終焉


 遠くに見える豪華客船は黒い煙を上げて沖へと向かって行く。そんな光景を眺めながら、不和紀朔は静かに語る。

「オーガスト・フレデリックの妻、双葉霜子は子供と共に日本にやってきて半年後に女の子を産んだ……そう、

「その子が虎波生絲」と由良が言うと、不和は「少し違います」と答えて眼鏡の奥で目を細めた。

「彼は二歳になった時に誘拐され、行方不明となりました。きみと同じですよ、由良。彼もまた人身売買の組織に誘拐され、売られる間際に黒川くんたちに助けられた。彼の場合、一時期施設に預けられていたのだけれどね、ほどなくして脱走した」

「脱走?」

「自身が何者なのか知りたかったのですよ。きみもわかるでしょう? 自分が何者なのかわからない恐怖心と焦燥感が、彼を自らの手で孤独に走らせた。名もない、居場所もない、過去もない、思い出もない、何もない。空っぽな自分に、限界を感じたのですよ」

 由良の場合、初めから親に売られた身で物ごころもついていた年齢だった。しかし、家族というものを持っていながら、虎波生絲は物ごころも何も、親の顔すらはっきりと覚えていない幼児期に誘拐されてしまった。つまり、自身の存在に疑問を抱き、それが成長するにつれ溜まっていき、脱走した。自分を取り戻すために、取り返すために。

「彼は自分の出生について調べていたそうですが、さすがに個人の力でどうこうできるような話ではない。シャーロット、オーガスト、ダイヤ、複雑で入り組んだ歴史を紐解く以前に、そこまで辿り着くのは個人の力ではどうすることもできませんからね」

「その手助けを不和さんはした、ということでしょうか?」

「先ほど話したように彼には魅力を感じた。彼と偶然出会ったとき黒川くんと同じ匂いがしましたからね。彼は黒川くんと似たものを、才能を持っていると、直感し、新しい戸籍を与え、精神を鍛えるべく肉体的にも鍛え上げさせた。そして彼の過去に関係のありそうな情報も、警察が所有するありとあらゆるデータベースの使用権限も与えました。私は手助けをしたに過ぎない。結果、彼は先日、ようやく自分を見つけ出した」

 トントン、と指で膝を叩きながら「La finファン justifieジュスティフィ les moyensモワイヤン」と不和が言う。

「《目的は手段を正当化する》という意味です。まさに二人にぴったりだと思いませんか?」

「悪趣味な言葉ですね」

 不気味に笑って、不和は目を閉じて腕を組む。

「彼の本名はオリヴィエール・フレデリック。血の繋がったアーサーに対しては特別な感情があるようですが、彼はこれから先、その名を名乗ることはないでしょう。オーガストをあまりよく思っていないようですからね、これからは別の、日本人として生きるつもりでしょう。黒川くんは、きっと彼の理解者になってくれる」

 薄ら笑いを浮かべ、不和が由良へ顔を向けた。不和の愛情のベクトルが非人道的なほうへと向かっていることは明確で、しかし黒川たちには心底どうでもいいことだ。とはいえ、黒川一士を生み出すきっかけは彼であり、その黒川一士に救われた由良は、不和紀朔を否定できない。心のどこかで感謝をしているのだろうと、由良は小さく笑った。

「その黒川さんも、少し変わりつつあるようですよ?」

「例の女の子ですね? 天嵜桐乃さん。さて、黒川くんはどういう変化を得るのでしょうね。楽しみです」

 『奪い返す』ことを信条にしてきて、まさにLa fin justifie les moyens、《目的は手段を正当化する》という形をとってきたと言える。だが、感情に大きな変化を見せてこなかった黒川は、彼女と出会って変わりつつあった。自分のミスでこの世界に巻き込んでしまった罪悪感は、彼に迷いや戸惑いを与え、感情を甦らせ始めるきっかけを与えた。

 僅かな変化ではあるが、よりいっそう誰かのために動こうとしている。そして、笑顔でいるのに笑顔を感じられなかった黒川に、優しさを感じるようになった。冷たく張り詰めていた空気が、解きほぐされたかのように感じられる。黒く淀んだ世界に飛び込んできた天嵜桐乃が灯した小さな小さな灯は、温かく広がっていく。

「私も楽しみです」

 由良はそう言って豪華客船に目を向けなおした。


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