アイデンティティ:前編

 しん けい―――・・・葬儀の日の夜に出遇であった、奈都(死者)そっくりの貌をした謎の人物。あれは、奈都の幽霊だったのか。

 ―――凡ては、奈都が最後の別れを云う為の、夢枕だったのかも知れない。



 ―――徹は珍しく、時計が正午を回らない内に眼を覚ました。いつもは朝方に帰宅して、昼過ぎまで眠り、夕方から叉出勤して朝まで遊ぶという生活リズムを送っている。時刻を見ると、まだ3時間程度しか眠っていなかった。午前8時半。

 二度寝しようと寝返りを打った。・・・・・・。これといった違和感は特に無いが、何と無く・・・上に乗られているような重たさを感じる。

 暫く我慢していたが、重さはますますひどくなり、息苦しささえ覚え始めた。

 ・・・まさか、これが金縛りか―――?

 そう思い、徹がうっすらと眼を開けると


「ふふっ。お・は・よ」


 ・・・・・・・・・

「うぉわあああっっっ!!!」

 徹のいつに無い叫び声を聞いて、窓から見える電柱を止り木にした鳥達がバサバサと飛んでいった。

「・・・朝食の用意、出来ていますよ」

「あっ、あんた」

 膝の辺りまで黒で染め抜き、くるぶしに至るまで白い衣で覆った喪服に、奈都に似た面影、そして、今日は加えて顔を隠すモーニング・ベールを被っている。

「朝食にしますか、それとも朝風呂?或いは―――」

「秦 珪―――!」

「私ですかぁ―――!有り難うございます」

「いや、その台詞は夜帰って来た時に言う台詞だッ!」

 何かズレたツッコミを入れる徹。秦珪は徹の肩に手を置いて、ベールの向うから熱い眼差しで徹の眼を真っ直ぐに見つめてくる。

「―――では、夜も夕食とお風呂を用意して、あなたを待っています」

 ・・・何か話が変な方向へ進んでいる。徹は秦珪を突き放し、用を足すべく部屋を出て行った。幾度と無く女達の眼を先程の秦珪のように蕩けさせ、その視線に慣れてきつつはあるが、どうしてもその眼は好きになれなかった。

「・・・・・・」

 秦珪はくすりと笑いながら、徹の後ろをついて行く。幽霊の様なその人は、ふよふよと足音立てずに歩きながら徹に纏わりついている。

「夢じゃなかったのかよ・・・」

「夢のようでした」

「何で俺の家・・・」

「それは訊くだけ野暮ってものでしょう?」

 ・・・・・・これを、あの奈都と同じ顔、同じ背丈、同じ雰囲気で囁くのだから複雑な気持ち極まり無い。

「とにかく、今日はご飯を食べて学校に行ってくださいね」

 昨日進んで酒場に連れて行った者がどの口を言うか。勝手にずかずか家に上がり込み、朝食を作って学校に引っ張って行くのは奈都が生前徹にしていた事である。

「・・・それと、金髪はやめたが良いでしょうね。徹クンは元の黒髪が似合いますよ」

 奈都がしていた“保護者”役を、買って出ているようで徹はカチンときた。わざわざ自分で誰かの代りになろうとしているではないか。

「お仕事も辞めたら如何ですか?これからは私がいますし「―――あんたは俺の母親か何かか?」

 徹は秦珪を睨みつける。秦珪、否、奈都の像が電波の干渉みたいに波打って揺れる。・・・少しだけ、別の人物の影が視えた気がした。

「―――母親に逢いたくなりましたか?」

 秦珪は少しも怯んだ様子無く、むしろ小さい子供に悟らせるような感じで徹に問う。・・・これも徹自身が投影した幻影なのか。

 秦珪を影の如く引き摺った侭結局秦珪の思惑通りリビングに来てしまった徹は、かつて日常だった事で忘れていたある光景に眼を瞠った。

 ―――三食正しく食べていた頃に使っていたお椀に白い湯気が立つ。母が実家の味を継いだ米味噌の甘い匂いが漂い、食卓を卵焼きの黄やおひたしの緑等、鮮やかな色が彩っていた。それもこれも、母が居なくなる直前まで手懸けていた朝のご馳走だ。

 そして食卓には―――・・・兄・遠矢の姿が在った。

「っ!?」

 徹が状況を呑み込めずにいると、遠矢はふと顔を上げ、両の明るい茶の瞳で秦珪の姿を視た。

「・・・・・・」

 ・・・・黙々とあからさまに秦珪を無視して朝食を食べ進める。秦珪は何故か、ともすれば徹よりもショックを受けており、情けない声で

朝食これは徹クンの為に作ったのに・・・」

 とぼやいていた。遠矢はチラリと秦珪を睨むと

「此処は僕の家ですが、一体何の用でしょうか」

 と、ぱくぱくと飯を口に運びながら忙しなく口を動かした。秦珪はきょとんとし、・・・はぁ、と一言返す。

 彼が誰に向かって何を言っているのか秦珪には判らない様だったが、徹はすぐにピンときた。・・・兄は、母親の影を秦珪に重ねている。

 ・・・・・・恐らく、出て行った方の実母ははを。

 しかし、秦珪曰く、自分は相手が逢いたいと想っている対象の影を映すという事だが。

 遠矢は味噌汁を飲み干すと、御椀をランチョンマットの上に乗せた。

「申し後れました、私は秦 珪といいます。今回は徹クンの・・・」

 ・・・・・・。・・・・・・。徹の名前が出ると、遠矢の取り澄ました顔が途端に厳しくなるのが見て取れた。その恨みがましい視線は何故か、秦珪の方に主に注がれている。

 す・・・と秦珪が音無く後ずさった。徹の居る位置の隣に並び、少し背伸びをして彼の耳元に唇を近づけた。

「ダメです」

 秦珪が囁く。その声は影を被っていない、誰の意思も含まれていないひたすら第三者的な声だ。

「―――何がだよ」

 徹はかかわりたくないと思いながらも、真面目な声色が気になって尋ねる。

「貴方のお兄さんに秦珪わたしの声は伝わりません。やはり、貴方のお兄さんは私に誰かを重ねているようです。差し詰め、貴方達の母親という事になるでしょうが、貴方とお兄さんの母親は違う人物だったのではありませんか。彼は、どちらの母親を私に重ねているのでしょう」

 自分に向かうスケープゴートは、攻撃か親愛か―――・・・謂れも無い知らぬ過去を踏まえての判断は、実際に対峙してからでないとしようが無い。相手が自分に誰を想うか。1億2700万人の日本の人口からそれを特定するのは至難だ。時に同時に2, 3人から、別々の面影を重ねられる事もあるのだから。

 ―――何を以て人が自身を視てくれるのか、そうでないのかを秦珪が見定めているのか疑問だったが、徹は素直に答える事にした。

「・・・・・・本人じゃねぇから知らないが、普通は自分の母親じゃねぇのか?」

「じゃあそれで」

「じゃあそれで、って」

 そんなもんかよ・・・徹は勘繰って損したと、頭をがしがし掻く。見ていて気分の良い風景でもないし、夢の続きを見たいのだが。

「これは・・・ともすれば一番厄介なパターンかも知れませんね」

「は?」

「大人しくしときます」

 ・・・ふっつりと、秦珪の人格らしき声が絶える。徹が声と深刻そうな口調の温度差に戸惑っていると、遠矢が完食して席を立とうとしていた。

「・・・・・・何の用?」

 遠矢が秦珪を見下ろした。徹より更に細身で、背が彼より若干高く視える。徹と違って黒髪で、というか此処は日本なので大抵は皆黒髪であるが、クセも無くボリュームも無い其を無理に立てようとせず軽く流すに留めている。徹のような派手さは無いが、着ている服には清潔感があり、小物等も入念に行き届いている。

「徹クンと似ていて美しいですね・・・・・・」

「・・・・・・」

 頬を紅潮させて悦ぶ秦珪を最早見ていられない徹。・・・こいつ、単に調子がいいだけじゃないのか。

「こっち向いてくださいよー、徹クーン」

 秦珪が猫撫で声で言う。正直、ウザイ。もう子供じゃあるまいし、なだめるように言われても全く心癒えないのだが。

「・・・・・・?別人?」

 遠矢の右目の下の泣きぼくろが左右に揺れる。秦珪はホッとしたような、困ったような微妙な笑みを浮べ、溜息を吐いた。自らの名はもう告げなかった。

「―――朝食これ、作ったの、あんた?」

 遠矢は不仕付けに秦珪に問うと、それ以降全く秦珪を見なくなった。徹の事も見ざる・聴かざる・言わざるであるが、一言、

「―――家政婦雇うなんて、偉くなったもんだよな」

 ・・・ぼそっ、と独り言のような皮肉を言った。

「おい、あんた、家政婦なら台所ココ片づけておいてくれよ。元はといえばあんたが勝手に使っているんだからな」

「は・・・はい・・・」

 秦珪は畳み掛ける相手のペースに飲み込まれてしまう。遠矢は席を立つと、わざと徹と秦珪にぶつかるように二人の間を擦り抜けて、どすどすと階段を上って往った。

 ―――徹は、空っぽになって残された自分のこの年で見れば小さな茶碗を、不機嫌そうに睨んでいる。

「御心配無く徹クン。お兄さんもぜひと、冷蔵庫に予備の食材を「そんな時間、ねぇだろ」

 徹は何事も無かったかのようにぷいと秦珪に背を向ける。確かに今の朝にも拘らず昼ドラ的情況に遭遇した所為で、というか殆どの原因が飯を食われた所為で、食う時間も食う気も失せてしまったのだった。

 ―――何よりも、他人の姿を借りて付き纏う幽霊より性質たちの悪い実体のある存在から離れたい。

 いやに胸底がチクチクするのを徹は感じていた。

「・・・俺、ガッコウ行くわ」

「!本当ですか徹クン」

 秦珪は徹が短い生涯で二度しか言った事の無い台詞を聞くと、かつてそれを言われた二人の相手に還元するかのように彼女等そっくりの喜び方をした。

「やっと真っ当な道に進んでくれるようになったんですね」

 およそその敬語に似合わぬ無邪気な笑顔を浮べたと思うと、冷蔵庫からWeedier in ゼリーを出して、徹の手に握らせる。

「でも食べないのは良くありません。お兄さんに用意しました朝食は10秒でチャージ出来ますので、食べないよりは♪」

「すげぇ格差社会だな・・・・・・俺の朝食と」

 仲の良くない兄ではあるが流石に徹は同情した。

「夜はきちんと振舞いますので、早く帰って来てくださいね♪」

「あー、はいはい」

 まるで飼主との一時の別れを寂しがる犬のようだ。だが、今日も夜には仕事が入っている。

 更に言えば、秦珪にはああ言ったが、学校に行く気などさらさら無かった。・・・奈都のいない学校へ通う事に、何の意味があるのか。嘘は苦手な方ではない。仕事柄心にも無い言葉を滑らせる事―――それに対する抵抗も無ければ、特に女性に対しては効果が絶大だった。秦珪と奈都の異なる点を挙げると、それはこんな簡単な嘘を看破みやぶれるかどうかだ。

 見ての通り、秦珪は徹にメロメロの情態である。

 奈都も人が好かった為最初は必ず引っ掛るが、最後は必ず回収しに来た。うっとりして看破けなかった訳ではなく、一度は必ず徹自身を信じ、見兼ねた時に助け船を出してくれていたのだ。それはさながら巣立ちを見守る母親のように、根気強く、純粋に。

 秦珪はそんな殊勝な人間ではない。現在の時点であの人は既に、目的を持って動いている。徹には最早解っているのだ。

 自分に下心を持つ者に、自分のつく嘘は看破れない。自分に対する正常な判断を、その者は下せないからだ。

「人間として当然のモラルだが・・・俺の部屋のモノ勝手に触るなよ」

「解っていますよぉ」

 徹は制服を着、学生鞄を持って、いかにも学校に行く様な素振りで、家を出た。こうやって、他人を置いて家を出て行く事にも、仕事上慣れている。学生である事がバレると流石にヤバい為、ホテルに連れ込むに留めているが、秦珪はそれを知った上でバーに連れ込む不届き者だから問題は無いだろうし、兄に対して気を遣う事など無い。大事な物など置いてもいないが、一応釘はさしておいた。

 秦珪は外にまで出て来て徹を見送る。どこまでも甘い笑顔で徹の姿が視えなくなるまで手を振ると、彼と兄の住まう家へ戻り、玄関の戸を閉める。カチャ、と錠が噛み合う音が鳴ったと同時に甘い顔は失せ、すぅ――・・・と血の気が引く様な速度で表情の仮面は剥れていった。



「・・・・・・あのねぇ・・・・・・」


 バー『BASIC』のマスター・絃端いとはし 仁継きみつぐは頭を抱えた。閉店後、殆ど手探りで片づけを済ませ、正直のところへとへとになって客用の椅子に座り込んでいたところだった。

 そこに、数時間前に聞いたばかりの足音が再び聞えてきた時点で彼はギクリとしたが、足音が店の前で消えて扉が開いた時には思わず眼を開いてしまった。今池いまいけ とおるが扉を開いて、中へ入って来たからだ。

「・・・!マスター?・・・・・・大丈夫か?」

「いつもの事だから大丈夫だけど・・・どうして徹くんが此処に居るんだい?学校は?」

 ある意味で秦珪以上に不思議な存在がこのマスターである。彼は視力が殆ど無いが、足音と声だけで徹を未成年だと言い当て、数m離れた距離での香水の香りで徹の職業を特定した。だが、それらの情報からは辿り着かない答えを、このマスターは導き出している。

「・・・俺が学生だっていつ言った?」

「おや?違うのかい?こんな時間に出歩いているから、てっきり秦 珪に家を追い出されたのかと思ったんだけど・・・」

 常人離れした視覚以外の五感に加え、咄嗟の推理力と判断力。図星だ。というか

「あんた・・・・・・あいつがうちに来る事知ってたな・・・・・・?」


 コポコポ・・・・・・

 徹に訊くと、Weedier in ゼリーしか口にしていないと言うものだから、秦珪は何をやっているのだろうと思いながら、マスター・絃端 仁継は軽めの食事を用意して彼のカップにコーヒーを注いだ。

 秦珪が用意した物とは対照的な、この店の雰囲気を壊さない洋風料理だ。

「・・・・・・いただきます」

 Doctor CoffeeやTully's Coffeeといったカフェに出てくるようなホットドックにハムエッグとサラダ、そしてコーヒー。洋食である事に加え、こういったゆったりした空間の中で食事を摂る事に徹は慣れていない。否、かつてそんな空間を過した時期もあったのだろうが、その感覚は忘れてしまった。出勤前にわざわざカフェに入ってゆっくりする程彼はまだ年を取ってはいないし、静かに流れる室内時間に少し緊張した。

「君がどうして此処に来る気になったのかはわからないけど、今回は特別だよ。此処にはもう来ないように。解ったね」

 学校に行く気が無いからといって、何故この店に足が向いたのかは徹としても不思議なところであった。彼に話したい事など・・・無い事もないが、秦珪と同じ胡散臭い部類に脳内ではカテゴライズされている。にも拘らず自然と歩はこの店へと進み、先程までは居心地悪く感じていた静寂に徹は少しずつ心が落ち着いてゆく。

「―――若しかして、秦 珪の事でも訊きに来たのかい?」

 営業時間外だからか、マスターは己の分のコーヒーを運んで徹と一つ隔てた席に座った。マスターは帰る直前だったのか、開店中に着ていたバーテンダーの制服では無く、少し大きめのボタンの無いシャツにゆったりとしたパンツといった出で立ちで、体型の細さは布の余り部分から視認できた。タイトな黒服を纏いながらも隙の無い格好の秦珪とは、その点でも対照的と謂える。

 白いシャツから覗く鎖骨が、徹の方を向く。

「・・・・・・手っ取り早く解決しようとしたね」

 その為に此処に来たのかも知れないと徹は思う。秦珪は自分の真実ほんとうの姿を見つければ奈都の事件は解決していると言ったが、徹の考えはそれと逆、もしくはそれらは別件だ。秦珪を見つける事は決して自分の役目ではないし、そんな暇があるならば自ら奈都の事件を暴く。出会って1日と経たない者に、尽す謂れも無ければ首を突っ込まれる筋合も無い。

「あんた、真実とやらが視えるんだろう。なら秦珪の事も大方解るもんだろう。わざわざ俺を捲き込まずとも、あんたからあいつに言ってやれば済むんじゃないのか」

「いいや」

 マスターは飲む前に即座に否定し、一口啜ってからコーヒーカップを置いた。

「僕の言う事を真実とするなら、秦 珪の存在は無いものになってしまうよ」

「・・・・・・どういう事だ?」

「僕は客を識別する時、足音や声、雰囲気を手掛りにするんだけど」

 ・・・マスターは一旦そこで言葉を切ると、悩ましげに頭を掻いた。

「・・・特徴が無さすぎるんだよ、秦 珪は。誰かにすっかり成り代ってしまうし、そうでない時は背後に立たれても判らない。誰か、ではなく、其処に存在しているという事がね」

 ・・・俗に謂う“影が薄い”という事なのだろうが、マスターの口調は物々しかった。クラスにそういえば“影が薄い”と言われ更に身を硬くするいかにも暗い男子生徒の存在が在ったが、彼のこの台詞を聞けば、その中傷が追い込む末路が想像できる気がした。

「だから、足音は意図的に立てて貰っているんだよ。足音自体は他の誰かのものかも知れないけど、履いている靴に特徴があるから区別は出来る」

 足音一つにしても細かく取り決めが為されていたとは。そもそも足音を立てていた事すら徹は気づいていなかった。それほど、彼等にとっては自然で意識に上らない現象なのである。

 ・・・己の存在を見失うと、足音の立て方はおろか、若しかしたら息の仕方までも忘れてしまうのかも知れない。

「視えないから幻影に惑わされないとか、そういった類のものではないんだよ、秦 珪の場合は。逆に、視えない分彼に要求する事が多くて、真実から遠ざかっている様な気がしてならないんだ。だから、僕からも、君に秦 珪を見つけてやって欲しい」

 ・・・徹はハムエッグを食べながら黙って耳を傾けていたが、ナプキンで口を拭うとその口を開き、低い声で呟いた。

「・・・・・・誰だって、自分が本当は何者かなんてわかって生きていやしねぇ」

「徹くん」

 マスターはすぐに反論する。しかしこれは徹にも予測の出来ている事であった。

「秦 珪の場合、そんな単純な話じゃ・・・」

「解ってる。俺も実際現場に居たんだ。あれだと新興宗教の教祖サマにでもなれそうだもんな。でもそれは、見る側の問題であって人違いの原因を秦珪に求める必要は無いと思うんだが?」

 徹は理屈的にそちらが妥当だろうと思い、更に言えば面倒事を逃れる為の丁度いい口実でもあったのだが、マスターはそうとは受け取らなかったらしい。いや、内心では解っていたのかも知れないが、妙に感心して笑みを漏らした。

「―――秦 珪が出会ったばかりの君に、こんな大切な事を頼んだ理由が解った様な気がするよ」

 ―――その笑みはまるで弟妹ていまいや自分の子供を見守るような、身近な人が見るような慈愛に満ちた笑みであった。

「―――それでも、付き合ってあげてもいいんじゃないかな、徹くん」

 ガタッ。マスターは席を立ち、カウンターの向うへ戻る。カップの中は空。徹ももうすぐ食べ終ろうとしていた。

「秦 珪は結構な腕利きだよ。この程度の対価で事件が解決するのなら、安いものじゃないのかな」

 徹はマスターを睨んだ。マスターは相変らずの、否、いつもの営業用の笑みを浮べていた。先程のこんな大切な事とこの程度の対価の違いは、恐らく秦珪と徹の中での重要性を汲んだ結果だろう。

「・・・・・・生れて一度も、名前さえ呼んで貰えず、自分を愛してくれる筈の人はいつも他の人を追いかけていて、その人が自分に見せる顔は、泣き顔か、怒りの表情しか無い人生を想像してごらん。誰だってきっと、ああなるだろうね」

 ―――朝の光に包まれた、白く光っているリビング。ダイニングテーブルの上には、見ただけで違いが判る弁当が二つ。

 片方は、包みが豪華で量が多く、デザート用の容器が別途あるメッセージカード付の遠矢の弁当。もう片方は、包みが無く透けて見えるプラスチック容器の中に、卵焼きにしろ肉にしろ切れ端が折り重なり、デザートも一緒に閉じ込められている徹の弁当。徹は遠矢に見られないように、遠矢より早く起きて鞄に弁当箱を詰め、登校していた時期がある事を憶えている。

 ・・・ある時は、遠矢が心を開いてくれないと吐露し、泣きついてきた実の母。こちらが話し掛けても「ちょっと待ってね」と言った切りほったらかしで、遠矢の部屋には足繁く通っていた。

 何の罪悪感があったのかは知らないが、遠矢の機嫌取りばかりをしていた生前の母の嫌な過去を不意に想い出し、徹は顔をしかめた。

「―――・・・じゃあ、一つだけ訊こう」

 徹は空の皿にフォークを置き、・・・ごちそうさまと小さく言った。意地悪なマスターの閉じられた目許めもとを見据え、コーヒーの香り残る唇を開く。

「―――マスター、さっきあいつの事を“彼”と言ったが、秦珪は若しかして男なのか?」

 ―――マスターの表情が途端に曇った。悲哀と謂うよりは困惑と謂うか、慌てているようなそわそわした素振りで

「え―――言ったかい?そんな風に」

 と、逆に訊き返してきた。

「おう。一回だけな」

「そうか・・・・・・」

 困った時の彼の癖なのか、マスターはまた頭を掻く。

「マスターも若しかして、秦珪を誰かと重ねているのか?」

「そういう訳じゃないけど・・・・・・僕も徹くんと似た様なものなんだよ。秦 珪との出会いは」

 徹としては秦珪よりもこのマスターにいたく興味をそそられていた。何せ、あの訳の解らない秦珪と継続して付き合えているいかにも稀有な人物である。出会いまで自分と似ているとなると、妙な親近感を抱きそうだ。

「―――俺と同じ?」

「んん・・・やっぱりちょっと違う・・・かな」

「どんな?」

「・・・・・・」

 徹が皿を下げるついでに身を乗り出し、マスターに問い詰める。マスターは突如近くなる気配に気圧され、少し後ろへ退いたが、ふるふると首を横に振り堅く口をとざした。

「と、とにかく、秦 珪の正体については僕にもよくわからないんだ。ただ、徹くんにこれだけは知っておいて欲しい。徹くん、閉店前さっき秦 珪と店の外に居た時に、変な人に絡まれていたよね」

 徹は質問をはぐらかされたと思ったが、秘密の多いタイプとの付き合いも慣れている。彼は特に不快になる事も無く質問に答えた。

「ああ。秦珪曰く、山梨組と提携を結んだばかりの小さな極道組織だとか」

「『君津会』の事かな」

「ああ、確かそんな名前」

 極道組織の名前がすらすらと出てくるのも不思議だと思いながらも、そんな本心をおくびにも出さず徹は先を促す。

「君津会はこの頃この通りを徘徊し始めたから僕としてもチェックしているんだけど、どうやら彼等にはライバルとなる別の組織が在るらしいね」

 マスターは慎重な口振りで話す。説明が矢鱈と言い訳くさい。マスターは演技が下手だなと徹は思った。

籐廼とうの組といったかな」


『籐廼組籐廼唯恭ただやすゥーーー!!』


 ―――徹は、明け方に秦珪が籐廼とうの 唯恭ただやすと人違いされて呶鳴どなり込まれた時の事を想い出した。だが

「―――それが?」

「秦 珪は籐廼組の頭領と間違われて喧嘩に応じて、勝ったんだろう?」

 ―――ああ、確かに。あの軽そうな身体でよくもまぁ大柄の男共が吹っ飛ぶような蹴りを繰り出せる事だと思ったものだ。

 身体が華奢に視えるのも、男の急所を狙う向きが強かった様に思えたのも凡ては徹の主観かも知れないが。

 そして、その予想を支持する、いやそれ以上に強調した発言をマスターはこの後するのであった。

「―――でもそれは、秦 珪自身の実力で勝った訳じゃないんだよ」

 ―――しかし、その忠告は非常に解り難く。

「・・・・・・は?」

 徹の弛んだ口から腹で押された声が漏れ出る。

「・・・・意外と君は頭の回転が速いと思っていたんだけど」

 マスターが呆れた様に溜息を吐いた。演技は下手だが、悪意がある訳でなく本音がポロポロと口に出てしまう性格らしい。徹の心は若干ずんと落ち込んだ。そんな徹の傷心をいて。

「いいかい。相手は秦 珪を籐廼組の頭領と思って勝負を挑んでいる。君津会は山梨組の傘下に入って少しは羽振りが良くなったのかも知れないけど、逆に謂えば傘下に入らなければ生き残れないような集団なんだ。籐廼組は独立でやっていける程度の力は有る。つまり、君津会は以前籐廼組に負けて、戦々兢々せんせんきょうきょうとした心持ちの中で秦 珪に勝負を挑んだ可能性が高いという事だよ」

 ―――徹はこの時、純粋にマスターと、秦珪に対しても甚く感服した。

「―――君津会の奴等は、籐廼組に対する恐怖を秦珪に投影していたという事か!?」

「そう。彼等は始めから気合いで負けていた。秦 珪はそれを逸早いちはやく読み取って、先手を仕掛けた訳だよ。彼等の幻想を逆手に取ってね。小手先で相手を翻弄するのは、秦 珪の得意技だからね」

 マスターは叉、誉めているのか貶しているのか判らない発言をする。

「でもそれは秦 珪自身の力で勝利を得ている訳じゃない。考えてごらん。これが、虐待家庭の両親が児童養護施設に預けられている自分の子供と重ねている情況だとしたら。子供にとって親は絶対的な存在で親にとって子供は庇護すべき存在だから、そこでの秦 珪は絶対的に弱い存在なんだ。尤も、秦 珪の心までが子供に返る訳じゃないから、その情況になる前に何らかの手は打っている筈だけどね」

 ―――だからあの時、秦珪は何より先に兄貴が誰の面影を重ねているのかを知ろうとしたのか。

 虐待家庭に関しては詳しく知らないのでそこはよく解らないが、徹は漸くパズルのピースが繋がったような諒解を得た。

「―――秦 珪に救いを求める人達は皆、彼の事を最強だと思っているけど、実はそうじゃない。最強に視えるのは、いつ攻撃されるか常にビクビクして、情報収集に事欠かない弱さの賜物なんだ。真実の秦 珪はきっと、とても繊細で脆い。そこを君には胆に銘じていて欲しいんだけど」



 ―――徹はバー『BASIC』を出た。「自らを捜してくれ」と懇願してきた秦珪に何故これほどまでに関心を抱けないのか、接客でそれが現れると困ると少し危惧していたが、そんな心境の時にマスターの言葉は重かった。あの軽薄な、それでいて底知れない笑顔の奥に潜むものの正体を知るのに抵抗があるのは、あのドッペルゲンガーを信用できない以外の理由が在るような示唆を与えられた気がしたが、それと真直ぐ向き合える程徹の心はまだ大人ではなかった。


『秦 珪は決して強い訳じゃない。だから徹くん、君も自分の言動に責任を持つ様にね。君の一挙一動が、秦 珪を危機に追いやる可能性がある事を忘れないで』


 ドアを一つ隔てた先で聞いたばかりの別れ際の忠告は魚の小骨の様に喉の奥に引っ掛っていて、完全に呑み下せる様になるのは事件を招いた後となる。




 徹は久々に真昼の大都会を満喫し、服を買って適当なビルのトイレで着替えると、再び空いた小腹を満たして直接仕事に向かった。ファッションビルに居た時には、どう見たって日本人の金髪にした男がコスプレの如く学校制服を着てうろついているので異様な眼で見られたが、高校生がこの時間に街をぶらぶらしている事自体は然して珍しいものでもない。金髪より学ランの方が似合わないのも日本人として如何なものかと、珍しく国の事など考えながら自嘲していた。

 ―――生れてこの方殆ど意識してこなかったが、自分の住んでいる地域、そしてこの都会には外国人の率が高い。

 自分と似たような貌の人間も数多く在る。だが、その者が日本人か韓国人かそれとも中国人、モンゴル人なのか、それこそ在日ともなれば、通りすがっただけでは区別がつかなかった。

 小中学校の時には、殆ど自分と同じ顔で変った名前のクラスメートも結構いたものだ。そう、まさに『秦 珪』そういった感じの名。彼等はこの国に何の希望を求め、居住し留まろうとするのだろう。中には不法入国してまで来る者も在る。

 アメリカンドリーム的な希望をこの国に抱いているのだろうか。だとすれば何も得るものは無い。

 趣味や文化等、暇潰しには丁度よいが、己の身を砕いてまで手に入れる価値のあるものはこの国には無いと徹は思う。



「お早うございます」

 職場にはいつもより早く出勤した。生存競争の激しい仕事で知らない内に消えているスタッフも多いが、徹にとって此処は何処よりも居心地の好い場所であった。尊敬している人が此処にはいるからだ。

「よぅ、マコト。今日は早いのな」

 徹は傍目には落ち着いているが、少なくとも秦珪や遠矢は見た事の無い態度を見せていた。水を得た魚のような生き生きとした顔で。

「ナオさん」

「私服もイカしてんじゃねぇかぁ」

 徹が唯一心の底を開けっ広げにする事が出来る相手・ナオキ。職場の先輩で兄貴の様な存在だ。

「お、丁度よかった。マコト」

 そしてチーフ。家庭のイザコザで一番大変だった時期、相談に乗り拾ってくれたのがナオキでこの店に匿ってくれたのがチーフだった。

「お早うございます」

「おはよ。早く来てくれて助かった。今日はお前に頼みたい事があってな。お前にしか出来ない事なんだが」

 薄っぺらい言葉と知っていても、ありがちな言葉だと解っていても、特別な人から言われるとやはり違った形で心に響く。人間なんてそんなに綺麗な生き物じゃない。向うは勿論損得勘定で動いているだろうが、こちらも損得勘定で考えれば助けられ生き延びる事が出来たのだから、何も問わず、恩に報いるのが筋だと思う。

 その点に関しては、やけに日本人らしい義理堅さを持つのが徹という男であった。

「俺に出来る事なら、何でも」

「ははっ。今時珍しいタイプの人間だよな、お前。何でお前みたいな性格の人間が、昼の世界で受け容れられないかねぇ。腐ってんなこの国は。尚輝、お前もちょっと来い」

「はいはいー」

「・・・・お前は少し、誠を見倣えよな」

 冗談を叩き合いながら、ワインセラーや冷蔵庫のある奥の部屋へと連れて行かれる。徹は控えめにだが、心から微笑んだ。

 が、突如頭がずん、と重くなり、照明のスイッチを切ったかの様に眼の前がふつっと暗くなる。意識が飛び、自分が倒れたのだと気がついたのは身体が床へ叩きつけられた衝撃でだった。

 ドサ・・・・・・

 ・・・まるで夢から覚めたかのように、意識はしっかりし、ズキズキと波打つ鈍い痛みは心拍に合わせて律動を早くした。にも拘らず、感覚の出力は全く働かず、指先に力が入らなく声も熱い吐息のみが床に跳ね返り自らに届いた。

「ーーーー・・・」

「はい、チーフ」

 ・・・・・・聴覚も弱くなり、ナオキとチーフの会話もだんだんと遠くなる。あれ程覚醒していたというのに、一つ一つの感覚の狭まりと同時に耐え難い眠気に襲われ、徹は意識を手放した。

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