞は単核であり、肥大の過程で神経組織に豊富に含まれるサンドスターを貪欲に吸収する・・・腫瘍細胞の細胞内代謝は活発であり、自身の老朽化した細胞質の一部を常に髄液中に排泄している。排泄された細胞質は髄液中で凝集し結石となる。これが髄腔を詰まらせFCCSに特徴的な頭蓋内圧亢進の発作を引き起こす。この発作は経過とともに増悪する。得られた症例においては、確定診断後1年以内に亡くなる場合が7割を占める。」


どうやらFCCSは一つの細胞に変異が起き、それがサンドスターを吸収し巨大な腫瘍になるというものらしい。そして博士の髄腔から見つかった小さな結石の正体は、腰部の腫瘍細胞から排出された細胞質が固まってできたもの、ということらしい。そして予後は極めて悪い。サキはなんとなく理解できたが、隣の助手はさっぱりな様子で目を細め同じ箇所を再度読んでいた。


問題は次の文章である。


「この腫瘍細胞の構造がセルリアンの持つ結晶構造に近似する。フレンズが動物の遺伝子とサンドスターが融合して発生するのと同様に、単核生物セルリアンも無機物とサンドスターの融合で生まれるという学説がある。そしてどちらも生存にサンドスターを必要とする。その意味ではフレンズとセルリアンは捕食被食の関係こそあれ紙一重と言える。FCCSの腫瘍は、サンドスターを多く保持し消費する中枢神経系の組織を形成する細胞のうちの一つが、ミクロのセルリアンと化し、利己的に周囲のサンドスターを吸収して肥大化している。そのようにも理解できる。」


この内容にサキも助手も言葉を失ってしまった。特に助手は信じたくないといった表情で眉間に深い皺を刻んだ。


「我々の体から、自然にセルリアンが生まれる?冗談じゃないのです!!じゃあ我々もまたセルリアンだというのですか?」


助手は怒りで拳を震わせた。


「・・・助手、一旦冷静に考えてみましょう。私達の体は37兆の細胞で構成されていて、その細胞一つ一つが命を持ち、生きています。生き物の身体は多種多様な細胞が相乗りし、協調してオールを漕いで進む船みたいなものなんです。37兆個のうち、たった一個が何らかの理由で変異を起こしてセルリアンのような性質を持つ腫瘍細胞になった、という話です。」

「つまり、我々フレンズの体を作る多くの細胞のうちの一個がバグを起こしてセルリアンぽくなってしまったと。決して私、イコール、セルリアンということではない。そういうことですか、サキ?」

「そういうことです。」


それを聞いて助手は少し安心したようで手の力みを解いた。


「とはいえ、たった一個のセルリアン的な腫瘍細胞がFCCSのような恐ろしい疾患を起こすわけです。私達にとって有害な事には変わりありません。ええと、次は・・・」


画面をスクロールすると続きのページが表示された。タイトルには”FCCS腫瘍細胞は奇特な性状を持つ”とある。


「FCCS腫瘍細胞は長らく硬質な性状を持つと考えられてきた・・・しかし、手術中に脊髄内視鏡で視認した腫瘍細胞はゲル様の流動性を持っていた。この性状の影響で、我々は腫瘍細胞を完全に摘除することができなかった。更に、体外に取り出すした細胞片は速やかに硬化した。

(中略)

検査により、このゲルのような腫瘍は一定量以上の可視光線に反応し硬化する性状を持つということが確認された。このように性状を変化させる形質は一部のセルリアンにおいても確認されている・・・これは本当なんですか、助手?」

「そうですね。確かにそういうセルリアンがいたという話は聞いたことがあるのです。セルリアンにもいろんな形質をもつものがいるのです。トゲトゲなもの、スライムのようなもの、巨大化するもの、果てはフレンズそっくりのカタチを持つものまで様々。」


助手は額に手を当ててしばし考え込んだ。


「光に当たると固くなる・・・水に浸かると固くなるセルリアンは過去にいたのです。それと似た特性を持っていると思うのです。」

「そういえば瓶に入っているマツリカの腫瘍切片は硬かったです。きっとあれを暗いところにおいたら柔らかくなるんでしょうか。」


なぜ腫瘍細胞がこのような特性を持ってしまっているのか、その理由は不明とされていた。だがこの奇異な特性が、ユウホの手術を失敗させマツリカの命を奪ったことは事実であった。ユウホはマツリカの手術の時、脊髄内視鏡を用いた。背中を大きく切開して術野を直接観察して行う手術に比べ、背中に小さな穴をいくつか開けるだけで済む内視鏡は患者が受ける侵襲が少なく、術後の回復も早くなるという利点がある。マツリカはCHSという基礎疾患があり、侵襲の強い手術をすることができなかったという側面もあるかもしれない。だが、FCCSの手術に内視鏡を用いたことは結果として失敗だった。その点については反省として論文で詳しく触れられていた。


「内視鏡に使用されている照明器具はごく小さなLED。LED程度の弱い光では腫瘍が固まらずゲル状のままだった。柔らかく崩れやすい腫瘍を内視鏡で切除することは困難である。完全に切除できなかったり、髄液中に腫瘍細胞の断片を播いてしまう可能性がある。マツリカが術後に再度FCCSの発作を起こしたのは、術中に髄液中に撒かれた断片が次第に再凝集し、大きな塊となって髄腔を詰まらせた。そういうことなのかも。」

「とにかく、岬医師のやり方ではダメだったということなのでしょう?」

「そうです。この点を踏まえて作られたのが論文のタイトルにある”髄液濾過交換術を併用したFCCSに対する根治的手術療法”という手術方法なんだと思います。そして・・・おそらくこの手術法が博士を救う道筋となるはずです。」


サキは更にスクロールバーを下へとすすめると、ようやくその手術法が書かれたセクションが現れた。手術法は大量の記述、豊富な図表と多くの引用論文を用いて非常に詳しく書かれていた。サキは食い入るように画面を覗き込み、ユウホが綴った手術法を無心に読みこんでいった。

途中、退屈した助手が何度か尋ねてきたようだったが、サキが全く気づかず論文に釘付けになっていたので隣の椅子に座り寝入ってしまった。

論文と向き合って3時間ほど経った頃、ようやくサキは画面から目を離した。短時間で多くの、しかも未知の知識を脳に流し込んだため少し頭痛を感じた。この論文はユウホが身を捧げ取り組んできた研究の集大成の論文である、たった一度粗く読んだだけで全てを理解することなど到底できない。実際サキの頭の中では夥しい数の未知なる知識が無秩序に渦巻き飛び交っていた。けれどこの論文からサキは一つ、理屈抜きにハッキリと感じ取れる直感を得た。


(この方法ならFCCSが克服できる!)


脳内に走った閃光によってサキは椅子から飛び起きた。


「む・・・何かわかったのですか?」


サキが立ち上がった気配を感じて助手が目を覚ました。助手は眠そうな目でサキの顔を覗き込み、その顔に自信の色があるのを見て、期待を込めニヤッと笑った。


「どうやら手がかりがつかめたようですね。」

「細かいところはこれから検討しなければなりません。ですが、ユウさんが遺したこの手術法がきっと博士を救ってくれるはず、私はそう思います。」


サキはそう言って助手に笑い返し、またパソコンに視線を戻した。助手にも言ったが、この論文の手術法が本当に有効かどうかは今後熟慮すべきだろう。

まずサキがすべきことは、博士が本当にFCCSかどうかを調べることである。FCCSの診断ガイドラインは未だ定まっておらず、論文で記載されているいくつかのFCCSの症例の所見や検査結果と比較し判断するしか無い。サキは論文からFCCSの診断に有用と思われるいくつかの検査をピックアップしてみた。


「腰部MRIは必須。T1強調MRIでL2周辺に低信号な結節影があること。次はほかの脊髄腫瘍を否定するためにFCCSに特異的な核種を用いたシンチグラフィー。シンチグラフィーで脊髄よりもサンドスターの吸収が活発であったらFCCSの可能性が濃厚になる。あとは髄液検査で、フェネックさんの時みたいにFCCSらしき組織片が見つかればいいのかも。」


うっかり”いいのかも”と言ってしまったが、果たして博士にFCCSという確定診断がつくことは望ましいことなのだろうかと気づきハッとなった。FCCSが無理なく治せる病気であったのならそれで良かったのかもしれない。だがFCCSは致死的な症候群であり、その治療も本当に有効かどうかは今は断言できない。サキ自身、仮にFCCSという診断をつけることができたところで、果たして自分の力で博士を治療しきることができるのかは非常に不安だった。


「助手、一つ変なことを聞いても良いでしょうか。」

「何でしょう。」

「仮に、検査をして博士がFCCSだと診断できたとします。その事実を知って、博士や助手はどう思いますか。」

「ふむ・・・」

「FCCSは見たとおり危険な疾患です。そしてその治療はまだ実施されたことのない最新の手術しかないわけです。その手術を私が執刀するわけです。そんな治療を私がすることに、不安を感じたりしますか。」

「随分と正直に言うのですね。まあ、博士がどう思うかは直接博士に訊くしかないでしょう。」


助手は呆れて苦笑いした。それからハッキリとこう答えた。


「ですが私は”お前に託す”とさっき伝えました。二言はないのです。」

「しかし、良いのですか?」

「博士が助かる道はそれしかないのでしょう? たとえ危険な疾患だろうと、効果が実証されていない最新の治療だろうと、その道の先に希望があるのなら我々はその道を選ぶのです。

それに・・・私はお前を信じることにしたのです。だからお前に博士を託した。博士はこのキョウシュウエリアを統べる長であり、私はもちろん、このエリアのみんなにとって大事な存在なのです。そんな博士を信用できない医者に任せますか?」


サキを見つめる助手の眼差しは鋭かったが、どこか博士の目に似た温かみも感じられた。


「博士を治して欲しい。それが私の望みなのです。その望みを叶えてくれるのはこのジャパリパークでお前一人なのです。やばい病気だとか、最新で未知の治療だとか、そんなのは言い訳なのですよ。お前がすべきことは、博士が治る確率を最大限まであげることだと私は思うのです。人事を尽くして天命を待つ。私がお前に望むのはそういう姿勢なのです。」


助手の指摘は的を得ていた。未経験の治療、手術、その言葉の重みにいつの間にか臆されていた自分がいた。確かにそんなものは言いわけだ。患者にとって医者は自分ひとりしかいない。そのたった一人の医者が二の足を踏んでいたら、患者を救うことなど出来はしない。

私がすべきことは、博士を治すために最善を尽くすこと。そして最新治療という誰も踏み入ったことのない領域を切り開き、みんなにとって、そして私にとって大切な人の命を救うことだ。


「助手、ありがとうございます。私は少し勘違いしていました。」

「そうですか。私も博士も、医師サキというフレンズを信じているのです。」


助手がニコリした笑顔を見せてくれたのがサキは嬉しかった。サキが一息ついて座り直そうとした時、白衣の中のPHSがピリリリと鳴った。ヒイラギからの連絡だった。


「あ、サキさん。博士が目を開けたよ。挿管しているから発語はできないけど、こっちの問いかけには反応する。」

「わかったわ、そっちに戻る。連絡ありがとう。」


電話を切り博士が目覚めたことを助手に伝えると、助手は目を丸くし今すぐ戻ろうとサキを急かした。サキはパソコンのパスワードを忘れないように付箋にメモし、パソコンに貼り付けてから地下研究室をあとにした。



「博士!!」


ICUに入るなり助手は叫んで博士のベッドに駆け寄った。ベッド上の博士はやかましいとでも言いたげに苦笑いして助手とサキを迎えてくれた。サキは博士の顔を覗き込んでニコリと笑いかけた。


「博士、私が誰だがわかりますか?」


博士は顎を小さく動かして頷いた。


「呼吸はできていますか?」


また博士は頷いた。サキは人工呼吸器のモードを設定し直し、また博士に向き直り、いくつか身体所見を取り、採血をした。その上で、博士は意識は回復したものの、まだ十分に会話が可能ではないと判断し、次の朝まで経過を見ることにした。


そして次の朝、博士は麻酔薬が完全に抜け意識が十分に清明になった。呼吸機能も戻ったのでサキは博士の挿管を取り外した。博士の血色はよく、頭に入ったドレナージ管が気になる以外は気分も良いようで、朝食は経口で摂ることができた。


「なんだか不思議なのです。昨日の昼間に意識が飛んだことが嘘のようなのです。」


博士は凝った背中をうんと伸ばし、窓の外の晴れた空を仰いだ。


「頭蓋内圧亢進という病態は、いったん脳圧が下がれば速やかに治るものなんです。今はその頭の管から過剰な髄液を排出して、脳圧が上がるのを防いでいます。」


サキがそう説明すると博士は頭から伸びるドレナージ管を不思議そうに持ち上げ揺らした。それから真面目な顔つきでサキに相対した。


「まさか助手に続き私までお前の世話になってしまうとは。ともかく助けてくれてありがとうなのです。命拾いしたのです。」

「いえ。私は医者として当然のことをしたまでです・・・というのは建前で、本当はなんとしてでも博士を助けたかったんです。私はもちろん、ヒイラギや助手もそういう気持ちでした。助手にはなんとしてでも博士を助けろって叱咤されました。」

「ほう、そう言ってもらえるのは嬉しいですね。ねえ、助手?」


博士がニヤついて助手の方を向くと、助手は恥ずかしそうに顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。そんな助手の態度を博士はかわいいと思ったのか博士は余計にニヤニヤと笑っていた。


「全く、生意気な助手なのですよ。これが次期の長の候補かと思うと他のフレンズが気の毒に思えてくるのですよ。」

「やかましいのです。そんなにペラペラと喋れる元気があるのなら早く病気を治してしまうのです。」


そう言われて博士は息をつき、そしていつもの真面目な表情になった。


「サキ、一体私はなぜこのような事になってしまったのですか。意識が消え、呼吸ができなくなる。あのような苦しみは流石にこれまで味わったことのないものなのです。私の体には何が起きているのですか。」

「はい。今わかっている範囲でご説明いたします。」


サキは博士により近いところに座り直し、腿の上にカルテを開き説明を始めた。博士が突然倒れた原因、そしてその原因をつくった原疾患がFCCSである可能性があるということ、そしてその診断法と手術について。できる限り簡潔かつ正直に博士に伝えた。


サキの話を一通り聞いて、さすがの博士もすこし黙り込んでしまった。しかしうろたえているようには見えず、ひたすら何かについて考えを巡らせているような様子だった。その末に目を瞑ったまま天井を仰ぎ、ぼやくように言った。


「ふふふ、面白い運命なのです。調べていた謎の病気に自分が罹ってしまうとは。さて、私はどうすべきか・・・」


博士は目線を少し上に向けて、少しの間考えた。


「サキ、いくつか質問があります。私がFCCSだと診断できたとして、手術以外の治療法は無いのですか?」

「FCCSで最も注意すべき症状は、この頭蓋内圧亢進発作です。薬やドレナージで脳圧をコントロールできれば発作を起こりにくくすることはできます。ですがそれはあくまでも対症療法です。過去の症例を見るに薬剤やドレナージだけでは生命予後は改善しません。」

「根治には至らないと。」

「はい。今博士の頭に留置しているドレナージ管ですが、それをずっと入れっぱなしにすると、その管を介して病原菌が脳に侵入し感染症を起こす可能性があります。特に髄膜炎は重篤な感染症で、FCCSに合併すると非常に危険です。つまり対症療法を延々続けることは、逆に予後を悪化させるのです。」

「時間稼ぎもずっとはできない。そして手術以外の有効な手段は現在無いと。厄介なのです。それでは次に聞くのです。論文に載っている岬医師の術式は実現可能なものなのですか。」

「考案者のユウさんはこの病院の医師でした。なので必要な機器や道具についてはここにそろっているはずです。執刀は私、助手はヒイラギです。最新の術式ですから私達も事前に十分な訓練をしてから手術に臨むつもりでいます。」


サキがきっぱり答えると博士は満足そうに頷いて微笑んだ。


「わかりました。それでは最後の質問なのです。お前はこの治療を最後までやり遂げる自信がありますか。」

「え・・・」


思わずサキは言葉に詰まった。世界初の症例に挑むのだ、今の時点で示せる自信などあるわけがない。最初はそう思った。しかしよく考えてみる、博士が私の口から聞きたい言葉とはそういう類のものなのだろうか。


いや、違うはずだ。


世界初だとか、経験が無いとか、そんなことは患者にとってはどうでも良いことだ。助手にも言われたことだ。患者にとって大事なことは”その治療法でたった一つの自分の命が救われるか”という点では無いだろうか。この治療をやり遂げればきっと元気になれる、幸せが取り戻せる、そんな希望があってこそ患者は医師が施す治療に辛抱強く付き合ってくれる。だからこそ患者は”治療への自信”と”決して見捨てないという覚悟”を医者に求めるのだ。


博士は問うているんだ、私の覚悟を。たとえFCCSという難病が相手でも、ユウさんが遺したこの治療法を信じ突き進む。挫けず最後まで治療をやり通す。そして博士と共にこの運命に克つ。私はそういう覚悟を示さねばならない。


「・・・FCCSは確かに難しい病気です。ですがマツリカの献身とユウさんの熱意の結晶であるこの治療法は、FCCSという厳しい運命を切り開く道筋になると考えています。

医者は患者を治すのが仕事、けれどそれは他者の協力無くしては成し遂げられないものです。私のサポートをしてくれるヒイラギ、博士のパートナーである助手、そして治療の中心である博士。私を含めこの4人の意思がうまく噛み合って初めて良い治療ができるのです。私は、そしてヒイラギはあらゆる手を尽くして博士の治療に臨む所存です。博士、それから助手、私達と共にFCCSと闘いませんか。」


サキは真っ直ぐな眼差しで、自分の意思を臆することなくハッキリと伝えた。博士はちょっと目線を外して考えを巡らせる素振りを見せた。


「ふむ・・・サキはこう言っていますが助手はどう思いますか。」

「は?私の意見が必要なのですか?」


突然尋ねられて助手はうろたえた。


「サキの話を聞いていなかったのですか。私の治療にはお前も重要な役割があるのですよ。それは、”お前がいる”ということが私が”死にたくない”理由の一つだからなのです。」


助手は怪訝な顔をしたが博士はいたって真剣な目つきだった。


「無論、私はまだ死にたくない。死にたくないと思うだけの理由があるのです。それは群れの長という責任あるポジションのこともありますし、まだまだ多くの知識を吸収していきたいという貪欲な知識欲や好奇心のせいでもあったりします。それらは私にとって大事なものなのです。ですが、もっと大切なものがあると気づいたのです。

サーバルがサキに治療拒否の意思を伝えた時、サーバルはたしかこんなことを言っていたのです。


『死にたくないと思う理由。それは、私の死を悲しんで、泣いてくれる人が近くにいてくれるから。』


ふふふ・・・まさかサーバルから学ぶとは。私は少々人望を集めすぎてしまったのですよ。いかんせん大切にしたい人たちとの繋がりが多すぎるのです。サキ、ヒイラギ、お前たちも其の中の一人です。それから助手。お前は憎らしいやつなのです。人をちまいだの非力だの散々コケにしておいて、そのくせ私の後任になりたいと。長など10年早いのです。けれどお前は私の元を去ろうとは一度もしなかった。文句や憎まれ口こそ叩くものの、ずっと私についてきてくれた。お前の存在があったから、私は毎日退屈せずに済みました。」

「突然何てこと言うのですか・・・」


助手は怒ったように言うが、その声色は涙のせいで震えていた。


「全く、本当に、憎らしい。そんなお前といる日々が私の何よりの幸せなのです。」


博士はそう言って俯く助手にニコリと微笑みかけた。助手は何も言わず、ただ肩を小さく震わせていた。


「多分私が死んだら助手は今よりももっとひどい顔で泣くと思うのです。私はそんな顔はできれば見たくない。見るにしても、それはずっと遠い未来がいいのです。」


それから博士はサキに向き直りまた微笑を浮かべ言った。


「運命を切り開くには一歩を踏み出す勇気を自ら持たねばならない。しかしいくら私といえど今度ばかりは緊張するのです。なにせ自分の生命と幸せが懸かっているのですから。」


サキはこくりと頷く。博士はまた少し考え込んでから二、三度深呼吸をした。そして博士はゆっくりと頭を下げ、サキに告げた。


「サキ、私を助けて下さい。それが確率不明の治療法だとしても、私はお前の選択を信じ、お前とともにこの邪悪な疾患に立ち向かうのです。」


顔を上げた博士の真面目な顔を、どんな表情で迎えればよいのかサキにはわからなかった。これまでサキは何度も博士に支えられ、その度に再び前に進む勇気をもらってきた。言うなれば、サキにとって博士は父親のような存在だった。今サキはその博士から頼られ、「助けてほしい」と頭を下げられている。これまでと真逆なこの構図が、サキにとってはなんだか不思議に感じられた。そして博士から頼ってもらえるくらいにまで自分が成長できたことがが嬉しかった。サキは自ずと表情をほころばせ、そして答えた。


「博士にはこれまでいっぱい助けてもらいました。今度は私がその恩を返す番です。全身全霊を捧げて治療にあたらせていただきます。」




その次の日からサキは博士の全身検索を行い、結果腰部に腫瘍らしき影がみとめられた。シンチグラフィではFCCSに特徴的な吸収像が得られ、頭蓋内圧亢進を起こす脳腫瘍などその他の疾患も除外された。何より、博士から見つかった結石を結晶解析機にかけた結果、それがマツリカの腫瘍切片や論文の病理画像とよく近似するという結果が出た。


「博士、各検査のデータを見てみました。結果、FCCSという診断になりそうです。」


サキは毅然とした態度で事実を伝えた。


「そうですか。予想通りだったのですね。」


博士もそこまで動じることなく頷き、手帳を取り出してメモを用意した。


「問題は治療可能なのか、というところなのです。どう思うのですか。」

「はい。これを見て下さい。」


サキはディスプレイを操作してMRIの画像を再構成して作った博士の腰部脊椎周辺の3Dモデルを表示させた。モデルをぐるぐると動かして第2腰椎の脊柱管内が見えるようにする。そこには硬膜と脊髄実質に接触する長径1〜2cmのFCCSの腫瘍像があった。


「こいつですか。セルリアン腫瘍というのは。」


博士はペンで画面上の紡錘形の腫瘍像を指し、睨みつけた。


「はい。一見脊髄に浸潤しているようにも見えますが、FCCSは良性腫瘍なので、あくまでも接触しているだけです。それで・・・どう手術していくかという話なのですが、ポイントは腫瘍を光で硬化させた状態で丸ごと取り除くことです。なので内視鏡ではなく、椎骨を割って脊柱管を開いて腫瘍を切除するという直達手術でやることになります。」

「それが論文にのっている術式なのですね。ならば受け入れるのですよ。」

「ありがとうございます。脊髄というものは想像以上に細く脆い組織であり、手術にはかなりの繊細さが要求されます。細かい作業を行えるようにするため外視鏡や腫瘍蛍光マーキングといった補助機器を導入しますが、それでも執刀する私や手術助手のヒイラギは手術前に十分なシミュレーション練習を行う必要があります。その訓練に数週間はかかると思います。」

「それだけ聞くと悠長にも思えますが。」

「一つ私達に有利な点があるとすれば、FCCSは対症療法でなんとかコントロールできるという点です。ドレナージや投薬を駆使すれば時間稼ぎができるのです。」

「つまり一刻を争うわけではないということですか。」

「もちろんその時の状況に左右されますが、準備を整えるだけの時間的余裕は作れるということです。」


そう説明すると博士はそうですかと言って納得してくれたようだった。そして手術の暫定予定を一ヶ月後の9月下旬とした。

だがサキの闘いはこれから始まるのだった。手術の細かい段取りや合併症、使用する器具や薬剤の整理など、万全を期すために多くの事を考慮して行かなければならない。気が遠くなるほどの膨大な仕事量である。だがサキの覚悟はすでに決まっていた。自分は博士とともにFCCSに立ち向かうと決めた。ならばそのための努力は惜しまない。


なんとしても、この邪悪なセルリアン腫瘍を倒し、博士を助けるんだ。


かつてないほどの情熱がサキの心に渦巻いていた。



それから10日ほど後の8月の終わりの日、その日はフェネックの術後1ヶ月の検査の日だった。その日の朝早く、フェネックとアライグマは連れ立って病院にやってきた。サキはアライグマに検査は昼までには終わるはずだと伝えた後、フェネックをつれて地下1階に行きいくつかの検査を施行した。


「おかげさまで。だいぶ筋力が戻ったてきた感じがするよ。走るのも重たいものを持つのも苦しくなくなってきたよ。」


全ての検査を終えて診察室の丸椅子に腰掛けたフェネックは、指を何度も結んでは開いて嬉しそうにサキに言った。


「それなら良かったです。指の細かい動作で困ったりすることはありませんか。」

「たまに、木の実の殻を剥いたりする時にちょっとやり辛さは感じるよ。でもそういうところはアライさんが手伝ってくれるから困るってほどのことはないかな。むしろアライさんが今までより気にかけてくれることが多くなって、それが嬉しかったりもするんだよ。」


そう答えフェネックははにかんだ。サキはそんなフェネックを微笑ましく見守り、それから収集した検査結果に目を移した。


「血圧は薬でコントロールできていますね。電解質は基準内。MRAでは脳血管に破綻は見られず、コイルを入れた動脈瘤も軽度に収縮しています。術後経過は順調と言えそうですよ。私も安心しました。」


サキの話を聞いたフェネックは胸を大きく撫で下ろし、よかった、と顔をほころばせた。そして手を両膝の上に置き深く頭を下げて言った。


「先生、治してくれて本当にありがとう。先生は命の恩人だよ。」


1ヶ月前に意識混濁と片麻痺で搬送されてきたフェネック。あの時間違いなく死の淵にいた彼女が自分の治療でこんなに元気を取り戻してくれたのだ。サキにとってはそれが本当に嬉しく、また大きな経験値と自信になった。


サキはフェネックに何点か注意すべきことを伝え、数種類の錠剤を処方した。すべての術後献身メニューが完了したのは12時少し前だった。診察室を出るとすぐ前のソファーにアライグマが座って待っていた。フェネックの姿が見えるやいなや、アライグマはすくっと立ち上がりフェネックに駆け寄った。


「どうだったのだフェネック?何もなかったのか?」

「うん。先生の治療がしっかり効いたみたい。よかったよー。」

「そうか、それは本当に良かったのだ!」


アライグマは両手を上げて喜び、それからサキに厚く礼を言った。


「先生に一つ聞きたいことがあるのだ。フェネックのことじゃなくて博士のことなのだ。」

「博士について?」

「そうなのだ。待ち時間中に廊下で助手に会ったのだ。最近図書館が留守ばかりでみんな心配しているのだってアライさんが聞いたのだ。そしたら博士が病気に罹って入院していると言われたのだ。博士は大丈夫なのか?」

「大丈夫なのか・・ですか。助手からどこまで聞きました?」

「えふしー、なんとか、っていう病気だって言われたのだ。けどアライさんにはさっぱりわからなかったのだ。ただ助手の顔色から察するに軽い病気だとはちょっと思えなかったのだ。」


医者として、患者の情報を第三者に勝手に喋るのは憚られる。とはいえアライグマが長である博士を心配する気持ちも理解できる。サキはなんとか答えられる範囲で答えようと努力した。


「そうですね・・・端的に言うと博士は脊髄の病気なんです。アライさんが言う通り、軽い病気とは残念ながら言えません。ですが治療できる可能性はちゃんとあります。私達はその可能性を確かなものにするために、今いろんな事を調べているんです。」

「そっか。先生も大変だねー。よりにもよって博士の治療かぁ。」


フェネックの言葉にアライグマも頷く。


「うーむ。博士はみんなの博士だから、なんとしても助けないといけないのだ。先生にプレッシャーかけるみたいで申し訳ないけど、実際そういうことになってしまうのだ。」

「私は医者ですから、どんな患者でも助けたいという気持ちは平等に持っています。でも、確かに博士を救いたいという熱意は今までで一番かもしれないです。博士にはずっとお世話になっていますから。」

「アライさんたちも先生と同じように博士には何度か助けてもらっているのだ。だから博士が心配なのだ。博士が無事治ることを祈るのだ。」

「そうだねー。私達には博士を治すことはできない。それができるのはこのジャパリパークで先生だけ。でも私は信じるよ、先生なら博士の病気も治せるって。」

「そうなのだ! 先生はフェネックをすっかり元気にしてくれたのだ。きっと博士も元気にしてくれるのだ。」


そう言ってアライグマとフェネックはサキに「がんばって」と言ってくれた。サキはその場では当たり障りなく「ありがとうございます」とだけ返事したが、サキはその励ましがとても嬉しかった。それは、その言葉にはいい意味での”軽さ”や”自然さ”があり、サキがあまり経験してこなかった”何気ない友達との会話”のような感触が宿っていたからだ。じゃあねと言って二人が帰っていった後も、サキはしばらく二人がくれた言葉の余韻に浸りながら、サーバルとのおしゃべりの時の感触を思い出した。


サキはアライグマが座っていたソファーに腰を下ろし、頬に手を当てぼんやり考え込んだ。

共にこの運命に立ち向かうと博士は言っていた。一人では乗り越えられるかわからない困難でも、私やヒイラギや助手と力を合わせれば、乗り越えられるかもしれない。サキから見ても他の3人の存在があってこそ、FCCSの治療研究に前向きになれる。そして今アライグマとフェネックの二人がこの輪に加わった。二人の声援は私達が前に進んでいく力になるはずだ。


もし・・・この輪にもっとたくさんの人が加わってくれたらどうだろう。もっと大きな力が生み出せるのでは・・・


そんなことを一瞬思ったが、そうなった場合自分にかかるプレッシャーが余計酷くなると気付き、ブンブン頭を振って妄想を吹き飛ばした。


「第一、こんな私に声援を送ってくれるフレンズが他に何人いるだろうか。アライさんとフェネックさんだけでも奇跡なのに・・・」


二人の言葉が嬉しかったからってあんまり浮足立つのはやめよう。サキはそう自分に念じ、ゆっくりと立ち上がると、中断していた術式の検討へと急いで戻った。

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