s1 ep1-2
「なぁ」
後頭部の向こうで声がした。
灯りを落とした部屋で地上波放映の洋画を観るともなく眺める間、ベッドの上には我が物顔の居候が転がっていて、部屋の主はそのベッドに背中を預けて床で胡座を掻いていた。
「アイツ、あんたに似てるよな」
感情のこもらない声が言う『アイツ』というのは、映画の主人公を指しているようだった。
元CIAエージェントだとかいう長身の優男は、どちらかと言えば北欧辺りの刑事ドラマかロシアのスパイものにでも登場しそうな、神経質でお堅いクソ真面目タイプの外観だった。
どうしてあんなキャスティングにしたんだろう? と中野の頭の隅に引っかかり続けていた違和感が、同居人のコメントに過敏に反応した。
「俺あんな、ロシア人スパイみたいな感じ?」
振り向かずに訊き返したら、投げ出すような即答が後ろから返った。
「ロシア人スパイがあんなヤツだと思ってんのか?」
質問の答えにはなっていないけど、言いたいことはわかっていた。
中野の容姿が主張する、生粋の東洋人にはないDNAの気配。肌の色や髪、瞳の色素の薄さ。金髪碧眼とはいかないまでも、間違いなく織り込まれた異国の遺伝子の仕業だ。
中野が義務教育を終えないうちに他界した母親は、紛れもなく日本人だった──と思う。少なくとも極東の血統ではあった。つまり彼女が実母じゃなかったというオチでもない限り、この突然変異は父親由来のものなんだろう。だけど父について中野は何も知らないし、戸籍の『父』欄にも文字はなく、ブレンドされた外観から人種を憶測するという不毛な努力もしたことがない。
画面の中では、恋人を殺された主人公が悲しみのあまり日常生活もままならなくなっていた。
ありがちな設定だな──中野は思い、坂上がカネと一緒に持ち帰ったボトルビールを口に運んだ。
「何をあんなに引き摺る必要があるんだ?」
ベッドの上の坂上が、相変わらず熱のない声で言った。
「どうせそのうち別の女を見つけて立ち直るよな。部品と同じだ。交換すれば修繕できることがわかってるのに、いつまでもドン底気分に浸って時間を浪費するなんて馬鹿げてると思わねぇか」
恋人の死を嘆いてるにしては不自然なほど起伏を抑えた主人公の慟哭と同じくらい、坂上の疑問には抑揚がない。
「女に限らず、生物学的に繋がりのない他人なんて代替可能なパーツでしかねぇだろ? しかも人間ってのは、心臓か脳味噌が働くのをやめちまったら完全に終わりだ。与えられた時間は機械よりも限られてるってのに、消耗パーツがひとつダメになったぐらいで稼働できないブランクが発生するなんて時間の無駄もいいとこだよな」
坂上がこんなに長いセリフを喋るのは珍しいことだった。
何かあったんだろうか?
訊いたところで答えないのはわかってるからわざわざ尋ねたりはしないけど、変化の原因が何もない確率よりは、何かあった可能性のほうが高い。
だから中野も、頭でわかってても気持ちが伴うとは限らないのが人間だ、などという雑な答えでお茶を濁すことはしなかった。
「脳の機能とか分泌物に支配されてるんだから仕方ないんじゃないかな? そういうメカニズムなんだよ。自分を守るために辛いことはちゃんと忘れるように、人間の脳味噌ってのは都合よくできてる。とは言え性能には個人差があるだろうし、忘れるまでの所要時間だの必須アイテムだのっていう諸条件は人によって千差万別だと思うから、まぁ要するに……」
画面の中の男はとりあえず現在、廃人同様のホームレスみたいになっていた。
「燃費が悪いと、一旦あぁならざるを得ないのかもね?」
「燃費か」
「とにかく、あれはあれで必要なプロセスなんじゃないかな? きっと。ただ、ひとつ言っとくけど」
中野はロウテーブルにボトルを置くと、立ち上がってベッドの端に尻を乗せた。
「俺は、あんたを部品とは思ってない」
口から漏れた言葉に嘘はなかった。
部品とは思ってない。部品以外の何だとも思ってない。
じゃあ何だと思ってるんだ──という問いは幸い返らず、手を伸ばしてボトルビールを取り上げても、のし掛かってベッドに押しつけても、坂上は「何故」とも「何を」とも言わなかった。
自分の身に起こってることなんだから、何をするんだ? なんて訊くまでもないし、訊かれたところで中野も困る。
相手が坂上じゃなくても、同性とこんな流れに縺れ込むのは初めての経験だった。
なのに何故、こんなことになったのか。
特徴がない上に表情もなくて印象に残りづらい坂上の顔立ちは、よく見ればそれなりに整ってるほうだとは思う。ただし女っぽくもなく、男くさくもなく、つまり性というものを感じさせない。だから余計に、こんな展開になった理由が見当たらなかった。
ひとつ言えるのは、ふたりの間に挟まっていた一定の距離が今夜なくなって、それどころか坂上の内部にまで食い込んだ。その事実だけが目の前にあった。
テレビの画面では、さっきあれだけヘコんでた主人公も、もう新たな運命の女と濃厚な濡れ場を演じていた。
液晶が映し出す熱気には遠く及ばないまでも、坂上は平素のニュートラルな風情と比べたら遥かに人間らしく興奮していて、中野はちょっと意表を突かれた。ちゃんと勃つべきモノが勃ってるところを見ると機能も正常らしい。
半分捲れたTシャツの裾から覗く、程よく割れた腹の陰影。
ソイツが呼吸に合わせて形を変えるさまを見るともなく眺めていると、枕の端を握り締めた坂上が堪えかねるような声を上げた。
「待っ……いっぺん、抜け」
「え、今? 抜いてどうすんの?」
「いいから、ちょっ、やばいからマジで──」
何がどうやばいのかを訊く間もなかった。
枕の下に手を突っ込んだ坂上が黒光りする拳銃を抜き取るや否や、即座にトリガーを引き絞った。続けて二度。
これにはさすがの中野も行為を中断した。
理由の三分の一は目の前の出来事に面食らい、三分の一は下手に動いたら危ないと本能が告げたからで、残りは音圧に鼓膜を叩かれたせいだった。
銃口が示す方向を目で辿ると、玄関の上がり框に知らない男が倒れていた。
室内の光源がテレビしかない上に俯せだから断言はできないけど、多分知らないヤツだと思う。ここから見る限り、推定二十代から五十代の間。スーツを着てはいるものの、仕事関係の顔見知りとかじゃない気がする。
クソ、と坂上が忌々しげに吐き捨てた。
「だからヤバいって言っただろ!?」
「いや、そういうヤバさとは思わないし……ていうか、いつのまにそんなものをそんなとこに隠してたんだよ?」
「いいから早く抜けって、そんで──」
言いかける坂上の尻を掴んで、中野は強引に行為を再開した。
途切れた声が掠れて短い尾を引き、すかさず非難が飛んでくる。
「今──こんな場合じゃ……!」
「だってあとちょっとだったのにさ、まぁつまり、あとちょっとだから」
宥めようと口にした言葉は、自分でもよくわからない理屈だった。
坂上の片手に貼り付いてる黒い鉄砲が目に入らないわけじゃない。だけど動転しすぎてるせいか、逆に何とも感じていないのか、とにかく最後までやらなきゃという謎の強迫観念みたいなものが中野の神経を突き上げていた。
分泌物だ。
直面した現実をシャットアウトしてコイツとやれ、と脳味噌が下す指令。
アドレナリンに命じられるままゴールを迎えた直後、一瞬で目の色を変えた坂上が両手で銃把をグリップするなり再び同じ方向へと二発ぶっ放した。
跳ね起きざま、引き抜いたティッシュで腹に放たれた中野の精液を乱暴に拭き取った坂上は、床に落ちていたボクサーブリーフを拾い上げて穿きながら侵入者に素早く近寄るという一連の流れを器用にやってのけた。
その間も、彼の右手から黒い火器が離れることはなかった。
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