S2 Episode2 幕開け

s2 ep2-1

 そろそろ空気も春めいてきた頃、いづみ代行サービスのオフィスに思わぬ客がやってきた。


 新井が数日間の休暇中で不在のその日、これといった用事もなく有給を取っていた中野は、急遽アポイントが入った新規客に人見知りの社長が応対するというから軽い気持ちで同席することにした。

 ──が。

 予定時刻の十三時を五分過ぎてエレベータのインターホンが鳴ったのが、たまたま坂上がトイレから戻ってくる寸前のタイミングで、コーヒーマシンのメニューを眺めて客に何を出すべきか思案していた中野が半分上の空でモニタに応じた結果、招かれざる客を容易に迎え入れる羽目になったことを思えば、軽々しく同席なんかすべきじゃなかったのかもしれない。

 だけど、あえて言い訳する。

 ご用件は? という中野の応答にこんな答えが返ったんだから仕方ない。

「マキミツアッチャックのサンプルをお持ちしました」

 紙屋の紹介であることを示す合い言葉。

 客ごとに毎回異なるそれは、仲介者の生業である印刷製本加工にまつわる言葉と決まっていて、今回は「巻き三つ折り・圧着加工のDMのサンプルを持ってきた印刷業者の営業マン」という設定らしい。

 とにかく、だ。

 合い言葉パスワードも突破して四階のオフィスまでアクセスしてきた来訪者は、少なくとも中野とは初対面だった。

 ただし知らない人物じゃなかった。

 そして既知の相手だというのは坂上にとっても同じで、エレベータの扉が開き切る前にはもう、トイレから戻ったばかりの同居人の鉄砲がピタリと客めがけて狙いを定めていた。

 開けっぱなしの窓から舞い込んだ一陣の風が、春の匂いとともに運んできたひとつの予感──


 新たなゲームがはじまる。




 細身で長身、色白の優男。

 やや赤味を帯びて見える金髪は、母親の遺伝子によるものなのか。

 とは言え赤毛と表現するほどじゃなく、ジンジャー・ヘアの属性だという雀斑そばかすっぽいものも、数メートルの距離から見る限り気にならない。

 我が国のメンズならば『ダサい』もしくは『包茎』の代名詞になりかねない黒いタートルネックのニットに、濃紺のジャケット。グレイのスキニー。足元の黒いショートブーツは値札に六桁くらい並びそうなフォルムに見える。

 己に向けられた銃口を気に留めるふうもなくエレベータから歩み出た客は、室内にいた二人を順に目で舐めたあと、まず中野に向かって口をひらいた。

 滑り出てきたのは、外観を裏切らない取り澄ました声音だ。が、残念なことに何を言っているのかさっぱりわからない言語だった。

 かろうじて途中の「ナノ」が自分のことを指しているようだと憶測できたものの、それ以外は完膚なきまでに意味不明。

 だから正直に言った。

「何言ってんのか全然わかんないし、他国に乗り込むからには自国の言語や文化は通じない前提できてくんないかな。建物内は日本語以外使用禁止ってエレベータの中に貼り紙でもしとくべきだった?」

 すると一拍ののち、男が溜め息混じりに肩を竦めて答えた。

「少しは祖国に興味を持ってくれたかと思っていたのに、言葉が全くわからないなんてがっかりですね。でも安心してください、代わりに僕があなたの言語を学んでおきましたから」

 異国の言葉以上に難解な内容だったとしても、そこそこ流暢な日本語が淀みなく出てきたことに少々面喰らう。

 窓辺に立つ同居人を見ると、チラリと目が合った。

 ──アイツ、日本語使えたんだね?

 ──知るわけねぇ。

 前者が中野で後者が坂上だ。一瞬のアイコンタクトで交わした同居人との意思疎通は、中野ひとりの妄想だったとしても大勢に影響はない。

「ようやく会えましたね、ナノ……いや、お兄さんと呼ぶべきですか?」

 訪問者はエレベータの前に佇んだまま愛想笑いを浮かべ、こう続けた。

「どうやら、すぐにわかってもらえたようで嬉しいですよ。はじめまして、あなたの異母弟おとうとのセルゲイです。どうかセリョージャと呼んでください」

 ミトロファノフという姓や、ロシアあちらでは姓より重要だとかいう父称は省略されていた。

「ほかのニックネームにしない? その愛称っていうか略称? って妙に親しげでやだよ。お兄さんってのも気持ち悪い。それと一応言っとくけど長野じゃないからね、俺」

「では何と呼んだらいいですか?」

「ナガノとお兄さん以外」

 異母兄弟の会話に、坂上の硬い声が割って入った。

「──どんな手を使ったんだ? 紙屋がお前の仲介を引き受けるとは思えない。依頼の代役を立てるにしても相当のカラクリが要るはずだ」

 静謐の中に警戒を刷く同居人の眼差しと、かつて画面越しに見た実父の正妻ヴェロニカを彷彿とさせるグレイの瞳。

 両者の視線がぶつかった数秒後、セルゲイの表情が不意にゆるんだ。

「K……いえ、いまはケイ・サカガミですか。君にはどんなに感謝してもしきれません。君がいなかったら、僕はジョージに殺されていましたからね」

 サンクトペテルブルクでクルマごとひっくり返って死に損なったとき、中野の叔父──戸籍上の父である譲二が彼をする気でいたのを、坂上が止めた件だろう。

「それは俺の都合で、お前のためじゃない」

 同居人が熱のない口ぶりを投げ返した。

「理由は関係ありません。君が僕を生かした、それで十分です」

「何が十分なんだ?」

 その問いには答えず、セルゲイはひとつ息を吐いて声音を正した。

「ここに来るためのカラクリについては、まぁいろいろ面倒ではあったし費用もかかりましたが、手段はありました。種明かしはできませんがね。でももちろん、何の用もないのにきたわけじゃありません」

「何しにきたんだ」

「そりゃあ、仕事の依頼ですよ。僕だって観光や冷やかしで来日したわけじゃない。ちゃんと相談があって今日の予約を入れたんです」

「──」

 中野と坂上は再びチラリと目を交わした。

 ようやく銃を降ろした同居人が無言で手首をひと振りすると、仕事を依頼しにきたという男はニコリと笑って、手に提げていた紙袋を掲げてみせた。

「時間に遅れてすみませんでした。お土産を何にするか悩んでいたら、いつのまにか時間が経っていましてね」

 差し出されたシックな色合いの紙袋には、馴染みのある虎のイラストが描かれていた。

 ──羊羹?

 訪日外国人から都内在住の日本人への手土産が、東京近郊で最もスタンダードに違いない老舗の和菓子?

 ソイツを渡されたのは中野だった。

 手提げ袋をやり取りできる距離まで近づいた異母兄弟は、肚の裡をオブラートで包んだ不透明な視線をほんの一瞬交わし合い、それぞれ顔面に笑顔を貼りつけて素早く互いを遮断した。

「どうせなら向こうの食べ物とか持ってきてくれたら良かったのに」

「というと、例えば何です?」

「そうだなぁ、手作りのビーフストロガノフとか?」

「手作り……?」

「英語で言えばホームメイドかな。わかる?」

「わかりますが、液体のある肉料理をお土産に?」

「冷凍したら固体になるよ。何にせよ税関で没収されそうだけどね」

「それより、さっき自国の文化を持ち込むなと言いませんでした?」

「俺、持ち込むなって言ったっけ? 通じないつもりでいろって言っただけじゃなかったかな」

「──」

「まぁでも羊羹に罪はないし、有り難くいただくよ」

 数秒中野を見つめたグレイの目が、さっさとソファに収まっていた坂上のほうへ逸れていく。

「ケイ……君のパートナーは少し精神に問題があるんじゃないですか?」

「知らねぇし、お前に言われることか? いいから座れ」

 促されたセルゲイが首を振りつつ坂上の対岸に座り、中野はコーヒーを淹れるためにキッチンスペースに入った。さっきさんざん悩んだコーヒーマシンのメニュー

も、もう考える無駄は省いて最もスタンダードなものにした。

 マシンが豆を挽いてカップを満たすまでの間、中野は考えるともなく無為な思考を巡らせた。

 異母弟に会った早々、初期の酒屋みたいな反応をされたけど、己の態度を反省する気はこれっぽっちもない。

 同居人を殺し屋に仕立てた組織と親密な関係にあり、かつて母の可南子を狙い、息子である中野を狙い、坂上の父になるはずだった男を消し、夫の若い愛人や年端もいかない幼児までも容赦なく死に追い遣るような女の息子相手に、気遣いや社交辞令の必要なんかあろうはずもなかった。

 ──というのは建前で、坂上相手にチラつかせる馴れ馴れしさが気に入らないだけと言ったほうが正しいのかもしれない。

 手土産の中身は、ひとくちサイズの羊羹と最中の詰め合わせだった。

 中野は蓋を取っ払った箱とコーヒーをテーブルに運んだ。

 坂上は定位置である窓側のひとり掛け。正面の二人掛けにセルゲイ。

 ゆったりした座面のど真ん中に陣取って長い脚を組んだ異国の客は、騒動の終結から一年以上が過ぎた現在もまだ二十代のはずだ。そのわりに年齢より遥かに落ち着いて見えるのは、巨大な事業を継いだ貫禄だろうか。中野に似ていると仲間たちに評された外観は、こうやって目の当たりにしても似ているのかどうかよくわからない。

 ソファの二人は、依頼内容とは無縁そうな雑談の最中だった。ただし喋っていたのは一方的に客のほうだ。

 中野がコーヒーを置いて坂上の隣に収まると、カップに口を付けたセルゲイが黒い水面を見つめて呟きを漏らした。

「美味しい」

 そう? と中野は首を傾けた。

「うちの社員がお気に入りの店でブレンドしてもらってるオリジナルローストらしいよ。残念なことに、今日いる二人には違いがわからないけどね」

 以前はコーヒーを飲まなかった同居人も、いまでは周りに付き合う程度には嗜むようになっていた。

 稼業のために匂いがつくのを避けていたとは言え、もともと飲めないわけではないらしく、かと言って自ら好んで淹れるほど好きなわけでもないらしい。そして彼も味に関しては、よほど不味くもない限り「どれも変わらねぇ」。

 ついでに言えば、何かと駆り出されてしょっちゅうやってくる酒屋もアルコール以外の味はどうでもいいタイプで、つまり社内でコーヒーの味がわかるヤツは新井以外にいなかった。

「さて──じゃあ本題に入りましょうか」

 イギリス人みたいな手つきでカップとソーサーを両手に持ったロシア人は、そう切り出しながら中野から坂上へと順に目で辿った。

「このひと月くらいの間に、僕の側近が立て続けに死にましてね。誰の仕業なのかを突き止めてもらいたいんです」

 若き当主の依頼内容を聞くなり、弊社の社長が気のない口ぶりで即答した。

の仕業なのか?」

「有刺鉄線で自分の両手を拘束したまま、喉にセメントを詰めたり首を切断したりする方法があるなら、自殺という可能性もあるかもしれませんがね。少なくとも病死や事故死じゃないでしょう」

 コーヒーを飲んで紅茶味の羊羹を食いながら中野は思った。

 以前、何かの海外ドラマで「ロシアン・マフィアは喉にセメントを詰める」という字幕を見た憶えがあるけど、まさか本当だったとは。──ただし、まだこの件がロシアン・マフィアの仕業だと決まったわけじゃない。

 だから、まずは無難なコメントを口にした。

「うちは、迷子の猫を捜したりするだけの長閑な事務所だよ? そんな物騒な事件の真相なんか、わざわざ大陸を横断して海を渡ってこなくたって突き止めるための人手やカネなら有り余ってんだろ」

 中野は素朴な疑問を投げて立ち上がり、キッチンに向かった。うっかりお上品にコーヒーなんか出したけど、こんなヤツが訪問客なら最初からビールで良かったんじゃないか。

 冷蔵庫からボトルビールを三本出して引き返すと、異母弟が胡散臭い笑顔でこう答えた。

「それはまぁ、単なるオフィスワーカに過ぎないのに殺し屋たちの手をかいくぐって生き延びた幸運な兄に会ってみたい、というのもありましたからね」

 中野はボトルをひとつ手にしたまま二本をテーブルに置いてソファに戻った。ビールをひと口呷って、手土産の箱からはちみつ味の羊羹をつまみ上げる。

「運って言葉を使えば何でも片づくと思ってる? この世で起こる物事ってのは単なる事象の連鎖だよ」

 ジショウノレンサを正しく理解できたかどうかはさておき、ふと表情を改めたセルゲイが、カップとソーサーをテーブルに置いてジャケットの中に右手を入れた。と同時に坂上の指が、ソファのアームに置いていた鉄砲のグリップに伸びた。

 依頼人がチラリと目を上げて笑った。

「心配しなくても、物騒なものは出しませんよ」

 果たして、ジャケットから抜いた手の先には奇妙なものがぶらさがっていた。

 古びたプラスティックのキーホルダ──のようなもの。

 直径三、四センチくらいの円形のプレートで、色はスカイブルー。ボールチェーンだけが新しく見えるのは、壊れた金具を取り替えたんだろうか。

「海を渡ってきた理由はもうひとつあります。どうしても、これを直接見てほしかったんですよ。父の片腕でもあった男が殺された現場に落ちていたものです」

 綺麗に爪を整えた指先がテーブルの上に滑らせたものを中野は数秒眺め、隣の同居人に目を移した。彼はボトルビール片手に身じろぎもせず、テーブルの上の小さな証拠品を見つめていた。

 子供のネームタグのように見える、安っぽい空色のプレート。

 掠れて色褪せたサインペンらしきインクで残っていたのは、ひらがなで書かれた『けい』の二文字だった。

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