s1 ep3-2
翌日、帰りにメシでも食いに行かないかと坂上に連絡を入れたら、今夜は用があって出かけるという。
じゃあ、ひとりで食って帰るか、それとも真っ直ぐ帰って家で食うか。ひょっとしたら、坂上が戻ってから腹が減ったと言い出すかもしれないから、何か作っといてやったほうがいいだろうか。
だけど食い物を要求されるどころか帰ってこない可能性も大いにあると思い直し、折衷案として軽く飲んで帰ることに決めた。ついでに何かつまんでおけば、帰宅してからメシを食うのが面倒になっても諦めがつくだろう。坂上が戻れば、そのときはそのときだ。
ただ、いつものバーだと、知った顔がいた場合に帰るタイミングが難しくなる恐れがある。そこで地元じゃなく会社の周辺で、一度だけ行ったことがある別の店を覗いてみることにした。
看板は出していないその店の、極めてさりげない『Open』の札が提がった重厚な一枚板の扉を押し開けたようとした瞬間、ソイツが内側から開いて中野は手を引っ込めた。
──が。
帰る客でも出てくるんだろうと思って一歩退いた中野の前に、見慣れた顔が覗いて面食らった。
さすがに驚くに決まってる。何故ならこんなところにいるのはいろんな意味でおかしい人物、坂上だったからだ。
「な……」
何やってんだ、あんた? そう尋ねる前に坂上が素早く口を開いた。
「何してんだ」
「それはこっちのセリフだよ。だって、あんた」
中野は目の前に立つ男を上から下まで眺めた。
いつもは無雑作に下りてる髪が程よくセットされていて、パリッとした白シャツに下半身は細身の黒いパンツ、黒いロングエプロン。どう見ても客だとは思えない。
呆気に取られて立ち尽くしていたら、坂上の向こうから女の声がした。
「お客さん?」
そう問いながら近づいてきたのは、なかなか色気のある美女だった。
先日高い酒を奢らされた、武器を所持していた女とはまた別のタイプで、あそこまで露出度も高くはない。むしろ服装は、どこにでもいる仕事帰りの会社員風。年齢は中野と同年代くらいか。
入口の外に立つ中野を見上げた彼女は、ほろ酔い口調でこう言った。
「あらやだ。せっかくこんな素敵なお兄さんも来たのに帰らなきゃいけないなんて、ほんとタイミング悪いわぁ、私」
「ご主人がお待ちですよ」
そう投げた坂上の声は、平素と変わらない平坦さだった。が、彼女は気に留める様子もない。
「もう、ダメじゃないバラしちゃあ」
ほんの少しの媚びを加えた笑顔を、中野のほうへとシフトして寄越す。
「ダンナがいても、いい男と飲むのは別腹だもの。ねぇお兄さん、良かったら今度ご一緒しません?」
「いいですね、もし再会できたら是非」
明らかな社交辞令でも彼女は満足したらしく、坂上に向けて機嫌よく手を振った。
「じゃあね、フジミくん。またねぇ」
「ありがとうございました、おやすみなさい」
「そうだ、トイレにこもってるオジサマに、お大事にってね」
「お伝えします」
女を見送って『Open』の札をひっくり返した坂上は、溜め息を吐いてから首のひと振りで中野を店内に入れて扉を閉めた。
「トイレにこもってるオジサマ?」
訊いてみたけど返事はない。
カウンターに乗ったグラスは、左端と真ん中の二席分。左端はナッツの入った皿の横にスマホが放置されていた。ひとつ隣のスツールには黒い鞄。
オジサマとやらは、まだトイレの中にいるんだろうか? 余計なこととは思いつつも、中野はビジネスバッグをカウンターに置いて考えた。その客は生きてるのか、それとも死んでるのか。
坂上が溜め息を吐いた。
「あんたが来るとはな」
「俺だってビックリしたよ。ここに来たの、まだ二度目なのにこんな偶然……まさか、ここでバイトしてんの?」
「場所を借りただけだ。もう終わるから帰る」
場所を借りたってどういうことだろう?
さっきの女も、もしかして仕事仲間なのか?
口には出さずとも顔に出たのか、坂上は疑問のふたつ目にだけ答えをくれた。
「今帰ってったのは、たまたま飲みに来た常連客」
「あ、そうなんだ。で、フジミくんって誰?」
「名前を訊かれたから適当に答えた」
「坂上でも良かったんじゃないの?」
「その名前は──使わない」
どこか躊躇うような一拍を挟んで坂上は言い、無造作に髪を掻き回してセットを崩した。
見慣れない服装の後ろ姿。中野が知ってる坂上はジーンズにTシャツとチェックシャツだの、パーカーだのばっかりで、こんな風に腰まわりの細さが強調されるファッションは初めて見た。
知らず吸い寄せられる視線を逸らしたとき、奥のほうで何やらガタッと音がした。
ロングエプロンのサイドポケットにサッと手を突っ込んだ坂上が、音のしたほうに足を向けて、一段引っ込んだ壁の死角──前に来たときに使ってないから定かじゃないけど、おそらくトイレがある──に消えたかと思うと、くぐもった銃声が二発聞こえて静寂が訪れ、すぐに戻ってきた。
外して丸めたロングエプロンを手にしてるのは何故なのか、中野は敢えて考えないことにした。仮に、ソイツに小さな穴がいくつか空いていようが中野には関係ないことだ。
「ここで一杯飲んでくことはできそうにないね」
「もう出ないといけねぇから」
「用事が終わったんなら、どっかメシでも食いに行かない?」
「は? まぁ──行けなくはないけど……」
曖昧に答えた坂上は、オジサマのものらしきスマホをシャツの胸ポケットに突っ込み、何かを思い出したように中野を見た。
「あんたは飲みに行くたび、あぁやって女に声かけられてんのか?」
「え? いや、そうでもないと思うけどな。まさか妬いた?」
「そうじゃねぇ。こないだみたいなのもいるから用心しろってだけだ」
背を向けてカウンターに鉄砲を置く坂上に近づき、腰に腕を回して引き寄せる。
「それよりさ。こういう格好、あんた意外と似合うよね」
「そうか?」
「俺のスーツ姿、好きなんだっけ?」
「そんなこと言ってない」
「似合うって言ったよね、こないだ」
「似合うって言っただけだろ?」
「俺はあんたに似合ってるその格好、好きだよ」
「だったら何なんだ、とにかく出ねぇとって」
言ってんだろ──そう続くはずだったであろう声を中野は強引に封じた。
表のプレートはひっくり返してあっても、鍵がかかってるわけじゃない。だけどそんな事実はストッパーにはならなかった。
尻を剥き出しにさせて後ろから押し入ると、今宵限りの店員はカウンターに載せた腕に額を伏せて押し殺した声を漏らした。
互いに言葉もないまま行為を終えたあと、どこか忌々しげな手つきで身なりを整えた坂上は、銃をウエストの後ろに突っ込んでウォールハンガーから黒いパーカーを引き剥がした。
ソイツを羽織って、カウンターの上に残されていたもの──クシャリと置かれていたおしぼりだとか、飲みかけのグラスやコースターなど──をロングエプロンで包んで丸め、彼は中野を促して店をあとにした。持ち出した荷物は、最初に通りかかったコンビニのゴミ箱に捨てていた。
「これも何かの運命だよなぁ」
並んでブラブラ歩きながら中野は言った。
「何がだ?」
「あんたと俺」
「──」
「今夜、俺があんたの仕事の現場に足を運んだのは、きっと何万分の一とかさ……いや、もっとかな? とにかく天文学的な確率で条件が揃って、俺はあんたのもとに導かれたわけだよね」
「まさか運命なんてものを信じてるのか?」
坂上は一切の抑揚を省いた声を投げ返してきた。パーカーのポケットに手を突っ込んだ同居人は醒めた面構えを前に向けたまま、彼にしては長めのセリフを継いだ。
「あんたが何かを論理的に考え、いくつかは無意識の選択もして、それらが集合して今夜の結果が弾き出されたってだけの話だろ。つまり導いたのは誰かや何かじゃなく、あんた自身だ」
「まぁ、そうだね。じつを言うと運命なんて言葉は好きじゃないし、そんな妄想を信じるほど若くもない」
中野が肩を竦めたとき、坂上が小さく舌打ちして呟いた。
「だから、早く出ねぇとって……」
「え?」
横顔を見ると、どこか見覚えのある目つきがそこにあった。
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