知る由の無い真相列車
「愛って、なんですか」
ガタン、ゴトンと転動音が響く列車の中、少女は前の座席に足を組んで座る男に言葉を発した。
「愛、ですか」
さらに男が胡散臭く思える理由は
極端に言うと、この列車は空を走っている。窓から
初めから信用に値しない男だと思っている少女は特別気にすることはなく、男からの返答を待つ。
男は
「貴方は愛を何と考えるのです?」
「…知らないから、あなたの答えを待っているのです」
少女は呆れたように言う。
「残念ながら私は、愛は確固たる意味を持っていないと考えています」
「では、あなたも"愛は人それぞれ"と言うのですか?」
少女は興味を持っている、と取れる
少女からしたら、その発想は下らない。愛に困る人が
「いいえ、私は
「…はい」
そこでまた、少女の姿勢が前傾へと変わった。
「何故貴方は愛を知りたいのです?」
「私が愛に苦しんだからです」
「何故愛に苦しんだと思ったのです?」
「その苦しみを、ずっと愛だと言われ生き続けてきたからです」
「どのような苦しみを、愛だと言われてきたのですか?」
「…言わなければいけませんか?」
「言わなければなりません」
そこで沈黙が訪れる。少女は言うか言わないか迷ったが、言わなければ意味が無い、と言う決意をした。
「聞きたいことがあります。いいですか?」
「私の質問に関係しているのなら、どうぞ」
少女は男の返答に頷き、姿勢を正した。前傾姿勢から変わったとはいえ、それが興味を失ったことを意味するものではない。
これは少女なりの決意の表しだった。
「母親に愛だと言われ、左目を潰されました。これは愛ですか?」
「なるほど、道理で貴方の目は紫色に変色しているのですね」
「父親に愛だと言われ、
「なるほど、道理で貴方は独特な匂いがするのですね」
「兄に愛だと言われ、熱したアイロンを押し付けられました。これは愛ですか?」
「なるほど、道理で貴方の肌は
「私は、私の首を刃物で切りました。これは愛ですか?」
「なるほど、道理で貴方の首から血が滴り落ちているのですね」
そこでようやく、少女は言葉を止めた。次に目を押さえ、腕を鼻に当て、爛れた肌を触れ、滴り落ちる血を眺めた。
「貴方は苦しんでいると言いましたね。では、貴方は愛は苦しいものだと考えるのですか?」
「私の人生に愛があったのなら、そうだと考えます。それ以外には何もなかったので」
「なるほど」
男は小さく頷いた。しかし何か答えが見つかったような素振りも無い。
足を組みなおし、ただ考え続ける男を眼前に少女は俯いた。
やはりこの男は愛の本質を知らないのだ。知っているように見えて知らない他の誰かと同じ存在。
まるで左目を潰した母親のように、まるで凌辱する父親のように、まるで肌を焼く兄のように、ただひたすら"愛"の本質を知らずに愛と言うだけの存在。
諦めがついて少女は立ち去ろうとした。
「…"愛の反対は憎しみではなく無関心である。"アグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ、別名マザー・テレサより」
何も発さないように思えた男から
諦めはついていたが男がまだ話をしようとしているのだ。自分だけが勝手に諦めて、もし本質を知れないようなものならそれこそ最悪である。
「この発言についてどう思いますか?」
少女は頭の中で何度もその言葉を繰り返し、意味と真意を探る。言葉通りのそれに反論は何も思い浮かばない。なんせ少女の頭の中では憎しみと愛の違いでさえ分からないのだ。
「無きにしも
「では、この考えでいきましょう」
可能性の話になるが、少女はそれに異論は無い。可能性の話でさえ、追わなくてはいけないほど愛とは分かりにくいものだと理解しているからだ
「愛の反対が無関心であったとして、愛が無いのなら貴方は家族から何もされません。つまり、愛ではない、が
「…はい、確かに」
少女の家族が少女に対して行動していたという事実は愛が無ければ生まれない行動である、というのを少女は理解した。
これによって生まれた疑問は"愛だったのか、別のものだったのか"という二択である。
「一歩進みましたね」
「…そうでしょうか」
男の発言には全く同意できなかった。少女にとっては先も周りも見えない暗闇の中を歩いているようなもので、一歩進んだとしてもそれが本質に向かっているとは限らない。
そんな不安を抱きながらも少女は口にしなかった。
「貴方はもっと自分を信じなさい」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味です」
少女には男の発言の意味は理解できたが、意図を理解することができなかった。それと同時に男の発言は愛の本質を探るにあたって必要なこととは思えず、少女は眉を
「ここで貴方の納得のいく答えが出たとしましょう。しかし、貴方は自分自身を信じていない。その納得のいく答えすら信じられない。どう愛の本質を探すのです」
「…そうですね、すいません」
男に言われて、発言に納得する。まず自分から信じてみよう、と心に決め、納得したら疑うことのないように切り替えた。
「では、質問します」
小さく頷くと男は再度足を組みなおして少し曲がっていた蝶ネクタイを直し、姿勢を正した。それを見て少女も姿勢を正す。
「愛に正しいはあると思いますか?」
「…え?」
そこで初めて、少女から驚きの声があがった。
それもそのはずだ。何年も愛の本質を追い続けていた少女に対して正しい愛があるかどうかを聞いているのだ。驚かないはずがない。
少女が呆気に取られていると、男は言葉を続ける。
「愛はこうでなくてはならない、愛はこうであってはならない。当てはまるものがありますか」
「…当てはまる、もの」
少女は必死に考える。痛み、苦しみ、拒絶、暴挙…感じ取ったどんな言葉を入れて文章にしても当てはまる気しかしないのだ。もしそれが感じ取ってない言葉だとしても、世の中の誰かには当てはまっていることかもしれない。それは少女にとって絶望でしかなかった。
それが意味するのは"愛は人それぞれ"だと認めていることになる。
「貴方は今、何を考えていますか?」
「――やめてッ!!」
列車内に拒絶の声が響く。少女は頭を抱え、抜けてしまうかもしれないほどに髪を握りしめる。俯いていることで表情は見えないが体が震えていることから恐怖に近い感情が滲み出ていることだろう。
男はこれといった行動をせず、ただ少女を見ていた。
「そんな都合のいい言葉で、私の追い求めているものを壊さないで!!」
「"愛は人それぞれ"。それもいいじゃないですか。貴方が決めれるのですから」
「やめて、やめてやめてやめてッ!!」
「貴方はただ、苦痛に打ちひしがれたあの時の感情を一言で片づけて欲しくないのでしょう」
「違う、違うッ、違う違うッ!!」
男の言う事実めかしい言葉に少女は悲鳴に近い声で否定し続けた。しかし、実のところは少女も分かり切っていたのだ。わからないフリをして、そうでありたかっただけだった。
左目を殴られる壮絶な痛みと視力を失ったと理解した時の絶望。凌辱はまるで寄生虫に体の中を
何より、それを受け続けなければいけないと理解した時のあの感情を。
「苦痛、恐怖、
少女は
「しかしね、少女よ」
男の口調が冷酷なものから穏やかなものへと変わった。しかし、それでも少女は聞く耳を持とうとしない。
男は組んでいた足を解き、腰を上げて顔を俯かせる少女の前に膝をついた。丁度よく頭の高さが同じになろうかという程度で、男は少女の顔を覗き込むようにして見上げた。
「それでも私は、"愛は人それぞれ"とは思わない」
「……………え?」
男の声に少女は顔をあげた。耳を澄ましてなければ消えていってしまいそうなほどに小さく、
「私は愛をいいものだと考えています。愛という話が出た時に、真っ先に出るのは温もりのある話ばかりですから」
男は初めて少女に自分の考えを伝えている。自然と少女は耳を塞いでいた手を離し、震える体のままその言葉を聞き入れようとしていた。
「時として愛を主張して命を殺める
世界には様々な人間がいる。それは普通の人間であったり、多少異常を持つ人間であったりもする。そして、その中に愛と称して命を殺める人間もいる。
"愛は人それぞれ"なら裁かれる事実はおかしい。
「愛とは主観的なものではないのだと思います」
男はそういうと、少女の頬の流れる涙を手で拭い、少女の手を引いた。少女は男に引っ張られ、自らの足で立ち上がる。
「では…、どういうものですか?」
これが最後の質問だろう、と感じ取った男は仮面の下で小さく笑い、少女を見つめる。少女も最後だと感じ取ったのか、まだ流れ滴る涙を薄汚れた服で拭き取り、正対した。
最後の返答。男は誠実な声色で一言告げた。
「愛とは、与えられた人が愛と感じれるものをいうのです」
その言葉に、少女が衝動を受けたのは言うまでもない。
何度も愛だと言われ続けた暴挙が、愛ではないとはっきり言える愛の本質を見つけたのだ。それが少女にとってどれだけ待ち望んでいたことであり、どれだけ少女の心を救ったことか。
「愛かどうか、貴方が決めていいのではないでしょうか」
「私…っ、は…っ!」
少女は抑えきれない涙に声をうまく発することができなかった。愛の本質を自身の中で決めたからこそ言える言葉を、男はもう感じ取っている。
「貴方は馬鹿だと言われたら馬鹿だと信じ込まなくていいのです。死ねと言われたら死んだ方がいいと思わなくていいのです。愛と言われても、疑っていいのです」
「…―――ッ」
「貴方は、貴方の好きなように思いなさい」
「―――はい!」
少女が涙を零しながら笑顔で頷いた瞬間、列車の扉が音を立ててゆっくりと開いた。
それは終点の合図でもあり、この真相列車において悩みを抱えた者がいなくなった合図でもある。
「さぁ、行きなさい。来世で貴方が幸せになるように願っています」
「…はい、ありがとうございます」
少女は何度も涙を拭い取り、涙が
「――知る由も無い真相列車、か」
扉の外の夜空を見上げながら言う少女に男は何も言葉を返さず、ただその背中を見つめている。
扉が開き終わった今、男は少女に返せる言葉などない。真相列車が男と少女を繋ぐのは、扉が開き終わるまでだからだ。
「死なないと辿り着けない、もんね」
少女は振り返り、空になった空間を見渡す。
「――ありがとう」
少女が足を踏み出したと思った時には、まるで最初からいなかったかのようにその姿は見えなかった。
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