カルテ6ー7 嬉しいも楽しいも二つ分 前編

崖下の発掘現場から出てきた予想外の“お宝”に博士と助手は身震いした。荷物を満載した車の事故現場であるならば、これほど多くの物品が埋まっていることも肯けるのだが、そうなると今3人が立っている場所でユウホが死んだということになってしまう。

(は、博士。本当にそうなのでしょうか。事故はあったとしても、実は生きているとか・・・)

(いや、あの崖の高さから落ちれば生身のヒトはひとたまりもありません。そもそもここで事故が起きというのも推測でしかないのです。ここで出てきた品物を調べて真相を突き止めるのです。)

声を潜ませて内緒の会話する二人を見てアライグマは不満げに訊いた。


「博士達、何を喋っているのだ? 何か大事なことなのか?」

「いえ、出てきたものをどうやって鑑定しようか博士と相談していただけなのです。」


助手は素知らぬ顔でとぼけてごまかした。


「アライさんは頑張って掘ったのだ。でも出てきたものは全部、アライさんにはイマイチピンとこないものばかりだったのだ。残念なのだ。」


肩を落としてしょぼくれるアライグマを見て博士は少し不憫に感じ、アライグマの肩をたたいて言った。


「お前の頑張りは我々も認めているのです。お前が欲しかったような“お宝”が出てこなかったのは残念ですが、それも宝探しの面白さなのですよ。

だいぶ日差しがキツくなって来ました。そろそろ撤退しましょうか。」

「それもそうなのだ。早く帰らないとフェネックが心配するのだ。」


アライグマは徒労感を吹っ切るつもりで強くはっきりと答えた。



「そっかー。結局いい物は見つからなかったんだね。」

「そうなのだ。空振りだったのだ。こういう日もたまにはあるのだ。」

「空振りはたまに、というか割といつものことだよね。」


フェネックは幸せそうにニコニコしながらアライグマの話に相槌を打っていた。


「それにしても博士達はいいものくれたねー。このシュワシュワしたおいしい飲み物、サイダーっていうんだ。すっきりする味だよ。」


フェネックのベッドの側にはサイダーの缶がたくさん入った段ボール箱が置かれていた。アライグマにとって何の収穫もなかったのが流石にかわいそうだと思った助手が気を利かせ、アライグマを病院に戻すついでに持って来てくれた物だった。


「これだけでも十分な収穫なのだ。フェネックもおいしいって言ってくれてアライさんは嬉しいのだ。はい、いっぱいあるからサーバルと先生とヒイラギにもあげるのだ。」

「わーい!ありがとうございます!」


アライグマは箱から缶を3本取って差し出したのでヒイラギは嬉しそうにそれに飛びついた。サーバルも缶を取り少しまごつきながらプルタブを引いた。一缶だけですよとサキが釘を刺すとサーバルは苦笑いしながら缶を口につけサイダーを少量口に含んだ。

振り返って壁時計を見ると午後21時30分、すっかり窓の外は暗く昼の暑さを忘れるような涼しい空気に満ちていた。


「そういえばアライグマさんはどうして宝探しが好きなの?」


何気なくヒイラギが尋ねると、アライグマは即座に答えて微笑んだ。


「それは楽しいからなのだ。苦労してお宝を手にしたときの快感はそれはもう格別なのだ。でも・・・」


アライグマは一度話すのを止めて隣のフェネックの顔を覗いて、それからまた続けた。


「宝探しを好きでいられている一番の理由は、応援してくれるフェネックがいつだって隣にいてくれるからなのだ。失敗した時は慰めてくれて助けてくれる、うまくいった時はうんと褒めてくれて幸せを分かち合える。ただ側にいてくれるだけで今日も明日も頑張ろうって前向きになれるのだ。フェネックはアライさんにとって一番大事な宝物に間違いないのだ。フェネックこそがアライさんの幸せなのだ。

もし今日いいお宝が出て来たら、絶対フェネックにプレゼントしようと思っていたのだ。お見舞いというやつなのだ。」


フェネックはアライグマの隣でじっと聞いていたが、次第に顔がだんだんと紅潮していき、ついには我慢しきれなくなって恥ずかしそうに息をついて顔を隠した。


「・・・そっか。ありがとねアライさん。私…すごく嬉しいよ。」

「アライさんこそ嬉しいのだ。フェネックと会えたからアライさんはこんなに長生きできているし、何より今とっても幸せなのだ。」


二人は互いに目を合わせ、それから一緒にクスクス笑い出した。仲睦まじい二人の笑顔に釣られてヒイラギも笑みをこぼした。ちらりと横を見るとサーバルもヒイラギと同じように微笑んで二人を眺めていた。


「いいコンビだなぁ、フェネックさんとアライさん。」


ヒイラギがサーバルの耳元でそっと囁くと、サーバルは瞬きをして同じように静かに返事した。


「うん。フェネックが元気になって本当によかったね、アライさん。」

「うん。二人はまるで“つがい”みたいだね。」


サーバルはちょっと驚いたように目を丸くした。


「確かにそうかも?フレンズって喧嘩しても結局みんな仲良しなんだけど、あんな感じに特別に仲の良い子たちは昔はそこそこいたなぁ、今もそうなのかもね。」

「そうなんだ!どんな子が仲よかったのかな?」

「えーっと、アフリカゾウとロスチャイルドキリンとか・・・他にも・・・」


5人もの人がいる病室は喋る声で満たされ、今までよりずっと賑やかだった。各々が楽しげにおしゃべりする中で、一人サキは遠巻きに立ち微笑ましく見守っていた。脳梗塞から回復し今までのように会話ができているフェネックや、すっかりヒイラギと打ち解けているサーバルを見て、サキは小さな達成感をしみじみ感じながらサイダーをちびちび飲んでいた。けれどふとした時、今自分が誰とも話さず、彼女たちの輪の外にいるのに気づいた。もともと自分から喋りにいく性格では無いが、その時は自分に話し相手がいないことが気になってしまい、その場にいるのが少し息苦しく感じられた。


(なんだか、もやもやする。)


サキは缶に残ったサイダーを勢いよく喉へ流し込んで暗いモヤモヤを押し流そうとした。けれど気分は晴れず、空き缶の口から覗く底と同じ暗さはそのまま残った。


(あれ、私、一人?)


えも言われぬ孤独感の為、微笑んでいた口角は垂れ下がってそのまま固まってしまってなかなか元に戻せなかった。

サキはトイレに行くフリをして、そっと病室から逃げ出した。


不思議なことに無性に一人になりたかった。暗い気持ちを抱えたままサキは階段を上り、気づけば屋上に出る扉の前にいた。今は夜、傘はいらない。サキは扉を開け屋上に立ち入った。


(とても綺麗な星空…)


台風から一夜開けた夜空の空気は澄んでいて、サキの心中とは真逆の清らかさを湛えていた。遠く平原の向こうの地平線からは天の川が天上に向かってまっすぐに伸び、その周りにはたくさんの星々が散りばめられた大小のガラスの欠片のようにキラキラと光を放っていた。

サキは壁にもたれかかり、そのまま腰を下ろして膝を抱えるようにして座り込んだ。息をのむほど美しい夏の夜空を見上げていると少しずつ気分が回復していくようで、ようやく自分の気持ちを整理する余裕が生まれてきた。


「疎外感、なのかな。わからないけれど私が一人ぼっちなことがすごく堪えた。一人ぼっちなんて慣れていたはずなのに。」


外気は大して寒くも無いのに表情筋は凍ったように動かず、口もきゅっと結ばれたまま戻らない。サキは抱えた両膝の上に顔をうずめて息をついた。


「私もみんなと話したかったのかな?みんなの輪の中に飛び込んで一緒に笑いたかったのかな?私はもともとこんな手足、気味悪がられて怖がられて、誰とも仲良くなれなかった。物陰に隠れて私を遠巻きに囲む他人たち、その輪の中心にはいつも一人ぼっちの私がいた。寂しかった。

それから博士に助けてもらいながら頑張って勉強して、いろんな患者さんと触れ合って来た。そのおかげで辛かった昔のことをあんまり思い出さなくはなって来た。でも過去は消えないんだね、サーバルさんに残ったミライさんとの記憶のように、心のどこかにずっと棲みついて、何かの拍子にふいと心に影を差していくんだ。


私、弱いなぁ。


寂しいな、寂しいよ。」


膝に瞼をぎゅっと押し付けてサキは久しぶりに泣いた。下の階にいるサーバルたちに聞かれたくなくて、声はなんとか押し殺した。



何分くらい顔をうずめていたかはわからないが、しばらく惚けて屋上に座り込んでいると、突然の羽音とともに屋上に誰かが降り立ったような靴音が小さく聞こえた。サキはびっくりして立ち上がり音のした方を警戒して睨んでいると、その方向からは聴き馴染みのある声色が聞こえて来た。


「ふむ、ちょっと遅刻してしまったようなのです。」


懐中時計をポケットにしまって歩み寄って来たのは博士だった。サキは慌てて目の下の涙の跡を袖で拭った。


「は、博士。どうして・・・あ、そういえば用事があるんでしたっけ。」

「何をボケているのですか、らしくないのです。それにどうして屋上に居たのですか。珍しいのです。」

「それはー、そういう気分だったというか。ほら、今日は星が綺麗ですから偶には外の空気を吸おうと思ったんです。」

「ふうん、まあなんでもいいのです。他のフレンズの目がない屋上に居てくれたのは好都合なのですよ。」


そう言って博士は背負っていた大きなリュックサックを電灯真下に置いた。そしてその側に屈んで、サキにもしゃがんでこちらに来るよう手招きした。


「我々は突然喋り出したラッキービーストと、その開発に携わった岬侑帆医師について独自に調査していたのです。その結果いろいろわかったことがあったのですが、一方でサキに聞かないとわからない “お宝”も見つかってしまったのです。なのでその“お宝”たちを今ここに持って来たのです。」


そう言って博士が指差すリュックサックは中身がいっぱいでパンパンになっていた。


「すごい量ですね、これらに今全て目を通すんですか?」

「そんな無理は言わないのです。ただお前にとっても興味深い内容であることは私が保証するのです。」


博士は元気に答え、さあ始めましょうと手を叩いた。


博士はリュックサックから色々なものを出して地面に並べていき、ついでそれらが何であるかを一つずつ説明し、それぞれについて博士が推測したことを付け加えていった。それらの博士の話をまとめると大体次のようになる。


***


普段フレンズと会話しないラッキービーストが突然喋りだした現象の正体は救急搬送のために作られたシステムであった。博士たちはそのシステムを設計したというユウホに興味を持ち、様々な記録や論文を調べていた。

そんな折、平原のはずれで一つのアタッシェケースが見つかった。そこに入っていたのはユウホが発表した論文の束、ペアンやコッヘルといった手術器具とノートパソコン、そして瓶に入った結晶のような切片。瓶には“14, Jan. 2058 crystalloid tissue MATSURIKA No.1”と書かれたラベルが貼ってある。

論文などから推測すると、研究者としてのユウホは“フレンズ脳脊髄晶質化症候群(FCCS)”という疾患の治療方法を研究テーマにしていたようだ。その研究に協力していたのがMATSURIKA(マツリカ)と呼ばれていたFCCSの患者フレンズである。しかしマツリカは治療のための手術を受けたが、術後1週間で死亡している。マツリカの死体の扱いについては不透明な点が指摘されている。

それから少し経った今日、アタッシェケースが見つかったところのほど近くで土砂崩れが発生し、崖の中から潰れた車が見つかった。博士と助手、それにアライグマが現場に赴いて周辺を調べた。車の近くで掘り起こされたものは、ケースに入った特注のモノポーラだった。これはユウホが発注したものだと思われる。

そのすぐ近くでアライグマが黒い鞄を見つけた。その中に入っていたのはPHS、ユウホのものと思われる手帳、それにユウホの職員証だった。

博士曰く、ヒトが全て退去したパークに職員証は本来存在しえない品物だという。職員証が残っている理由として考えられるのは、ユウホが鞄ごとなくしてしまい、それがそのまま残っていたという説。

もう一つの説は・・・


***


「ユウホさんがその崖下で死亡した・・・と、博士は考えているのですか。」


驚きを隠せないサキは職員証の入ったカードケースに何度も目線を落とした。擦れ傷と黒い土のような汚れが固着したプラスチックの職員証の表には「岬 侑帆」という記名と顔写真が載っていた。サキは顔写真の上についた埃を拭ってユウホの顔をじっと見た。写真の中には白衣を着て、髪を後ろで束ねた30〜40代くらいの女性がサキに向かって微笑んでいた。


「優しそうな先生だなぁ。ヒグマさんやツチノコさんが慕うのもわかるわ。」


ユウホの目尻は少し垂れていて、それが表情に柔和な印象を与えていた。患者を落ち着かせ、安心させるような、不思議な魅力が宿っているようだった。


「私も同感なのです。実際フレンズからの評判もとてもよかったみたいで、かなり愛されていたようですね。今でも古参のフレンズからは偶にその名を聞くことがあるくらいなのです。そのような医者がフレンズの尊厳を冒すような行為をするとは私にはあんまり思えませんが・・・事実としてそれを指摘する報道記事はあるわけで、どうにも不可解です。」

「きっと公表されていない事実があるんだと思います。医師には守秘義務がありますから。」

「なるほど、岬医師しか知り得ない情報があったと。また一つ謎が増えたのです。岬医師の手記が手帳などに残っていればいいのですが。」


そういって博士は数度頷いて懐から手帳を取り出しメモをとった。

サキが電灯の光に職員証をかざすと「Yuho Misaki, M.D」の文字が光を反射しホログラムのように虹色に輝いた気がした。それに顔写真の上にもいくつも掠れた傷がついていたが、写真のユウホはそれに構うことなくサキに向かって微笑んでくれていた。写真をじっと見ていると自然にユウホと目が合い、サキはユウホの瞳が持つ不思議な柔らかさに自分の意識が吸い込まれていくように感じた。


(きっとこの先生はみんなから愛されていたんだろうな。私だってこんな先生がいたらきっと好きになっていた。)


(私と全然違うなあ。)


同じ職業を持つユウホと自分をふと比べてしまったことで、さっきまで心に影を差していた疎外感が再びサキを襲った。ユウホに比べて自分はどうだろう。ユウホのように患者から信頼されているのだろうか、愛されているのだろうか、そう思った。

“医者の私”を信じてくれた患者たちはこれまでも居たし、今の患者であるサーバルやフェネックも私を信じ、治療に協力してくれている。

でも“私というフレンズ個人”を信じて、愛してくれた人たちは居ただろうか。多分、博士とヒイラギくらいだろう。博士が私のことをずっと気にかけてくれていることはとても嬉しいし、ヒイラギが病院から去らずに私について来てくれていることも本当にありがたい。私にとって本当に幸運なことだと思う。

だが、かつて嫌と言うほど味わった疎外感、寂しさは消えておらず、心の奥に潜んだままだ。

みんなに愛されていたユウホに嫉妬の感情を抱いたわけではない。ただユウホという人物を自身に重ねたことで自分の中に何か欠けた部分があると悟ったのだ。欠けた何かの正体は漠然としてはっきりとは見えなかったが、それでもサキの表情を再び暗くするには十分だった。


「今夜のお前は何かおかしいのです。困りごとでもあるのですか。」


いつの間にか博士は隣で腕組みしていた。サキは強がって大丈夫と答えたが博士は引き下がらず繰り返し尋ねた。


「お前のことだからまた一人で何か抱え込もうとしているようですね。私を信頼して話してみるのです。話すだけで少し気は和らぐものなのですから。」


鳥類特有の大きく深い色の瞳に圧されサキは観念して自分の未整理な心中をポツリポツリと吐露した。



途切れ途切れのサキの話を博士はただ黙ってひとしきり聞いてくれた。その後で博士は少し微笑みを向けた。


「それはいわば成長痛といっていいのです。サキ、お前はちゃんと医者としてもフレンズとしても成熟してきているのですよ。」

「はあ・・・そうなんですかね。」


変わらず鬱屈な顔のサキを見て博士はまたニコッと笑って説明を加えた。


「人が成長すると、それまで見えていなかったり、気づかなかったものが新たに見えてくるのです。サキは“疎外感”を感じたと言っていましたね。それは今まで気づいていたものですか?」

「病院で一人ぼっちだった時に嫌と言うほど。」

「いいえ、お前が本物の医者として生きる覚悟を決めた時以降の話です。医者として生き、いろんなフレンズ達と関わっていく間、今感じているような“疎外感”は感じていましたか?」


そう言われてサキはハッとしてこれまでのことを思い返してみた。思えば医者としての仕事を全うするために一生懸命で、一人ぼっちだった自分の過去など振り返っている暇がなかったような気がした。


「博士のいうとおり、一人ぼっちとか寂しいとかっていう感情を持ったのは随分久しぶりです。」

「そうですか。つまりお前は医者のフレンズとして立派に成長したのですよ。自分が選んだ医学という武器をモノにし、医者という誇らしいアイデンティティを確立するに至ったわけです。」


なんだかものすごく褒められている気がしてサキは小恥ずかしくなり顔を赤らめた。


「ありがとうございます。」

「うむ。ならば新たなステージに進むと良いのです。自分で選んだ“運命の切り開く方法”をやり通すために次は何をすれば良いのか、また考えるのです。」


新たなステージを決めろ。そんなことをいきなり言われても、今まで医者として独り立ちすることで精一杯だったサキには一体何を目指して進んでゆけば良いのかなかなか見通しが立たなかった。


「どうしよう博士、すぐに思いつかないです。」

サキの泣き言に博士は一度頷き、それからいつものような毅然とした表情でピシャリと言い切った。

「それは自分で考えることなのです。今お前が感じている不満足や希望と向き合い、少し時間をかけて決めてゆけば良いのです。

まあ、でもヒントはあげるのですよ。よく聞くのです。

我々が生きる以前にも大勢の人がいて、その人数だけ人生が存在しているのです。彼らはもう死んでしまっているので彼らの哲学や人生観を直接聞くことはできません。それでも幸運なことに、我々は彼らが残した本や歴史を通して彼らの生き方を知り、考え方を学ぶことができます。

サキ、お前はヒトの退去後に生まれたので自分の他に医者を知らない。つまり生き方のお手本になるような人物をお前は持っていない。だから今、生き方に迷い、どう舵を切れば良いかわからなくなっているのです。

お前は一度、誰かの生き方を学ぶと良いと思うのです。医者だったら・・・そうですね、エリザベス・ブラックウェルとか荻野吟子とか。

或いは岬侑帆という医師でもいいのです。」


そう言って博士はユウホの手帳をサキに差し出した。


「彼女はお前の直接の先輩で、お前にとって最も身近な医師なのです。知っておいて損はないと思うのですよ。

それに、岬医師と自分を比べて自分に何かが足りないと気づいたということは、今のサキにはない輝きを岬医師は持っていて、おそらくお前はそれに憧れているのです。きっとその憧れの裏側にお前が目指すべき目標があると、私はそう思うのです。」


サキは手帳を受け取り焦げ茶色の表紙を撫でると土埃の下にマジックで書かれた消えかかった”Yuho Misaki”の黒い文字がうっすらと見えた。ページをパラパラとめくるとページの紙には、汚れのほかに多くの走り書きがあるのが目についた。


「これを私に?」

「ええ。もともとサキにはこっちの瓶の中の結晶の解析と論文に目を通してもうのを頼もうかと思いましたが、せっかくなので手帳、いっそこのリュックサックごとここに置いていこうと思うのです。」

「でも、これらまるごと置いていって博士は困らないんですか?」

「コピーなどは既にとりましたし、大事なことはメモを取っているので問題は無いのです。必要があったらまた病院に来るのです。」


そう言って博士は並べた品々を丁寧にリュックサックに戻していき、最後にチャックを閉じてサキの足元に静かに置いた。


「手に持っているそれらも大事な“お宝”です、なくさないようにするのですよ。次に会うときには今のような精神状態からは脱していることを期待するのです。」


サキの手には職員証と手帳が握られたままだった。


「はい。自分なりにケリをつけてみようと思います。」


一応そう答えたが正直サキはまだ、博士が諭してくれたことを理解しきれていなかった。サキは今まで我流で足掻きながら生きてきた影響で、誰かの生き方を参考にして生きてみるのはどういうものなのか実感が湧かなかった。ならば習うより慣れろと言うように、一度ユウホの残した手帳や書類に触れてみて、それからあれこれ考えてみてもいいかもしれないと思い、博士に向けて頷いた。


運命を切り開くのは自分自身。最初に博士に言われた言葉だ。


ならば道の先を覆う暗い曇をどう切り開いていくか、これも自分自身で決めるものなのだろう。

最初から博士が私に言ってくれる言葉は何も変わっていない、今までのように博士は私を見てくれているんだ、そう思うとサキの心は少しだけ軽くなった。そしてサキの表情が少し晴れた時と同じタイミングで博士も少し目を細めた。


私、がんばって探してみるよ。新しい目標を。


自分自身の奥深くまで染み渡るよう、サキは心の中で固く誓った。


「さて、この話もぼちぼちおしまいにしましょうか。来客が来たようです。」

急に博士が背後を振り向いて言ったのでサキは何事かと驚いて博士の後ろに半身を隠した。しばらく何も無い暗闇を見つめ続けていると、その暗闇の方で重たいドアが開くような音が聞こえ、それから一人の足音と二つの車輪のカラカラという軽やかな音が聞こえてきた。


後編へ続く

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