第三楽章

「……んっ……」


 気が付いた時、俺の体は真っ白のシーツに包まれたベッドの中にあった。さっきまでずっとコンクールに向けてトランペットを吹いていたはずなのに、どうしてこんな場所で寝てしまったのだろうか――頭がボーっとしていたせいで真っ先にトンチンカンな事を考えてしまった俺は、脳みそが覚醒していく中で少しづつ我を取り戻し始めた。トランペットを吹いていた最中、気分が悪くなってしまった俺は、先輩たちの指示に従い保健室へ向かったのち、そのままぐっすりと眠りに就いてしまったのだ。そして、同時に俺はその『眠りに就いた』時間がどれほどのものだったのかを知り、愕然としてしまった。


「おい……嘘だろ……!?」


  外から差し込んでいたのは、今日の終わりを告げるお日様の日差し。時計の針も、もう少しで今日行われる予定の合奏が終わってしまう事を残酷に告げていた。そう、あの後俺はずっとトランペットを吹けないまま、ほぼ1日中ずっとこのベッドの中で眠り込んでしまったのだ。このままではいけない、早く楽器を持って合奏に加わらないと、俺たちの吹奏楽部はコンクールに出る事すらできないかもしれない――慌てて立ち上がり、カーテンを開いた時だった。


「……!?」

「……あっ……!!」


 そこにいたのは、ふわりとしたショートヘアを揺らしながら、驚きの顔を見せる幼馴染だった。

 しばらくの間、彼女の顔が赤くなるのも知らず、ずっと見つめたまま固まってしまった俺だけど、何とか意を決して心の中に沸いた疑問を投げる事が出来た。どうして何の前触れもなく、俺がぐっすり眠っていたであろう保健室を訪れることが出来たのか、と。頭の中が『?』のマークで埋め尽くされようとしていた俺に返ってきたのは、夕日よりも暖かく、俺や先輩の音色よりも美しく、そしてどこか悲しそうな雰囲気を含んだ微笑みだった。


「……担任の先生から聞いたの。部活中に倒れたって」

「え、俺?倒れてはないけど……」

「えっ……でも、保健室の先生も言ってたよ?疲れと暑さが……」

「い、いやその、そうじゃなくてさ、正確には……」


 確かに倒れたのは倒れたけど、ベッドの上にたどり着いてからのが正解だ、と慌てて訂正した俺を見て、彼女はそっと息を漏らした。そそっかしい俺への呆れではなく、心も体も無事でいてくれたと言う安堵の吐息だと言うのはその笑顔ですぐに分かった。慌てて彼女のいる部室へ駆けつけた先生は、俺が保健室にいる事を、文字通り焦燥した顔で伝えたと言うのである。今にも俺があの世へ行ってしまう、そんな表情で。

 生徒思いとはいえ、先生は大げさだ、とで笑い飛ばそうとした俺の言葉を、彼女は首を大きく横に振って否定した。



「……私、先生が凄い心配した気持ち、分かるよ」

「……なんでだ?ただ保健室で、寝てただけなのにか?」


 そんな事を言ってしまった俺は、非常にダメな男だった。


「体壊してまでコンクールに出るなんて、そんな約束、私してないよ!!!」


 いつも優しく明るい彼女が、怒りと悲しみの表情を創り出していたのだ。


 すぐに自分が大声を張り上げてしまった事に気づき、慌てて謝った彼女だけど、その言葉に対して謝りたい気分になったのはむしろ俺の方だった。確かにコンクールの金賞、それも地方大会に出場できる『金賞』を目指して練習してきたことで、俺は今までよりも格段にトランペットの腕が上達し、楽譜を読む力も口を適した形にする力も養われた。だけど、それと引き換えになった代償に、今の今まで俺は全く気付いていなかった。限界に達してぶっ壊れ、こうやって保健室に身を横たえるまでに至ってしまった俺の体だけではない。何の連絡もせず、ひたすら吹奏楽だけに邁進して置き去りにした挙句、勝手に頭の中で彼女に告げた『約束』を好きなように書き換えていた俺は、彼女をどこまでも蔑ろにしてしまったのだ。


「……ごめん……ごめん、俺……っ!」


 つい目頭が熱くなってしまったのを何とかこらえ、俺は深々と頭を下げて謝った。そんな情けない男の頭を、彼女は優しく撫でながら慰めてくれた。今までこれだけ頑張ったのだから、もう無理をする必要はない、きっとコンクールは最高の結果になる、と。その言葉がどれほど俺の精神を癒し、励ましてくれたかはとてもじゃないけどこの場では言い尽くせない。だけど、それでも俺の心から『焦り』はどうしても消える事はなかった。ここまで頑張ってきたと言ってくれるのは本当に嬉しい、だからこそここで立ち止まっていると、他の面々に追いつかれてしまうかもしれない。トランペットの音色を鳴らさないと、最高の結果は出せないかもしれない――。


「……その通り。貴方はしばらくべきじゃないかしら」

「えっ……!?」

「あ、先生……」


 ――そんな俺の『悪い方向』へと焦る思いを止めてくれたのは、部屋に戻ってきた保健室の先生だった。


 お邪魔してすいません、と謝る彼女を明るく許しつつ、俺の体調が本当に戻っているか何度も確認した後、先生は改めてこう忠告した――いや、正確には命令かもしれない。今日と明日、『吹奏楽部』を休め、楽器も絶対に吹くな、と。当然驚いた俺だけど、彼女もそれに同感するように大きく首を頷くのを目にしてしまっては、従わざるを得なかった。それでもなおほんの僅かな不服の気持ちを表情に出してしまった俺に対し、彼女は笑顔でこうアドバイスしてくれた。何度やってもダメダメな時は、少しだけそこから離れた方が案外上手くいくものだ、と。


「勉強と同じだと思うよ。一夜漬けよりも、コツコツ積み重ねた方が、良い結果が出やすいって」

「良いこと言うじゃない、流石幼馴染ね」

「え、えへへ……」


「……そっか……俺、滅茶苦茶な事やってたのかもなぁ……」

「ふふ、分かってくれたようじゃない?」

「いえ、先生のお陰です」

「本当にそうです……迷惑かけちまって、ほんとすいません、この通り!」



 そしてふと上を見上げると、保健室にある時計が、いつの間にか部活が終わる時間を過ぎていた事を教えてくれた。

 本当はこのまま彼女と一緒に帰って思いっきり話したい、なんて考えていたけれど、まだ病み上がりの身である俺にそのような事は許されず、迎えに来た父ちゃんが運転する車に乗って家路につくことになってしまった。父ちゃんは勿論、母ちゃんも俺が倒れたと聞いて物凄い心配していたらしく、俺が帰って来るや否や大喜びで迎えてくれた。そして、俺のスマホにも無事家に帰ってきた事を喜ぶ彼女からのメッセージが届いていた。なんか幼馴染と言うより『姉ちゃん』――家族の一員みたいだな、とつい思ってしまうほどに、俺の心には『本当』の余裕が表れ始めていた。


 次の日、保健室の先生からの忠告通り、俺は1回もトランペットをケースから出さないまま、のんびりとした時間を過ごした。時々友達や彼女とメッセージをやり取りしたり、冷房の効いた部屋で大の字になって昼寝したり、麦茶をがぶ飲みしてむせたり、久しぶりに味わった自由気ままなひと時は、正直言って最高だった。


「全く、大丈夫だって、あいつも心配性なんだからコンクールは完璧に……え、宿題……あはははは……頑張る……」


 まあそんな心に来る忠告も届いてしまったけれど、それでも俺は誰にも気兼ねなく呑気な1日を送ることが出来た。1人だけ部活を休んでしまう、と言う心配をする必要もなく。

 何故かって?昨日の夜、先生から直々に吹奏楽部全員に向けて、明日は臨時で吹奏楽部そのものを休みとする事、そして自主練習そのものも禁止する事がメッセージで送られてきたのが一番の理由だ……。

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