S1 Episode5 災厄

s1 ep5-1

 中野が住んでる部屋には、中野以外の人間も住んでいる。名を坂上という。

 中野は、保険証や免許証やパスポートなんかが発行されてる『中野湊』という名義を一応持ってはいるけど、坂上にもそんなものがあるのかどうかは知らない。

 坂上って姓は、ほぼ百パーセント偽名で、中野が知る限りそこにファーストネームはセットされていない。別のフルネームの偽造IDでも持ってるのかもしれないけど、少なくとも中野はその類のアイテムを見たことがない。

 坂上の名前がいくつあるのかも想像がつかない。というより想像したことがない。中野は基本的に、根拠のない憶測というものはしない主義だった。考えたところで真相がわかるわけじゃないことに時間を費やすのは無駄でしかない。

 同じく、訊いたところで答えが得られないとわかりきってることも尋ねない。できる限り非合理的な行動はとらないことにしてる。ついでに言えば、自分に何らかの影響がない限りは他人のことも考えない主義だ。己に関係ないことに気を取られるほど馬鹿馬鹿しいものはない。

 とにかく──だ。

 中野の部屋には、毎日いるわけじゃないけど他人も住んでる。

 一般的には同居人という。もしもこれが恋仲なら、同棲って表現でもいいのかもしれない。だけど中野と同居人の仲は、身体の関係はあっても色恋とは程遠い。

 でも待てよ、と中野は思う。

 じ場所にんでるんだから、別にそれでもいいんじゃないのか? 中野と坂上は同棲してる、その表現で何がいけない?

 中野が珍しく、そんなどうでもいいことに脳味噌の領域を使ってるのにはわけがあった。

 職場の飲み会の三次会という名のもとに、上司の愛人がやってるクラブに同僚と二人して桃太郎の手下のごとく連れてこられ、いいトシこいたオッサンと若い愛人──と言っても三十台ではあるはず──のイチャつきっぷりやら、己の左側に貼りつく女の露出度やら、別のキャストのペースに乗せられっぱなしの同僚の不甲斐なさやら、何もかもにウンザリしてるせいだった。

 とりわけ我慢ならないのは、立ちこめる安っぽい香水の匂いだ。

 女たちが各々好き勝手な香りを濃厚に振り撒いてるもんだから、いろんな臭気が混ざり合って不快この上ない。もはや通報レベルの悪臭公害と言ったっていい。もしくは拷問だ。

 実際、臭気を利用した拷問ってのは存在するらしい。場合によっては他のどんな手段よりも効果的なのだとか。中野には今、それがよく理解できる。こんなところにいたら精神が破壊されちまう──

 この掃き溜めみたいな悪環境から救ってくれる術は、ただひとつ。

 同居人について考えるに限る。脳内から、それ以外の一切を追い出すしかない。

 いつでも無臭でいたがる坂上の、ほとんど感じられない匂いを嗅ぎたい。切にそう願った。

 自宅では現在、洗濯用の洗剤や柔軟剤はもちろん、台所用から住居用の洗剤も可能な限り無香料のものを使っていた。そもそもは坂上が匂いを嫌うことが理由ではあったけど、それに合わせるうちに最近では中野も同じく、押しつけがましい香料を不快に感じるようになっていた。

 ただ、そんな中でも坂上が好む匂いがあった。

 ひとつは食い物の匂いだ。最近わかってきたところでは、特に卵料理の匂いが好きらしい。

 あともうひとつ──

「もぉう、ナカノさんったらぁ! さっきから全然聞いてないでしょーっ」

 物思いを邪魔する甘ったれた耳障りな声は、テレビの中から聞こえてくる音声だとでも思い込むことにする。とりわけ、猥雑で騒々しいバラエティ番組だ。

 耳から垂れ下がるデカくて重そうなピアスの先が何度目かに肩を刺したとき、俺が坂上だったらとっくに彼女を撃ち殺してる、と中野は思った。

 そういえば同居人の耳朶にもピアスホールの痕跡がある。右にひとつ、左に二つ。

 しかし、彼がそこにピアスを刺すことはもうないらしい。つい先日、そう本人から聞いたばかりだ。

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