s2 ep2-4
二日後、休暇明けの新井にセルゲイの依頼を話したら、思ったとおり間髪を容れず反対されたらしい。
らしい、というのは中野が出勤したあとの出来事だからだ。
が、我らが社長が親切に報告してくれたわけじゃない。
それどころか、どうだった? とメッセンジャを送っても、返ってくるのはジェネレーションZ並みに要領を得ないワンワードのみ。おかげで呆れるほど労力対効果の低いキャッチボールを繰り返す羽目になり、少しずつ得た細切れの情報を繋ぎ合わせた結果、どうやらこんな具合だった。
仇敵の来襲時に己が不在だったことをひとしきり悔やんだ我が社のエースは、外観に不釣り合いな言葉遣いで依頼にノーを突っ返したものの、ワタナベ姓の話を聞くなり翻意した──
で、今回も外注スタッフの冨賀と組ませて新井に丸投げ……もとい、二人に任せることに決めた。
ここまでわかったところで仕事が忙しくなった。
そして夜。
残業を終えた中野が会社を出ていくらも歩かないうちに、いつの間にか左脇に人影が並んでいた。
黒いTシャツにチャコールグレイのジャケット。下半身はブラックデニムと、こちらも黒っぽいスニーカー。白い
こうしてファッションアイテムだけを列挙すれば、よく知る誰かさんを彷彿させるコーデ──ただし、ジャケットがパーカーなら──だけど、残念ながら全く知らないオッサンだった。
年齢は六十前後といったところか。身長は同居人と大差ない印象。その年代の日本人男性としては特筆すべき要素がない体型で、どちらかと言えば痩せ型という程度。
「やぁ、ワタナベミナトくん」
高くも低くもなく圧もない、落ち着いた声音で男は言った。
その口ぶりに見合った穏やかな眼差しを数秒見返したあと、中野は辺りを目で一巡した。
日中と比べればクルマも人も遥かに少ない、夜更けのオフィスエリア。近くにほかの通行人はいないから、きっと自分に言ったんだろう。──思った途端、残業の疲労感に面倒臭さが乗っかって、ひどく億劫な気分に見舞われた。
「えっと、多分人違いですよ?」
笑顔という名のラッピングで内心を覆い隠してやんわりと応じたとき、ふと懐かしさに似たものが胸の裡を過った。
そういえば一昨年、ミトロファノフ家の争続ゲームに巻き込まれた際も、派遣されてきた殺し屋たちに同じような答えを返したものだ。
それでも当時と違って敬語を使ったのは、この男が本当に人違いをしている善良な一般市民である可能性が、まだゼロとは言えないから──
だったのに、せっかくの配慮もさっさと水泡に帰すこととなる。
「お父上の相続騒ぎでは大変な目に遭ったみたいだね。でも君も周りの人たちも、みんな無事で良かったよ」
ただの善良な一般市民が、ここまでドストライクなネタや旧姓のフルネームを引っ提げて夜更けのオフィス街で人違いをする可能性は、それこそゼロじゃないかもしれないけど、まぁほぼゼロじゃないだろうか。
中野は軽く肩を竦めた。
「あぁ、やっぱり人違いですね。僕の父は元気で離島暮らしをしていますから」
戸籍上の養父である叔父は健在だし、しょっちゅう離島に滞在しているから、あながち真っ赤な嘘でもない。
すると敵もそれ以上食い下がることはなく、そうか、と温和な笑顔を浮かべてこう言った。
「ワタナベミナトくんに挨拶をしたかったんだが、これは失礼したね。お父上がお元気で何よりだよ」
そのくせ、去り際に残したのはこんなセリフだった。
「じゃあ、君の──によろしく」
「え?」
途中に紛れた耳慣れない言語を訊き返そうとしたときには、男はもうビルの狭間の遊歩道に向かって歩き出していた。
もちろん、声をかけるべきか考えなかったわけじゃない。
だけど下手に引きとめたばかりに、余計なトラブルを招かないとも限らない。もしも腕力を必要とするような事態に直面した場合、自力でどうにかできる自信は、自慢じゃないけどこれっぽっちもない。だから結局やめておいた。
街路樹の先の暗がりに消えていく、チャコールグレイの背中。ソイツが完全に見えなくなるのを確認してから、さて帰ろう……と向き直った中野は、歩道の行く手からやってくる人物に目を止めた。
黒いパーカーにブラックスキニー、ライトグレイのハイカットスニーカー。
さっきまで隣にいた男と似た色合いと、大差ない身長。ただしこちらは、服を着ていればシンプルな痩身中背に見えるものの、布地を剝ぎ取れば絶妙に引き締まった強靱な裸体が現れると知っている。
そう。二人目の客は、今度こそ『よく知る誰かさん』だった。
前職の引退後は以前ほどお目にかからなくなったダークカラーのファッションが近づくのを待って、中野は口をひらいた。
「たまたま、このへんで用事でもあった?」
「たまたまじゃない。わざわざきたんだ」
いつもと変わらないテンションで即答が返る。二人はそのまま並んで、彼が現れた方向に歩きはじめた。
中野が左で、坂上が右。このポジションも、いつもと変わらない。
何かイレギュラーな状況でもない限り常に同じ配置なのは、いわゆるカップリングの表記を体現しているわけじゃない。彼らは闘う際に有利な腕を封じられないよう、利き手を外側にして他人と並びたがる傾向がある。
だから、あの男が左側に立っていたのも、カップリング云々じゃないのはもちろんのこと──じゃなきゃ、中野が『右』にされてしまう──ひょっとしたら左利きだったのかもしれない。
「わざわざ俺を迎えにきたってこと? 保育園みたいに?」
「まぁな」
「保育園を否定しないんだね」
「保育園も会社も変わんねぇだろ。毎朝出勤して、昼になったらメシを食って、たまに延長保育する」
「なるほど、俺も今夜は延長保育だったしな。ところで」
いま、妙な男に会ったよ。そう言おうとした。──はずだった。
なのに気がついたら、脳裏に浮かんだ疑念のほうが口から漏れていた。
「あんた、どこかに子どもがいたりしないよな?」
「は?」
虚を衝かれたような目が右から返ってくる。
「何の話だ?」
「うん、まぁ本気で疑ってるわけじゃないんだけど。ほら、あんた結婚もしてたしさ」
「疑ってないなら訊く必要なくねぇか」
「それはだって、仕事とは言え女性関係には違いない話を、ついこないだ聞いたばっかりで……それも、二つもね」
「──」
「で、いまの保育園ネタも妙にスムーズに出てきたもんだから、まさかとは思いつつも念のため?」
「保育園は」
中野の語尾に坂上の声が被った。溜め息をひとつ挟んで、投げ出すような口ぶりが続く。
「昔、潜入したことがあった。二日間だけ」
「え? 潜入って、まさか園児としてじゃないよね?」
「何言ってんだ、あんた」
「じゃあ、保育園で何やってたんだよ」
「保育士のフリをしてた」
「保育士?」
鸚鵡返しのボリュームが思いのほか大きかったのか、そばを通りかかったスーツのリーマン二人組のうち神経質そうなメガネがチラリとこちらを見た。対照的なタイプの片割れは、脳天気に何か喋り続けている。
坂上が言った。
「そんなに驚くことか?」
「いや……もしかして、チェック柄のエプロンなんかしてたりした? パンダやウサギのワッペンとかが付いてるような?」
「そんなもの付いてない。もうその話はいいだろ」
「ワッペンはなくても、エプロンはチェック柄だったってこと?」
「聞こえなかったか? その話は終わりだ」
不意にトーンが不穏な色合いを孕んだ。
感情の波が目立たないように見えて、意外と地味にご機嫌斜めになりがちな同居人だ。このまま続けると本気でヘソを曲げられかねない。
保育士体験について訊きたい点はほかにもあったけど、またの機会に委ねることにして、中野は会話の軌道を本来のルートへ戻した。
「で、わざわざ迎えにきた理由は、俺がさっき会った男と何か関係あるのかな?」
言い終わらないうちに坂上が立ち止まっていた。
二歩進んでから気づいて振り向くと、直前までの平坦さとは別人みたいな面構えがそこにあった。
「男って誰だ?」
「さぁ、知らないオッサンだよ」
「どっちへいった?」
「あそこの角から向こうに──」
男が消えた辺りを指差すと同時に一歩踏み出した足を見て、中野は咄嗟に手を伸ばした。
片腕で腹を抱いて推力を遮り、もう一方の手も回して両腕で引きずり戻す。途端にバネを利かせて反撥する身体は、現役を退いたくせに呆れるほどの膂力で、気を抜けば一瞬で逃げられてしまいそうだ。
とにかく抵抗を封じようと強引に抱え上げたとき、そばを通りかかったOL風の女子二人組が驚いたように足を止めた。
「やだ誘拐?」
「いや拉致だよ」
「え、あの子、外国に売られちゃう?」
なんて囁き合うのが聞こえたけど通報する気配もなく、興味津々の視線だけをたっぷり浴びせて彼女たちは去っていき、中野が誘拐と拉致の違いと、ついでに三十を超えた元殺し屋がうら若い女子たちに『あの子』呼ばわりされる違和感について思いを馳せた刹那、手のひらで乱暴に頰を押し遣られて首がゴキッと音を立てた。
「あいた」
「おい……!」
抑えた恫喝とともに腕の中が
するりと路面に降り立った『あの子』が、乱れたパーカーの裾を無造作に直しながら射貫くような上目遣いを寄越した。
それでも、跳ね上がっていたテンションは既に鳴りを潜めている。そもそも相手が中野じゃなくて敵なら、頰を撫でるような優しい真似はせずに頭ごと抱え込んでひと捻りだっただろう、この子は。
「あんた──」
まだ男の行方を気にするように少し振り返ってから、彼は苛立ちの残る目をこちらに戻した。
「なんで、そういう大事なことを先に言わないんだ?」
「言おうとしたけど、保育園ネタのほうが気になって」
「あんたのプライオリティはいつもおかしい」
「いつもじゃなくて、たまにじゃないかな。それに、先に言ったところで絶対見つかんなかったと思うよ?」
中野は言ってネクタイを整え、スプリングコートの襟を正した。
「あんただって、ほんとはそう思ってんだろ? 大体、もう危ないことする立場じゃないんだからさ。新井と酒屋に任せるって決めたんなら、彼らに仕事させなよ」
「──」
無言のまま歩き出した同居人に並ぶと、すぐに起伏のない問いが飛んできた。
「どんなヤツで、何があったんだ?」
「まぁ、普通のオッサンだったね。何をもって普通とするのかは説明しがたいけど」
そう前置きして、男の外観や交わしたやり取りをかいつまんで語る。とは言え、特筆すべき点がない風貌と三往復程度の短い応酬だ。改めて口にしてみても大した内容じゃない。
「そうそう、あんたによろしくって言ってたよ。未知の単語だったから単なる直感だけど、多分あんたのことを言ってたんだと思う」
「どんな言葉だ?」
「そうだなぁ、強いて言えば……」
中野は宙に目を投げ、耳にしたフレーズをどうにか言語音に変換してみた。
「確か、アンニョフラニチ、みたいな感じかなぁ」
「──」
「いや、全然違うんだろうとは思ってるよ? 俺だって」
「だろうな。けど、見当はつく」
「え、そうなんだ。本当は何て言葉で、どういう意味?」
「知る必要ない。それより、迎えにきたのは昼頃から妙な気配を感じるようになったからだ。その男が気配の正体か、少なくとも無関係じゃないだろう」
もはや『アンニョフラニチ』は完全スルーで坂上は言い、チラリと中野を見てこう続けた。
「あんたをワタナベの名前で呼んだって言ったよな」
「当てようか。アイツがタダシ・ワタナベじゃないかって思ってんだろ?」
その可能性は中野だって考えた。
ただし──名前にかけたダジャレじゃない──異母弟が捜している男の名と中野の旧姓が被る意味は、いまのところまるでわからない。
何らかの繋がりがあるのか、たまたま同じ苗字ってだけなのか。少なくとも母の可南子に訊いた限りでは、ワタナベタダシなる人物に心当たりはないし、該当しそうな情報も持っていないらしい。
「その可能性は除外しない。けど……あんたの言うとおり、新井たちの仕事だ」
パーカーのポケットに手を突っ込んだ坂上が、熱のない口ぶりを路面に落とした。
ついさっき滾ったばかりのボルテージはどこへやら、俯き加減の横顔はすっかり普段どおりの素っ気なさだった。
目もとにかかる黒髪、左の耳たぶに並んだ茶色と白の小さな
かつての『若気の至り』と同じ配色だというピアスの意味を、中野は今年に入ってようやく知った。
ある晩、自宅のソファでダラけていた坂上が、衛星放送のネイチャードキュメンタリーを観るともなく眺めながら無意識のようにピアスを弄りはじめた。ちょうどそのとき、中野は彼の前にハンバーグの皿を置こうとしていた。
で、いやに大事そうな指先が目について何気なく視線を追うと、テレビの中で草地をちょこまかと歩き回るツグミの姿があった。
それを見た瞬間、不思議なくらいピンときた。
確信はない。だけどツグミといえば、初めて出会った夏に二人で埋葬した鳥──断定はできなくとも、おそらく──だ。白っぽい羽毛に黒斑、茶色い翼。カラーリングの一致は、きっと偶然じゃない。
同居人は日頃から銃のメンテナンスと同じくらい、ともすれば銃以上に丹念に、小さなピアスの手入れをする。その熱心さに少々妬けて、中野は時折ピアスごと耳たぶに噛みついては怒られたりしていたけど、ソイツが自分たちの出会いの象徴だってことなら話は別だった。
そこで、置いたばかりの皿をサッと取り上げて真相を尋ねたら、よっぽど腹が減っていたんだろう。彼は独特の「どう答えたらいいのかわからない」といった風情たっぷりに、しかし案外さっさと観念した顔で、決して否定じゃないセリフを忌々しげに投げ返してきた。
鈍いくせに、なんでそんな余計なことだけ勘が働くんだ? ──と。
が、余計ついでに言えば、いま中野の裡では別の勘も働いていた。
坂上がピアスを着けなくなったのは日本に戻ってきた年らしい。つまり一昨日の話によれば、都内でDKを演じていた頃だ。
やめた理由は目印を作らないためだと当人は言うけど、本当は自棄を起こした勢いでツグミも捨ててしまったんじゃないのか。中野との思い出を葬り去るために……?
だけど、その仮説を口に出すことはしなかった。
当たっていたらいたで、また腹立たしげな言葉を喰らいそうだし、ピアスの意味さえわかっていれば経緯は重要じゃない。
そのあとは何事もなく中野坂上に帰り着いた。
ところが、春めいてきた夜の空気を嗅ぎつつ閑散とした住宅街をぶらぶら歩き、やがて箱形の我が家が見えてきた頃、二人はどちらからともなく無言の目を交わした。
そろそろ二十三時も近いのに、四階に窓明かりが点っている。
新井が仕事中なのか。だったら冨賀も一緒かもしれない。
ひとりでも二人でも、スタッフがいるんなら今夜の出来事を早々に共有しておこう──というわけでオフィスフロアへ直行した中野と坂上は、四階でエレベータの扉が開くなり三人の男たちの視線と出くわした。
見慣れた草食系と肉食系のコンビ。
そして、色白の優男だ。
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