第六章 暗雲
第1話 夜の訪問者
《バカじゃねーの、こいつ》
遠くで、だれかの声がする。
どこか
ひどく中性的で曖昧なもので、少年のもののようにも、少女のもののようにも聞こえる。ただそこに載せられた感情だけは、非常に明瞭で鋭角的だ。
《なに、いつまでも抵抗してんだよ。そんなのいつまで続くと思ってんの》
《さっさとこっちへ来ちゃいなよ。オレがいっぱい遊んでやるのに》
どういう意味だ。
お前はどこからしゃべってるんだ。
そう思ううちに、声は次第に赤黒い
《ズタズタにしてやんよ。オレ、お前なんて大嫌いだし?》
これは……「悪意」だ。
だが、なぜだ……?
どうして俺は、「こいつ」に憎まれているのだろう。
《でなきゃさっさと、どれかの女に
《死んじまえ》
《死んじまえ》
《死んじまえ》──。
その思念はどろどろと溶けだして、やがて俺にからみつき、体じゅうのあちこちから内部を侵食しようとしているように思えた。
全身が
冷たい汗がぶわっとすべての毛穴から噴き出すのが分かった。
《絶対ゆるさない。お前みたいな奴──お前みたいな、やつ……!》
「待て……!」
ぱっと目を開けると同時にベッドから跳ね起きた。
外はまだ暗い。いま、一体
俺はごく素朴なつくりの寝台の上で座り込み、息をついた。
寝巻き代わりにしているチュニックが肌にべったりと貼りついている。
(夢……か?)
いや、しかし。
それにしてはいやにリアリティがあった。
そして、たとえ夢なのだとしても、ひどく不穏なものだった。
あの声の主からは明らかな悪意が感じられた。とはいえいつも一度目を覚ましてしまうと、途端に詳しいところまではうまく思い出せなくなってしまうのだったが。
と、すぐそばから思ってもみなかった声がした。
「なあに? ヒュウガ、大丈夫?」
「なっ……!?」
思わず寝台の上でとびすさる。
ギーナだった。
それには頓着しない様子で、女はただ怪訝な顔をして寝台の端に腰かけていた。
「すっごい汗。変な夢でも見たのかい?」
「いや……。それより、何をやってるんだ。こんな所で──」
「あらご挨拶。これでも一応、『奴隷』としてのお役目を果たして差し上げてたってのにさあ」
「役目……?」
俺が変な顔で見返すと、ギーナは「失礼しちゃう」と言わんばかりの顔で、少しばかり俺を睨んだ。
「だってそうでしょ? なんだか急に旅の連れが増えちゃってさあ。それも<テイム>してない奴ばっかり。今はまだ、あいつらがどれぐらい信用できるかもわかんないじゃない」
「…………」
「今まで言わなかったけど、<
なるほど。それでギーナが自らその魔法を使って、俺の部屋に忍んできていたというわけか。
俺の目の色から勝手に色々なことを察したのか、ギーナはほんの少し微笑んだ。
「あんた、ちょっとお人好し過ぎるからね。ミサキのとこの誰かが寝首を掻きにこないとも限らないじゃないの。魔力耐性もないくせに、よくそんな無防備な真似ができるもんよね。用心に越したことないでしょうが。何かあってからじゃ遅いでしょうに」
「そんな心配は、いらんと思うが……」
つい言い返したら、ギーナがぎろっと俺を睨んだ。
「だーから。そこが甘いっての! ミサキ自身はあんたについて来たがってるけど、男どもは全然、そうじゃないでしょ。あんたさえ消してしまえばこんな旅、はじめからする必要すらないんだからね」
なるほど。確かに言われてみれば一理あるか。
「それに、こう思ったのはなにもあたしだけじゃないんだよ? このところ、マリアもライラも猫娘も、同じように心配してたのさ。だからこうして、あたしが『護衛』にきてるんじゃないの」
「……そうなのか」
「ええ、そうでございますわよ、『ご主人さま』。まったくこんなに睡眠時間を削られちゃって、美容に悪いったらありゃしない」
皮肉まみれの声だというのに、それでも夜の匂いを纏って、ギーナの声は艶やかだった。気がつけば、
豊かな胸元と引き締まった腰、それに大腿。俺は意識的に視線をそらした。そうしてまた目立たぬように体をずらして、彼女から距離を取った。
ギーナがふっと苦笑した。何となく、どこか寂しげな笑みだった。
「……ほんっと、めんどくさい坊やよね」
「え?」
「こんなの、もう最初から観念して、あたしを寝床に入れておけば済んだ話なのにさ。そうしたらもう堂々と、あたしがあんたの『夜の護衛』でいられたのに」
「…………」
馬鹿いうな。そんな
喉元まで出かかったその台詞を、俺はどうにか飲み下した。
「だから言ったじゃないのさ。『あたしが筆おろしのお手伝いでもして差し上げましょうか』って。あれはそういう意味もあったんだから」
「いや、それは──」
いくらなんでも無理だろう。
それに、「はいそうですか」と彼女に手を出すということは、そういう仕事をしてきた彼女を見下して侮辱することと同義ではないのだろうか。「お前の価値など、どうせその程度なんだから」と、馬鹿にするのと同じなのでは。
俺は多分、なんとも知れぬ苦渋に満ちた顔をしていたことだろう。ギーナは不思議な目の色をして、しばらくそんな俺を見つめていた。
「……わかってないよね。ほんと、あんたは」
「え?」
「あたしがあの時、あの広場でさ。なんでわざわざ、あんたに姿を晒したと思ってんの」
それは、帝都ステイオーラでの話だろうか。緑の勇者に囚われていた小さな少女たちを俺が<テイム>したときに、ギーナは群衆の中に隠れてそっと俺たちをうかがっていた。その後、みずから出てきて少女を引き取り、結局は自分が「青の勇者の奴隷」であることを明かすことになったわけだが。
「聞いてるんでしょ。『奴隷』がどうしても勇者のことを気に入らなかった時、またはもう好きな相手がいた場合、逃げる方法があるってことは」
「ああ。一応、マリアから──」
「あの時さぁ。ほんとはそうするつもりだったんだ、あたしも」
「え──」
さらっと言われて凍り付く。
思わずまじまじとギーナの顔を見返した。
「奴隷」が「勇者」の
「まさか……。しかし」
言いかけたところを、唇にぐいと長い人差し指を押し当てられて黙らされた。
「そりゃそうでしょうよ。こんな商売女にだって、なけなしの
「…………」
「だから、好きになんかなりたくなかった。<テイム>なんかで勝手に自分の気持ちを変えられるなんて、まっぴらだった」
そんなもの、誰だってそうだろう。
彼女のような人生を歩んできたのなら、なおさらそうなのかも知れなかった。
「あんたがもし、あの『緑』のヤツみたいな腐れ外道だったら……そしたら、きっぱり決心もつこうってもんじゃない。だからあの時、あたし、あそこでずっとあんたを見てた……」
「…………」
「そしたら、どうよ! バッカみたい!」
ギーナはそこで、いきなりぱっと笑顔になった。ふくよかな自分の太腿をぱしっと叩いて、さも楽しげな笑声を立て、背中をのけぞらせる。
「あんた、あっさり『緑』のヤツからあの子たちを助けちゃってさ。それも、自分の奴隷にするためじゃないだって? 『家族のところに帰れ』だって? 笑っちゃったわよ。その上、ちゃあんとほんとに親元に返しちゃってさ。……ほんと……ほんとに、あんたって坊やは──」
声は次第にまたトーンを落とし、ギーナはまた自分の膝のあたりを見つめた。胸元は豊かだが、その肩はごく細い女性のものだ。頼りないその肩を、女はそっと自分で抱きしめるようにしていた。
「……ほんとはさ。ほんとは、あのあともギリギリまで迷ってた」
「え……?」
少しの沈黙があった。
ギーナの目は月明かりを受けて、不思議なぐらいに濡れたように光っていた。
「あのまま、なんにも言わないで……やっぱりどこかで、こっそり毒でもあおろうかって──」
「ギーナ……!」
俺は思わず、彼女の腕を掴んでいた。
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