第6話 過ごしてきた……独りの時間

 人には誰にも消したい過去というものがある。

「出来ればあの時に戻りたい」「あの出来事を無くしてしまえば、違う人生があったかもしれない」という事は、誰でも一度は思ったことだろう。

 しかし、過去があったから現在があるわけで、その過去が無ければその考えすらも思わなかっただろう。

 そして、その過去の失敗があるから人は成長できるものである。しかし、学生時代のトラウマというのはなかなか消し去れないのも事実である。


「えっとさ、実はね……俺小学一年生の頃、授業中にうんこ漏らしたことあってさ、それが原因でいじめられたんだ」


 隼人の場合、消し去りたい過去はこれである。

 トイレで用を足すというのは、人間であれば当然の生理現象だ。その排泄行為に至るまで我慢が出来ず、不浄な行為をしてしまったのだ。

 これが赤ん坊であればそれを咎める者はいないだろう。しかし、それなりに我慢が出来る年齢になったのならば、かなり非難されるに違いない。

 特に小学校でのそれは、何故だか理解できないが学年中から犯罪者の様に扱われる。もし「あいつ、この前トイレでうんこしてたぜ」なんて誰か言おうものなら、その二時間後には学年中に伝播し「便所魔王」などのニックネームがつくかもしれない。

 いや、「西園寺菌」というものまで発生するまで可能性としてはありうる。


『でもそれって小学生の話でしょ?』


 そう、確かにそれは小学校の頃の話である。しかし、小学校の頃の噂というものはなかなか消えないものである。

 そして小学校で発生した出来事というのは意外に引きずるものである。


「でも中学も基本的には、同じ小学校から上がる奴が多いでしょ? そしたらその事件を知ってる奴も多い」


 このように隼人の場合、小学校の最初に犯したツケが中学になってまで消えないという現象も起きるだ。


『あぁ、だから中学でもいじめられるって訳ね!』


 それを聞いた花子が納得した表情で頷く。


「そういう事。それで誰もいないこの学校を選んだんだけど……」


 ――そう。だから誰もいないこの学校を選んだんだ。偏差値はかなり高く、俺の学校の生徒はよ程の勉強家でない限り、合格はしないだろう。ここまでは狙い通りだった。でもその計算に狂いが生じた。


 隼人の表情に暗い影が生じ、その変化に花子が気付く。


『うん?』


 再び細い首を傾げ、花子が隼人と視線を合わせる。


「小学校の六年と中学校の三年で合わせて九年。その間、異性と口を聞いたこと一回もないんだ。性格が歪むには十分な時間でしょ?」


 ――これでもう俺のこと嫌いになったよね? だから俺をこの状態から解放してくれないかな。こんな男と関わるとあなたもいじめの対象になるよ。おっと、もう幽霊だからいじめる奴はいないか。でも俺と関わろうとは思わないでしょ。


『歪むっていうのは言い過ぎだと思うけど、なるほどねぇ』


 隼人の独白を聞き、花子が得心したように頷く。


「ん? 笑わないの?」


『笑う? どうして?』


「だって……」


 ――あれ? いつも俺が受けてきた仕打ちとは違うぞ。大体この話をしたらドン引きされて、翌日から声を掛けても気まずそうに離れていくのに。なんなら話の途中から逃げ出すまである。


『そんな小学生の頃なんてどうでも良くない? 私もそうだけど、過去を嘆いても変えられないんだよ。そしたらこれからどうするか? でしょ?』


 ――まぁ確かにそうかもしれない。いや、それにしても、


「説得力ありすぎるよ」


 ――幽霊の花子さんが言うと、『どうやって成仏していくか?』若しくは『どうやって存在していこうか』に聞こえるんですけどね。


『でも、その経験があるから隼人は優しんだね』


「優しい? 俺が? 言われたことないよ」


 突然の花子の『優しい』という言葉に疑問を浮かべ、目を大きく見開いてから自分を指差し、その後に顔の前で手を振って否定を示す。


『そうなの? でもこうして私と話してくれるじゃない?』


「まぁ、それは……ね」


 ――別にそれは優しいとか関係ないと思うんですけど。俺だって出来れば幽霊とは関わりたくない。でも、目の前にいるのが幽霊らしくない幽霊ならば、普通に話せなくもない……のか?


『……隼人』


「ん?」


 頭に浮かんだ疑問を解消しようとしていた隼人に、優しく花子が名前を呼ぶ。そのことに口をポカンと開けて間抜けな声を出す隼人である。

 その隼人の様子をクスリと笑ってから花子がまた口を開く。


『人が優しく出来る理由って知ってる?』


「ほえ?」


 花子の質問に再び間抜けな声を上げ、隼人が首を傾げる。


 ――優しく出来る理由? そうだな、それは季節や天候によるんじゃないか? 例えば清々しいほどの快晴だったり、今みたいに温かい春の陽気だったりしたら、人は自然と優しくなれると思うけど……いやいや、そうじゃない。その人が優しいかどうかなんてのは、その人の性格によりけりだ。


『人はね、自分が辛い目に合わないと、他人に優しく出来ないんだよ! 隼人のその原因があったから、今こうして私と話せるんでしょ?』


「まぁ確かに。その事件が無ければこの学校を受験しなかっただろうしなぁ……」


 ――そうだろうなぁ。辛い目に合うとか合わないとか、その辺は分からない。でもその人の性格ってのは、歩いてきた道に左右されるわけだし。ってことは、今まで他人から優しくしてもらったことが無いから、そもそも俺は優しくないんじゃないか? 花子さん、あなたの目は節穴ですか?


『そこで問題! 私と出会えて良かった? それとも悪かった?』


 自分の事を卑下する隼人に、全く関係ないと思われる質問を花子がしてくる。


「……良かった……のかな?」


『なんで疑問形?』


 その花子の質問にやや疑問を浮かべながら隼人が答える。ただ、その隼人の答えにどうやら納得いかない様子の花子である。


「いやだって……ねぇ?」


『小学校以来の異性との会話だよ!』


 花子があざとく腰に片手を当て、指を立てて隼人に顔を近づけてくる。その花子を手で制してから隼人が顎に手を当てて口を開く。


「異性って言っても……幽霊だしなぁ」


『文句ある?』


 今度は腕を組んでその豊かな胸を強調しつつ、高圧的に隼人に迫って質問返しをしてくる。その有無を言わせない物言いに、


「……ないです」


 しぶしぶ肯定の意を口にする隼人である。いや、しぶしぶと言うのは真実ではない。隼人が言葉に詰まったのは目の前の少女が、本当に幽霊なのかと思ってしまうほどの魅力を抱いていたからだ。


『そしたら出会えて?』


「……良かった……です」


 目を大きく見開いて再び同じ質問を繰り返す花子の答えに、戸惑いとも違う色を浮かべた表情で答える隼人であった。


『なんで間が空いたの?』


 その戸惑いを目ざとく突き、外堀を埋めていくような質問を花子がする。隼人の答えに間が空いたのは戸惑いなどではなく、花子を同世代の異性として認識し始めていたからだ。

 しかし、その事には気付けない程、隼人の心は荒み切っていたのだ。よって次に出した言葉は、


「花子さんと出会えて良かったです!」


 当然「ヤケクソ」である。

 今はこの状況を打破したいと、そう思っていたからこそ、無理に声を張って視線を花子に固定し、叫びに似た声を上げたのだ。

 傍から見ればそれが無理していることは分かったはずだ。


『……宜しい』


 しかし花子の心には、返事にタイムラグを生じさせるほど響いたようである。

 そして、響いたのは花子の心だけでなく、誰もいない校舎の廊下にも響き、その残響がトイレの中からも聞こえる。

 もしこれが平日であれば、誰かしら様子を見に来たかもしれない。今日が休日で良かったと、胸を撫で下ろす隼人である。

 花子が返事をしてからどのくらいの時間が経っただろう。三十秒くらいかもしれないし、三十分ぐらいかもしれない。二人の間を無言が埋め尽くす。


「花子さんってさ」


 その無言の空間に耐え切れなくなり、突然隼人が口を開く。


『ん? 何?』


「生前は絶対に気が強い女の子だったでしょ?」


 隼人のこの質問は先ほどのやり取りに対しての感想である。どのくらいのタイムラグがあるのか、ひと昔前の衛星中継よりも長く、思考と言う名の通信が停止していたようである。


『え~、よく分かんな~い』


 隼人の質問に体をクネクネと捩らせ、口元に指をあててわざとらしく否定をする花子である。


「可愛い子ぶっても無理があるけど……」


 そしてその様子に辛辣な感想を投げつける隼人。


『でも多分……おとなしい感じじゃないかな?』


 自分が生きていた時の事を予想して答える花子である。どうやら先ほどの隼人の言葉は聞かなかったことになったようだ。


「それは絶対にない!」


 そしてその花子の言葉を力いっぱい否定する隼人である。


『な・ん・で?』


 しかしどうやら花子は、簡単に自分の予想を曲げることはしないらしい。語気を強くして隼人に詰め寄る花子に対し、隼人が一つ嘆息してからポツリと呟く。


「そう言うところ」


『……プッ! 隼人って意外とズバッと言うね!』


 隼人の呟きに思わず声を上げて笑いだす花子。そして笑顔のまま続けて言う。


『そう言うところ好きだよ! あ! もちろん異性としてじゃないからね! 勘違いしない様に!』


「……しねぇよ!」


 ――さすがにそこまで節操なしじゃない。それに女の子の言う『好き』とはすなわち、『ライク』の事であり、決して『ラブ』ではない。それなのに世の中の男子の殆どは『ラブ』と受け取り、勝手に勘違いしてその女の子に告白してフラれて傷つく。しかし俺はそんな奴らとは違い、女子の言う『好き』や『可愛い』を言葉通りには受け取らない。いや、他人の言葉には必ず裏があるのを忘れない。これが九年と言う歳月をかけて磨いてきた俺の対人スキルだ。


 隼人がそう考え、返事までに沈黙していたのはコンマ数秒の事である。しかし、その僅かな時間でも見逃さない人は多い。

 僅かに生じた隙に、相手がどう思ったかを読む人は多いだろう。


『んんん? 本当はちょっとドキッとしたでしょ?』


 たとえそれが相手に拒否されたとしてもである。

 花子が更に詰め寄り隼人に問い返す。


「……してない!」


 詰め寄られた花子から目を逸らし、必死にそれだけを口にする。

 尤も今の状況だけを見るならば、隼人の言葉はただの強がりで、花子の予想は当たっているように思われる。


『なんで目を逸らしたの? したんでしょ?』


「してない! ドキッとしてない!」


 今度ははっきりと、まっすぐ花子の目を見ながら否定の言葉を口にする。

 どうやら本当に別の理由があるようだ。


『じゃあ何で目を逸らしたの?』


 隼人が花子から目を逸らした理由は、花子が魅力的に映ったのもあるだろう。しかし本当の理由はそれではない。


「花子さん胸!」


『え?』


「胸当たってるから!」


 隼人が視線を花子から逸らした理由はどうやらこれの様だ。

 思春期の男子高校生にとって、美少女が――この際、幽霊であることは置いておく――あざとくも可愛く、そして魅力的に艶っぽく迫ってきたら当然の反応である。

 そして普通の女子高生であれば隼人の言葉を聞いた場合、即座に距離をとるものである。


『あぁ……別に良いんじゃない? 減るもんじゃないし。何なら抱き付いてあげようか?』


「良いって!」


 しかしどうやら花子はその辺は気にしない性格の様だ。このことからも生前はおとなしい性格だった、という事には無理がある。

 そしてそれを補正するように


『じゃあサービスだぞ! えい!』


「おい!」


 隼人の顔を自分の胸に埋める様に抱きしめる花子。

 突然の事に顔を話そうとあがくが、花子は隼人の頭を抱きしめたまま呟く。


『……今日は来てくれてありがと』


 今までの明るく快活な声ではなく、静かに包み込むような声だ。

 どこか寂しそうで、しかし慈しむような声が隼人の頭上から掛けられる。


「……明日はどうする? さすがに日曜日だから、学校は入れないけど」


 先ほどとは違う声色に一瞬言葉を失う隼人だが、花子の気持ちが分かったらしくそのままの姿勢で翌日の事について問いかける。


『えっと、ライン送ってくれれば良いよ』


「そっか……ごめん」


『なんで謝るの? 私は嬉しいんだよ! こうして相手してもらえて』


 隼人の謝罪の言葉に、抱きしめていた隼人を解放してから視線を合わせ、瞳に涙を浮かべながら否定する。


「分かったら。でもさ、花子さんはなんで『花子さん』をやってるの?」


『え?』


 唐突に隼人が今までしたことのない質問をし、それが何を示しているのか理解できないといった様子で、目を見開きながら花子が聞き返す。


「いやだからさ、なんで幽霊になっちゃったんだろう? って」


『あぁ、たぶんこの世に未練があったからじゃないかなぁ?』


 補足説明を隼人から聞き、理解した後に自分が『トイレの花子さん』をやっている理由を予測し、口に出して答える。


「それでもこの学校に地縛霊になるのはおかしくない? 見たところ、うちの学校の制服じゃないし、何よりこの学校で最近死んだ人なんていないし」


『まぁ確かに』


「地縛霊って、その土地に縛り付ける『何か』があるからでしょ? このトイレに縛り付ける何かがあるのかな?」


 隼人の疑問は至極当然である。地縛霊と言えば、その土地に縛り付ける何かがあるからであり、それが理由で成仏できない幽霊の事を指す。

 それなのに目の前の花子は、身に着けている制服は他行のものであり、更に隼人の学校で最近亡くなった生徒はいない。

 それならばなぜこの学校の、更にトイレの地縛霊になってしまったのだろうか。


『う~ん……どうなんだろう?』


「この学校と花子さんを結び付けるもの……とか?」


『でも私この学校に来た事無いよ』


 しかし、どうやら花子本人もその原因は分からない様である。


「ちなみにどこの学校だったか覚えてる?」


 それならばと思い、別の角度から質問をしてみる隼人であるが、


『詳しくは思い出せないけど、関東地方だと思う』


「範囲広いって!」


 かなりアバウトな答えしか返ってこなかった。


 ――まぁ生前の記憶が無いんだから当然かもしれないな。


「……ちなみにだけどさ」


『ん?』


「花子さんはこの場所から離れたい、って思ったこと……ある?」


『そりゃね。幽霊になってから二ヶ月近くここで独りだったから』


 隼人の問いかけに対する花子の答えで、また一つ疑問が生じたのである。

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