第3話 教唆


《結局……その後、あたくしたちが親しくなるのに、さほどの時間は掛からなかった》


 扉の向こう側から、キリアカイの思念が流れてくる。

 彼女の気持ちは随分と落ち着いてきたようだ。先ほどまで、あれほど激昂していたのと同じ女人だとは思えない。

 ただ「落ち着いている」と言うよりも、それはむしろ「沈んでいる」と表現したほうがいいのかもしれなかった。


《やがて……あたくしたちの間には、息子が生まれた。……それが、ハオランよ》


 鬱々とした女の思念は、今や淡々と起こったことを伝えてくるだけだ。


《正直、『あんな方がなぜあたくしなんかを』とはずっと思っていた》


 隣のギーナが、先ほどからずっと唇を噛んでいる。まるで心のどこかが痛むかのような表情だ。それが気になる。

 ……いや、俺の気のせいかもしれないが。


《でも、ユウジン様はおっしゃったの。『あなたのことは、とても他人のようには思えない』って。あの方は、バクリョウに庇護されるまでの間、弟のハオユウと一緒に、それはそれはつらい経験をなさったようだった。……もちろん、それをあたくしに詳しく教えてくださることはなかったけれど》


 今度はフェイロンが、つらそうに眉をひそめたようだった。

 まだ幼かった彼ら兄弟が舐めた辛酸。それがどんなものだったかは想像に難くない。俺も、わざわざ彼からそれを聞きだそうとは思わなかった。その点については、キリアカイも同じように考えたということらしい。


《幸せだった……。本当に、幸せだったわ。ハオランは可愛くて……ユウジン様は本当に、あたくしたちを大切にしてくださって。『まさか自分が、親を殺した連中の一人とこんな仲になるなんて』と、お父様やお母さまに申し訳なく思ったのも本当だけれど》


 キリアカイの思念は悲痛だった。扉に遮られて見えはしないが、きっと今、彼女は涙を浮かべているのに違いなかった。


《でも……破滅は、すぐにやってきたわ》


 言ってキリアカイは先を続けた。





 それは、彼らの息子ハオランがやっと一歳半になろうかという時期だった。

 ユウジンたちの尽力で、内政も安定し、少しずつ領土内の問題の解決の糸口をつかみかけたころだった。

 その頃にはもう、キリアカイも夫ユウジンの政治向きの話に参加するようになっていた。とは言えもちろん、発言権などはない。飽くまでも領主の妻の立場として、今この国がどうなっているかを把握している程度だった。

 何しろ彼女は、小さな乳飲み子を抱えていたのだ。侍女や息子付きの女官たちの手助けはあったけれども、それでも育児は大変だった。なによりもキリアカイ自身が、自分のはじめての子を手元から離したくなかったのだ。

 ハオランはユウジン似の優しい瞳と、キリアカイの黄金の髪を持つ男の子だった。親の欲目だとは思うけれど、相当に聡明な子に思われた。その年にして、少しは言葉も発していたし、なによりひどく利己的だったり、わがままな面の少ない子だった。


 ある日の午後のことだった。

 居室で眠ったばかりのハオランのゆりかごのそばで、少しうつらうつらしていた時、キリアカイの脳裏に不愉快な声が響き渡ったのだ。

《……お嬢様。キリアカイお嬢様》と。


 明らかに<念話>による通信だった。その声に聞き覚えがあり、キリアカイは背筋につるりと冷たいものを流し込まれたような気になった。


《だれ? だれなの。突然にこのような……無礼でしょう》

《ご無礼の段は、平にご容赦くださりませ》


 しわがれたその声の主は、以前、父に仕えていた文官の筆頭の男だった。

 名はリュウカイ。父の配下の中では最古参で、すでに老境に入っていた。父に呼ばれて執務室に足を踏み入れたとき、ほんの一、二度顔を合わせたことがある程度の間柄である。

 その男も、先だっての父の破滅の日に地位を失い、ほかの臣下たちと共にどこかに逃亡していたはずだった。

 そんな男が、今頃になって自分に何の用があるというのか。キリアカイには嫌な予感しかしなかった。だから、ついその返事も冷たいものになった。


《いまさら、わたくしに何の用があると言うの》

《申し訳ありませぬ。臣が不甲斐なかったゆえ、お嬢様に斯様に惨めな思いをおさせしてしまい申した》

《……大きなお世話よ》

 ムッとしたキリアカイの様子を、相手は察したのかどうか。ともかく、勝手に話を続けた。

《あの様な顔ばかりの男に辱められ、慰み者にされ……ついには子まで孕まされ。お嬢様のことを思う時、臣は、臣の心は張り裂けんばかりにござりました》

《なにを、無礼な……!》


 カッとなってキリアカイは言い返した。

 自分は、決してユウジンに辱められてなどいない。殺されて行った親や家臣、それら家族たちに申し訳ない気持ちがなかったと言えば嘘にはなる。なるが、決して「もうこれまで」と諦めて、仕方なく彼にこの肌を許したわけではないのだ。

 ハオランのことにしてもそうだ。この子のためなら、自分はいつでもこの命を差し出せる。それほどに大切で愛おしい、大事な大事な存在なのだ。

 この男の言は、キリアカイがまだかつての価値観に染まったままであったなら十分に響いただろう。だが、今ではそうではなくなっている。もはや決定的なまでに、この心に違う感情が住み着いてしまっていたから。

 だが、そうしたことをどんなに言い募っても、男は頑としてキリアカイの言葉を受け付けなかった。


《……お可哀想に。あ奴の妖術に、すっかり取り込まれておいでになるのですな》


 そんな風に、さも気の毒げな声でキリアカイを憐れむばかりだ。この男はどこまでも自分に都合のいいように、彼女がユウジンに洗脳でもされているのだと思い込もうとしているようだった。

 キリアカイは苛立った。


(なにを、勝手な──)


 確かに、敗戦の将の娘として、勝利者の臣下であった男と添い、子まで為すことは恥ではあろう。「そのような目に遭うぐらいなら、いっそ潔く死を選べ」と父母からは諭されてきていたし、自分もそうするつもりでいた。

 実際、領民の中には「前の四天王の娘御は、まこと大した尻軽よなあ」とばかりに、自分を蔑む風潮があることだって知っている。父の臣下たちからも、恨まれ侮られこそすれ、決して慕われることも許されることもないとは分かっていた。

 しかし。


(もう……愛してしまったのだもの)


 そうだ。もはや到底、無理だった。ユウジンとハオランのことを思えば、この男が自分に望んでいるような恨みつらみを、この心に復活させるなど。

 ユウジンは、キリアカイが身重の間も、出産後のつらい時期にも、決して彼女を裏切らなかった。つまり、自分の獣欲を満たすために他の女を自分の寝所に引き入れるようなことはしなかった。

 それどころか、むしろなにくれとなくキリアカイの体調を気遣ってくれ、いつも嬉しげに赤子を抱いては、愛おしそうにあやしてくれた。

 そんな男を、どうして憎からず思わずにいられよう。

 どうして愛さずにいられようか。


《ご安心くださりませ。もうすぐ、この雌伏の時は終わりまする。あの御方おかたが、我らに力を貸してくださると仰せでありますれば──》

《あの御方……?》


 それは一体、だれを指している言葉なのか。その時のキリアカイには知りようもないことだった。「それは誰なの」と訊ねても、リュウカイは言を左右にするばかりで、決してその名を口にしなかった。

 というか、彼とて本当には相手の正体を知らなかったのかも知れない。なぜならもしも知っていたなら、あのような無謀な真似をしなかった可能性が高いからだ。

 結局、キリアカイがその「誰か」の通り名を知るのは、すべてが終わって何年も過ぎてからのことだった。


 やがて。

 キリアカイの嫌な予感は的中することになる。

 ある日突然、ハオランが姿を消したのだ。


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