第五章 星の音
白い塀は、記憶よりも低くなっていた。塀の切れ目はさらに広がり、近所の子どもが出入りしたのだろう、チョークの落書きが残っている。中に入ると、壁は一部崩れて、四角は角を失いかけていた。けれど中央のテーブルはまだあり、水を吸って膨らんだ本は、もう本と呼べないほどに解体されていた。
夜空は曇っていて、星は見えなかった。けれど、風はある。風が壁を撫で、僕の服を通り抜ける。耳を澄ます。遠くの踏切。犬の吠え声。虫のリズム。星は見えない。音だけが、ない。僕は地図を見直した。地図の端に、小さな丸印と矢印がある。『ここ』と手書きで書かれている。丸印は、テーブルの端。矢印は、北を指していた。僕は矢印の方向に、テーブルの脚を軽く押した。テーブルがわずかに動くと、脚が床の溝にぴたりとはまった。床板のつなぎ目ではない。誰かが意図して掘った浅い溝だ。
テーブルが所定の位置に落ち着いた瞬間、風の流れ方が変わった。壁と壁の間で、風が縫い合わされる。耳の奥で、薄い紙片が擦れ合うような音がした。見えない星座が、空の向こうで互いに触れあっているような。僕は胸の内側が不自然にすうっと軽くなるのを感じた。音は、風の中にしかない。風は、空が体を通り過ぎるための形だ。
誰かが後ろに立っている気配がした。振り返ると、誰もいない。テーブルの上に、薄い影が乗っていた。影は僕の手の動きに合わせて揺れる。僕は立ち尽くし、影を見ていた。影には輪郭がない。そのうち、影は言葉を持ち始めた。
『屋根がないと、音が逃げない』
僕は頷いたかもしれない。頷きは、自分の言葉を捨てる仕草に近い。
『屋根がないと、濡れても乾く』
影は僕の胸のあたりまで近づいて、消えた。消えると同時に、空気に匂いが戻ってきた。遠い雷の匂い。雨の始まる前の、土の中が動く気配。僕は傘を持っていない。持っていないことを確認するために、両手を広げた。少し遅れて、雨が落ちてきた。
雨は、壁を打ち、床を打ち、テーブルの上で跳ねた。跳ねる音が重なって、薄い膜のような音楽になった。音楽は、誰に聴かせるでもなく、ただそこに広がった。僕は目を閉じて、母の声を思い出した。配合。今日の空の配合。僕は口の中に雨を含んだ。雨は、何の味もしないように見せかけて、いくつもの味を含んでいた。ラムネのコップの汗。不意に触れた腕の体温。祭りの夜の光のうつろい。
『記憶のノート』は、僕のポケットの中で少しふくらんだ。紙が水を吸って、鉛筆の線がにじむ。にじむ線は、正確でなくなる。正確でない線にしか、辿り着けない場所がある。僕は濡れたページに、大きく一行を書いた。
『星の音は、雨の上にある』
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