05・場所を問わぬ夜釣り と うさん臭い職務質問 の 話
05-1
◆◇◆◇◆◇
しなる釣り竿から伸びる釣り糸が、煌々と照らす満月の光に照らされてかすかに光ったように見えた。
「ふむ、なかなか大物だな」
釣り竿の先でぴちぴちと暴れるニシンのような魚らしき存在を見て、エルロイドが興味深げな顔をする。
「そうですか」
次いで、彼は相槌を打ったマーシャにその魚もどきを突きつけた。
「料理できそうかね?」
「帰ったらパイにしましょうか?」
「いや、やめておこう」
食べる気はさらさらなかったらしく、さっさと彼はブリキのバケツの中にそれを入れると、上から本で蓋をする。一見すると海岸か湖畔で夜釣りと洒落込んでいるように見えるが、ここは首都ロンディーグの一角、それも中産階級の住宅街だ。深夜の周囲に、魚を釣れるような場所はどこにもない。
それもそのはず。今釣り上げた魚とおぼしき生物は、霧の中を泳ぐ妖精の一種なのだ。今晩エルロイドはマーシャを連れ、魚釣りという名の妖精調査の真っ最中である。先程彼が懐中時計で確認したところ、あと一時間ほどで日付が変わる。
「本当に教授は多芸ですね。楽器の演奏に、乗馬に剣術におまけに釣りまで。何でもできるんじゃないですか?」
釣り竿を深い霧の中に垂らすのは、エルロイドだけだ。隣のマーシャは、ただ付いていくだけである。かれこれ一時間半ほどが経ち、そろそろひまになってきたマーシャはエルロイドに話を振り始めた。実際、この変人教授が異常なまでに多才なのは事実だ。およそ大抵のことは人並み以上にこなす。特に弦楽器の演奏に至っては、明らかにプロの腕前だ。
「まさか。私にも苦手なものの一つや二つくらいはある」
だが、エルロイドはマーシャの誉め言葉に眉一つ動かさない。自分が多芸であるというのは、恐らく彼にとって自明の理なのだ。
「なんですか?」
哀れなものを見る目で、エルロイドはマーシャを見つめる。
「なぜ私が君に自分の苦手なものについて説明する必要があるのかね? 理解に苦しむ」
「だって、その方が親しみがわくじゃないですか。完璧すぎる人って、端から見ると冷たくて人間って感じがしませんから」
「その方が私にとっては好ましいな。怜悧且つ超然とした非人間的実在。実に素晴らしいではないか」
ややうっとりとした口調で、エルロイドはそう言う。彼の脳裏には、完璧で究極の自分が思い描かれているのだろうか。
「教授は親しみやすいお人柄になりたいって思われないんですか?」
「私は、自分の研究を成し遂げることにのみ興味がある。そして人生は短く、すべての物事を完成させるには時間があまりにも足りない。魂を神の御手に委ねる日に、やり残したことがあるとみっともなく騒ぎたくはない。いいかね。取捨選択が必要なのだよ」
「よく分かりませんが……」
「君も、私と同じくらいの年齢になったら自然と分かるだろう」
マーシャは首を傾げるが、それ以上エルロイドは追求しなかった。
「そら、また釣れたぞ」
彼の釣り竿が振り上げられ、再び魚の姿をした妖精の一種が釣り上げられた。やや体のあちこちがゼリーのように透明であるほかは、さほど生物離れしていない造型だ。
「お見事です、教授」
「君の目があってのことだ。凡人には、今夜はただの霧の夜としか感じられないからな。まるで、灯台の光か探照灯を頼りに夜釣りをしているような気分だ」
彼の言葉に、マーシャは自分の左目が霧を貫く強力な光を発している様子を想像してしまい、つい口元がほころんでしまう。
「なぜここに、こんなに妖精たちが集まっているんでしょうか?」
「やはり、理由は君の目だろうな」
実際、こうやって見えないはずの妖精を目にし、触れられないはずの妖精を釣り竿で釣っているのは、マーシャが側にいるおかげだ。彼女の存在は、妖精という不確実な存在を現世に繋ぎ止める、鎖か枷のようなものなのかもしれない。
「一応、二枚目の瞼を開いているつもりはないんですが」
「無意識に呼び寄せているのだとしたら、少々看過はできないな。以前のように、危険な種類までやって来るのは始末に負えない」
マーシャは意識して、妖精女王の目を使ってはいない。恐らく二枚目の瞼を開いてその目を露出させれば、霧の中を回遊する無数の魚影をすべて見通すだけでなく、それらをこちらに呼び寄せることさえも可能だろう。
「何らかの方法で、君の左目を封じられればよいのだがな」
エルロイドはそう言い、苛立たしげな仕草を見せた。彼にとって、マーシャの左目は未知の具現である。どういう原理で妖精を支配しているのかも分からなければ、その原理を安定して制御する方法も分からない。未知を駆逐するのを生き甲斐とする研究者にとっては、何とも歯がゆいのだろう。
◆◇◆◇◆◇
それからしばらく沈黙が続いたが、先に口を開いたのはエルロイドだった。
「――私の苦手なものは、だ」
唐突な話題の蒸し返しに、マーシャは驚く。
「いきなりどうしたんですか、教授?」
「いいから黙って聞きたまえ。私としても、君に鉄面皮な冷血漢と思われたままなのは癪に障るのだ」
「はあ」
マーシャは何もそこまでエルロイドを悪人扱いしたつもりはないのだが、どうやら彼の方は一方的にそう思い込んでいたらしい。マーシャの生返事に、エルロイドは眉をつり上げた。
「聞きたくないのかね。君の方から話題を振っておいて聞く耳を持たないとは、まったくこれだから――――」
「わあ! すごく楽しみ! ぜひぜひお聞かせ下さい!」
エルロイドの説教が長くなりそうなので、慌ててマーシャはわざとらしく目を輝かせ、ついでに拍手までする。その態度の豹変にエルロイドは当然のように嫌な顔をしたが、やがて目を逸らし、呟くようにしてこう言った。
「私は酒が苦手だ」
「すぐ酔ってしまうんですか?」
彼は怒ったネコのようにして激しくかぶりを振る。
「正確には、酒を飲んで酔うのが、自分であろうと他人であろうと嫌いなのだ。なぜ酒飲みは、あんなものをありがたがってがぶ飲みするのだ? 滋養があるわけでもない、正常な判断力が鈍る、記憶が失われる、等々害悪以外の何ものでもない。理性が低下して獣性が露わになるのを、おぞましくも酔うと言い換えている。時間の無駄でしかない飲料だ」
今夜も、エルロイドの痛罵は冴え渡っている。まるで酒に親兄弟を殺されたかのような物言いだ。苦手を通り越して、明らかに嫌悪している。
「教授……」
「何だね?」
マーシャは彼の方に一歩近づくと、その顔を覗き込む。
「もしかして、お酒で嫌な思いをされたことがあるんですか?」
「理性的かつ知性的な私はない」
エルロイドは即答した。
けれども、しばらくしてからその言葉には続きが添えられる。
「…………私の父は、旅行先で酒に酔って事故死した。酩酊していたわけではないが、しらふならば防げた事故だ」
珍しく、彼の目は街灯と満月の下、ここではない過去を見ていた。いつもまっすぐに前を見、現実とその背後にある神秘を見据えている彼の目は、今夜は追憶の先を見ている。
「本当に迷惑な話だ。父は何もかもやり残して、中途半端なまま、責任を取らずに勝手に死んでしまった。私と母を残して、彼は無責任にもこの世を去った。もっと長く生きられたはずなのに、父の時間は死によって無駄に消えたのだ」
かたくなに、エルロイドはマーシャと目を合わせない。その左目が、自分の心さえも見通すと思っているのだろうか。
「だから嫌いなのだ。酔うのも、酔って醜態をさらすのも、そして周りに迷惑をかけて、時間を無駄にするのも」
彼の言葉の奥にある感情は、完璧に抑制されている。だからマーシャには分からない。エルロイドが父の無責任さを嫌悪しているのか、それとも肉親の死を悲しんでいるのか、はたまた行き場のない親愛を今も抱えているのか、何も分からない。
そこまで一気呵成の勢いで吐いてから、自嘲気味にエルロイドはため息をつく。
「ふん、下らないことを口にした。一介の助手風情に話す内容ではないな」
常ならぬ感情の吐露で、エルロイドは自己嫌悪に陥っているらしい。過ぎた過去の出来事を責めるのは感情的であり、理性を重んじる彼にとってはナンセンスなのだろう。
「そんなことないです」
だが、マーシャは明るくそう言う。普段通りの楽天的な言い方に、エルロイドは不満げな顔で彼女を睨む。
「ならば聞くが、君はこの話を聞いたからといって、何か得られる益があるのか?」
詰問するかのような勢いの問いかけにも、マーシャは揺るぎもしなかった。彼の問いに、マーシャははっきりとこう答える。
「教授がお話しされて心が和らいだのならば、それで充分益ですよ」
文句や愚痴は、時に誰かに聞いてもらえるだけで助かることがある。そんなことを、マーシャは幾度も経験してきた。理知的で四角四面のエルロイドだが、時には誰かにぼやきたいことだってあるのだ。そんな風に一方的に解釈したマーシャは、悠然とほほ笑む。
「君に話した程度で私の心がどうにかなるなど、本気で…………」
と、そこまでエルロイドは言いかけた。だが、マーシャが成し遂げた顔でにこにこしているのを見て、それ以上言わずに口を閉じる。
「いや、いい」
なにを言っても無駄、とでも思ったのだろうか。それとも、何かほかのことを感じたのか。外面からは、まったく分からない。
「そろそろ戻ろうか」
「はい」
エルロイドが釣り糸を自分の方に引き寄せた、ちょうどその時だった。非常にわざとらしい咳払いが、二人の後ろから聞こえる。
「あ~、そこの男女、男女。待ちたまえ。ここで何をしてるのかね? してるのかね?」
マーシャとエルロイドは同時に振り向く。そこに立っていたのは、制服を着た大柄な警吏だった。
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