塩と呼ばれて~ParuStory
マナ
序章 最後の日
「ママ、今日は何も言わないんだ」
「何?なんのこと?」
「ううん、何でもない」
テーブルに並べられたベーコンエッグトマトとはちみつがたっぷり入ったホットミルク、真ん中に飾られたピンクローズの花はあの日と変わらない。敷かれたランチョンマットまで同じホワイトレース柄だった。
「あの二人はおばぁちゃんになったけどね」
私の目線の先にいるのは、まだ朝のまどろみのなかにいるシェリーとダーナ。
互いに体を寄せ合いながら陽だまりの中にずっと居座っている。
もう冬の朝は彼女たちにとっては少し辛いのかもしれない
「歌っても、もう聞いてくれないんだろうな」
「もう、さっきから独り言ばかり言って、早く支度しないと。
島ちゃん迎えに来てくれるんでしょ」
「うん・・」
「それで、あなた大丈夫なの?今日の稽古はしたの?ちゃんと声でるの?」
「やっぱり言った」
「何よ、はーちゃん」
「何でも」
これで何もかもあの日と同じなんだよ、ママ
あの日からママの笑顔が増えたことを私は知っている。
それ以上に涙が減ったことも私は知っているんだよ、ママ。
2009年9月20日、AKB 九期生オーディション当日
「だから、ここで歌ってみなさいって、はーちゃん。ママが聞いてあげるから、いつもいざというとき声出ないんでしょ、あなた」
「・・・」
「はーちゃん、声出せるのって、聞いてるのよ」
「・・・ ・・」
「はーちゃん・・」
「・・・出るよ、この前カラオケで歌ったときはちゃんと出たもん」
「一人ででしょ。駄目だよ誰かの前で歌わないと。見たことないよ、最近、はーちゃんの歌ってるとこなんて」
ママも歌ってるとこなんて見せたことないくせに、ママに似たんだよ私は
そんな言葉を私はホットミルクと一緒に胸のなかに飲み込んだ
「シェリーとダーナには聞いてもらったから」
「犬でしょ、 どっちも、わかる訳ないでしょ、はーちゃんの歌が」
シェリーはアメリカン・コッカー・スパニエル。ダーナはポメラニアン。
彼女たちは私の歌声を嫌というほど知っている。歌っているとシェリーは大きな前足を投げ出してじっと動かないでこちらを見ているし、ダーナだって大きな黒い瞳はちょこちょこ動くけど耳は二つとも私のほうへ向いたまま。
おまけに彼女たちは音程が少しでもズレると低くうなる。吠えるんじゃないのよ、唸ったんだよ。それで私には十分。
私の事ならなんでも知っていると思っていたママ、あなたはそんなことも知らなかったんだよ
「ひとりでいける?」
ママの言葉に私は当然のように大きく頷いた。
でもそれは後から考えてみれば二人にとっては信じられない事だった。
大袈裟ではなく秋葉原までの大冒険、
電車にも一人で乗れない子がひとりで行くと言っている。
もうそれだけでママは目に涙をいっぱいに溜めていた。
そしてその朝から私のAKB48は始まった。ママの私への心配も何倍にも膨らんだことだろう。
私の瞳に映る世界はもうママだけではなくなったけれど、ママにとっては私の事だけを見つめた、この7年間だったのかもしれない。
2016年12月26日 AKB48シアター、島崎遥香卒業公演当日
「おばさん、ほんとに来ないの?せっかく忍さんが用意してくれるって言ったのに」
「250分の一でしょ、そんな貴重なチケット、きっと誰かが神様にお願いしてるわよ、そう言ってた」
ママは最後までママのままだった。こんな優しい血が私にも流れている、そう思うだけなんだか力が湧いてくる。
今日出かけるとき、あとで読んでね、そう言ってママから渡された一通の手紙、
泣いてなんかやるもんか絶対に、そう三回呪文のように唱えながら、ずっとさっきから手に握りしめている便せんを開く。
いつもとかわらない手書きの綺麗な文字が水玉模様の便せんに並んでいた。
―― 私の遥香・・・声にならない声が2500グラムの小さな体から漏れ出たときの喜び それは今も忘れられない
「べっぴんさんになる、間違いない」
生まれたばかりで猿のオチビさんみたいな遥香をみんながそういってくれた。お爺ちゃんもお婆ちゃんも母も父も近所の人も看護婦さんも院長先生まで。
貴女を見つめるみんなの笑顔が優しくて暖かくて輝いていて。
「こんな色の白い子は初めてや、ほんまにお人形さんみたいや」
院長先生のそんな言葉を受けながら、ショーウインドウのような保育器のなかで、貴女は小さな産声を上げた
「私はここにいるよ、ママ」
そう聞こえたのは私だけかもしれない。この小さな小さな命は私が守る、そう誓ったあの日。
私と遥香との長い道程の始まりだった。
遥香・・・あなたの周りの景色は生まれたときと同じ。
いくら塩と呼ばれても、今もやさしい笑顔であふれてる。
ママはそれが一番の誇り。
人に愛されること、はーちゃんを大切に思ってくれる人がたくさんいること、
それさえ大切にしていればあなたに怖いもんなんてなにもない。
だから勇気をもって、前を向いて、はーちゃん
追伸には「さぁ、涙を拭いて」そう記されていた
耳を澄ますと聞こえて来る微かな、人々のざわめき
オーバーチュアが流れる前のひとときの静寂
静かに沸き上がって来るような胸の高鳴りはいつもと変わらない
この一瞬が私は好きだ。
見上げれば由依がいる。振り返れば島田がいる、まりこがいる、みゆがいる。
そうだよ、ママ 私の周りの笑顔は私の宝物 アキバを離れても
どこへ行こうが 何をしようと それだけは絶対誰にも渡さない
ずっとずっと、これからもずっと・・・そのなかで生きていくんだ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます