06・期待すべき玉の輿 と 激辛カレー の 話
06-1
◆◇◆◇◆◇
「はあ……」
エルロイド邸の一階にある台所で、一人の侍女が大きくため息をついた。赤色に近い茶色の髪をアップにした、まだ成人していない若い女性だ。大きな目と髪の色が相まって、どことなくいたずら好きなリスに見える顔立ちをしている。
「もっと辛いものが食べたい……」
侍女はそう言うと、スープ皿にスプーンを入れてかき回す。
「キュイは辛党だからね」
テーブルの向かい側に座り、紅茶の入ったカップに口をつけているのはマーシャだ。今は侍女や使用人たちの昼食の時間だ。
「なんでこの国のご飯は味付けがおおざっぱなんでしょうねー。物足りないですー」
キュイと呼ばれた侍女は、我が意を得たりとばかりに大きくうなずく。
彼女の名前はキュイ・ペリテーニュ。マーシャよりも年下だが、エルロイド邸の侍女としては彼女の方が先輩だ。しかし、経験の多さを鼻にかけて先輩風を吹かせることもなく、むしろマーシャのよき同僚にして友人でもある。
「でも、あなたの好きなカレーは、母国の料理じゃないでしょ?」
「そうそう、そうなんです!」
何気ないマーシャの一言に、キュイはテーブルから身を乗り出して同意する。彼女はこの国の出身ではなく、隣国からの移民である。まるでアルバイト感覚であちこちの職を転々とし、とうとうこの変わり者の教授が住まう屋敷の侍女になったらしい。お気楽で流行に目ざとい性格からは想像も付かないが、それなりに苦労を重ねてきたのだろう。
「こっちに来てから食べたんですけど、最高ですよね、カレー! もう、神様のお作りになられた傑作ですよ! もしくはスパイスの奏でるハーモニー! 芸術! 楽園! パラダイス!」
キュイが宗教的とも言える情熱を傾けて語るのは、帝国の料理でもなければ隣国の料理でもない。香辛料をふんだんに使った異国の料理、つまりカレーである。
「わ、私はそこまで入れあげてないけど……」
あいにくとマーシャは、彼女のようなカレーの信奉者ではない。帝国でも、まだカレーは珍しい料理に入る。ここロンディーグだからこそ、庶民にも手の届く形で食べられるような代物と言ってもいい。キュイのような一介の侍女でも、給金を惜しげもなくつぎ込んで熱中する対象となりうる料理だ。
「はあ……」
けれども、そんな風に目を輝かせたのもつかの間。再びキュイはため息をつく。
「辛いことがあったらお酒! じゃないけど、辛いことは辛いもので忘れたいです……」
肩を落としてうつむくキュイが見ていられなくて、マーシャは極力優しい声で尋ねる。
「また振られたの?」
「お前は友だちみたいな感覚で、恋人には見られないって……」
吐くようにそう言うと、キュイはテーブルに突っ伏す。さりげなくマーシャが真下のスープ皿を退けていなければ、それで洗顔していたような勢いだ。見ての通り、絶賛キュイは失恋中である。さらに悲しいことに、マーシャはこの状態の彼女を何度も目撃している。正確に数えていないが、少なく見積もっても両手の指全部の数よりは見ているだろう。
「ああもう、マーシャさん! 今の私は色気より食い気です! いつかまたカレー店に付き合って下さい!」
ややあってキュイは跳ね起きると、マーシャを自分のストレス解消に引き込む。
「い、いいけど……」
キュイはマーシャの友人である。友人の頼みとあっては断れない。だが同時に、マーシャは少しだけはた迷惑にも思っているのだった。
◆◇◆◇◆◇
「マーシャさんマーシャさんマーシャさぁぁん!」
キュイとやけ食いの約束をしてから数日後の夜。エルロイドと共に大学から帰宅したマーシャに、キュイがぶつからんばかりの勢いで駆け寄ってきた。
「キュイ? どうしたの?」
「いたんですよ! いたんです! ついに、ついに見つけ出しました。見つかったんです!」
「何がいたんだよ。ゴキブリか? 旦那様がお帰りになった早々騒々しいぞ」
両手を振り回して力説する彼女を、エルロイドにかしずく少年執事のシディが白眼視する。
「シディ、構うな。行くぞ。マーシャ、そこでキュイに付き合ってやれ」
しかし、当の旦那様であるエルロイドは、取り立てて不快そうな顔もせず、彼女の奇行を無視する。
「いいんですか?」
「本人にとっては重大な問題なのだろう。好きにしたまえ。私は一切関知しないが」
「かしこまりました」
仕える主人の言葉とあっては、シディも態度を軟化させざるを得ないようだ。
「旦那様のご親切に感謝しろよ、キュイ」
脇を通り過ぎるキュイに、すかさず釘を刺すのは忘れてはいないが。
「は、はい、どうもすみませ……じゃなくてありがとうございます、旦那様!」
「ふん、時間を無駄にしたくないだけだ」
実際、エルロイドは寛大な心からキュイの不作法に目をつぶったわけではなく、本当に関心がないらしい。一瞥もせずに二階へと昇っていくエルロイドの背にぺこぺことお辞儀をしつつ、キュイはマーシャに飛びつく。
「マーシャさん! 今度のお休みの日、是非一緒に来て下さい」
「……カレー店に?」
「そうです! そこで出会っちゃったんです。私の王子様に」
王子様、というロマンチックな言い方に、思わずマーシャの唇から笑みがもれる。
「素敵な表現ね」
だが、キュイは首を左右に振った。
「いいえ、マジです」
「……マジで?」
「ええ、マジで」
◆◇◆◇◆◇
ロンディーグにあるカレー専門のレストラン。レイアウトをことごとく異国風に整えたそこは、もはや空気さえもこの国とは異なっていた。強い香辛料の香りに混じって、甘ったるい不思議な香りが漂っている。香辛料の源は、あちこちのテーブルで食される様々な種類のカレー。一方甘い香りの源は、大きなソファに腰掛けた人物がくゆらす水パイプだ。
「よく来たな。マーシャ・ダニスレートとやら。余はヴィーダルシャ・アーナーンディヤナ。光耀王国に属する諸王、その八番目の子である」
その人物はヘビをかたどったパイプの先から口を離し、煙を吐きつつそう言う。濃い褐色の肌に黒い髪、さらに長身痩躯の驚くほど美しい顔立ちの青年だ。爬虫類を思わせる吊り上がりすぎた目を除けば、だが。
「……どういうこと?」
あまりにも唐突な展開に、あ然としつつマーシャは隣に立つキュイに尋ねる。
「これが事実なんですよ。ええ。この前ここで知り合った、私のお付き合いしているお方です」
そう言うとキュイは得意満面といった顔で胸を張る。
「何を立ったまま喋っている。座ってよいぞ」
「はい、喜んで」
「あ、どうもありがとうございます」
キュイはうきうきとした調子で、マーシャはなおも驚きが隠せないまま、ヴィーダルシャと名乗った青年の向かいに腰を下ろした。ここはレストランの一番奥にある特等席らしい。他は普通の椅子とテーブルだが、ここだけは立派なソファが置かれ、床には絨毯が敷かれている。そこに腰掛けたヴィーダルシャは、異国から輸入された美術品のようだ。
「ふむ、面白い目をしているな」
座るや否や、ヴィーダルシャが身を乗り出してマーシャの顔を覗き込んだ。オッドアイに気づかれたことが分かり、マーシャは反射的に顔をうつむける。
「隠さずともよい。美しい色だ。故郷の母君の身を飾っていた、エメラルドの首飾りを思い出す」
彼はマーシャの拒絶に気分を悪くする様子もなく、懐かしそうに言う。
「ヴィーダルシャ様……」
一方で、早速マーシャに関心を向けるその態度が、キュイは不愉快だったらしい。
「ははは、妬いたか。その顔が見てみたかった。愉快だぞ」
彼女のふくれっ面を、ヴィーダルシャは鷹揚にいなす。
「給仕、来るがよい」
彼がそう告げると、可哀想なくらい萎縮しているボーイが、メニュー表を片手にやって来た。
◆◇◆◇◆◇
「故郷の料理はお口に合いますか」
無難と思える料理をいくつか頼み、マーシャたちの前にそれらが並び、ようやく食事と相成った頃。マーシャの心の中でもそろそろ、最初の驚きが冷めてきた。まさかキュイが異国の王子様とお付き合いをするとは思わなかったが、これはこれで面白い。せっかくだから、異文化と交流しようという意気込みが出てきた。
「これは余の国の馳走ではない」
あっさりとヴィーダルシャは首を左右に振る。
「そうなんですか?」
「余の国の料理を、この国の風土にあった形で作り替えたものだな」
彼の故国である光耀王国は、諸王によって統治される東方の大国だ。帝国とも国交があり、文化や輸入品と共に料理も入ってきたらしい。かなりアレンジされて、ではあるようだが。
「でも辛くておいしいですよね」
「そのとおり。キュイ、お前を気に入ったのはほかでもない、その辛党なところだ」
真顔でヴィーダルシャは妙なことを言う。
「大抵の人間が完食を断念するこの激辛、お前はこともなげに平らげる。いや、むしろこれぞ美味といわんばかりの表情で。実際そうだろう?」
「はい、とってもおいしいです」
強引な展開だが、彫刻像のように整った面持ちの彼が言うと、それだけで殺し文句となるのだから恐ろしい。まさか、キュイの辛党なところがこんなところで活かされるとは思いもよらなかった。マーシャは運命の不可思議さに、改めて驚嘆する。
「余も辛いものには目がなくてな。どうだ、余とこの者とは、気が合うように見えるであろう?」
「ええ、恐らく……たぶん……きっと。総合的に判断すれば」
異国の王子と移民のメイド。エルロイドと自分を思わせる凸凹な組み合わせに、マーシャは無責任に同意できなかった。
「歯切れが悪いな。キュイ、お前はどうだ」
「仰せのままにぃ…………」
一方、キュイは彼の問いかけにうっとりとうなずいている。完全に夢中になっているようだ。
◆◇◆◇◆◇
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