第八十話 閉ざされた扉を開けたくて
メグミちゃんたちに背を押された私は、きちんと正面から話をしようと決めた。しかし私は未だに、ヒマちゃんと連絡を取ることさえできずにいる。
直接マンションを訪ねてみても、居留守なのか本当にいないのか、声すら聞こえることはなかった。
三〇一号室の扉が、まるで
バイト終わりのロッカー室でメイド服を脱ぎながら、ヒマちゃんのことを考えつつ溜息を吐いてしまい、隣で着替えていたチガヤちゃんが私の方を見た。
「やけに大きな溜息が出たわね。悩みごと?」
「んー、ちょっとね」
事情を話すわけにもいかず、曖昧にぼかして会話を打ち切ろうとしたのだけれど、チガヤちゃんが「当ててみましょうか」と笑う。
「今、ヒマワリとケンカしてるでしょう?」
正確にはケンカ「できない」のだけれど、当たらずとも遠からずだ。着替え途中のチガヤちゃんは、下着姿のままスマホを弄り始めた。
「ほとんど毎日、リコは元気かってメッセが来るのよ。今から家に行くとこだけど、話したいなら一緒に来る?」
「えっ!?」
そう繋がるとは思わずに、思わず大声で驚いてしまう。なによ、とチガヤちゃんがじっとりと私を見た。
「私がヒマの家に行くって、そんなにおかしい?」
「そんなことないよ。そうだよね、美術科みんな仲良いもんね」
「まぁ、ヒマたち四人の仲の良さは別格だけどね。あの子とハヤトが兄妹みたいなものだし」
笑顔でスマホを弄り続けるチガヤちゃんに、私は何も言えなかった。
チガヤちゃんに連れられて、今日も三〇一号室の前にやって来た。
「ドアスコープの前に立たない方がいいわよ」
小声で囁くチガヤちゃんから、私は死角に押しやられた。
呼び鈴を鳴らすと、はぁい、とヒマちゃんの声がする。ずっと聞きたかった声は、どこか元気がなかった。
「いらっしゃーいっ」
玄関の扉が開き、中からヒマちゃんが顔を出す。少しクセのある髪は結われておらず、外から吹き込む風でふわりと揺れた。
「えっ……なんでリコがいるの?」
その目はパチリと見開かれ、そしてすぐに伏せられてしまう。やっぱり私は、こんな形で来るべきではなかったのだろうか。
「ごめん、ヒマちゃん」
「リコは謝らなくていいのよ、私が誘ったんだもの。もうアンタたちは直接話しなさい!」
チガヤちゃんは、ヒマちゃんに軽くデコピンをした。多分それは、ハヤトくんの真似なんだけど……今はちょっとだけ、辛い。
「もー、わかったから」
ヒマちゃんは、しばらく私の顔を見つめた。彼女にしては珍しく無表情に近くて、その感情は全く読めなかった。
「いいよ、二人とも入って」
「ほら、ヒマの気が変わる前に入っちゃいなさいよ」
私の背を押すチガヤちゃんを見て、ホントにもう、とヒマちゃんが呟いた。
久しぶりに来たヒマちゃんのお部屋は、少し散らかっていた。
私たちが囲んだローテーブルの上には、コンビニ弁当の容器や空のペットボトルがそのままにしてあって、ヒマちゃんが慌ててゴミ箱へ放り込んだ。ベッドの上には脱ぎ捨てたパジャマが丸まっている。
気力を失っている証のようで、なんだか悲しくなった。
「あとは二人で話すといいわ、私は帰るから」
「ううん、チガヤちゃんも一緒にいて」
気遣って帰ろうとするチガヤちゃんを、ヒマちゃんは即座に引き止めた。
しまった。とにかくヒマちゃんに会うことしか考えてなかったけど、チガヤちゃんの前でどう話せばいいんだろう……言い回しを悩んでいると、ヒマちゃんが顔を歪めた。
「隠すことないのに、みんなに言えばいいのに……なんで?」
「なんでって、仲直りしたいからだよ……」
私の声は、尻すぼみになってしまう。ケンカしてこいと言われてここへ来たのに、最初から「仲直りしたい」なんて言っちゃってる。
だって、仕方ないじゃないか。
直接話をしたかったのは、感情的に罵りたかったからじゃない。ただ、思ってることを言い合いたかった。私はこのままなんて嫌だから、どうすれば元に戻れるのか、その糸口を掴みたいだけだ。
「私、すごく悲しかったけど、ヒマちゃんだけが悪いとも思ってないよ」
私がそう言うと、ヒマちゃんは思いっきり視線を逸らした。
「誰が聞いたって、私が全部悪いよ……チガヤちゃんにも、聞いてみようか」
「えっ……待って! 言っちゃダメ!」
チガヤちゃんに聞かせたくなくて、必死で言葉を遮った。私と初めて言葉を交わした時のような態度を、ヒマちゃんへ向けて欲しくなかった。
それなのに、ヒマちゃんは止まってくれなかった。
「私ね、ハヤトに抱かれたの。アイツ酔い潰れてて、私とリコを間違えて……だから私、リコのフリをした。ハヤトのことが好きだったから。ハヤトとタケルに好かれてるリコが、ずっと羨ましかったから」
膝を抱えるように座り直したヒマちゃんに、チガヤちゃんは「ふうん」とだけ言った。
「……それだけ?」
「他に何を言って欲しいのよ。誰が悪いかなんて、当事者にしかわかんないわよ」
チガヤちゃんの反応はあまりに淡々としていて、ヒマちゃんは口を半開きにしたまま固まっている。
「まぁ、そんな秘密を言われたら、私も言わないとフェアじゃないわね……ヒマ、私ね、ニシくんのことが好きなの。高校生の頃から、今も」
「ニシくんって……ニッシー!?」
チガヤちゃんが抱え続けてきた、ニッシーへの一途な恋心。その一切を知らなかったヒマちゃんの驚きの声は、ほとんど悲鳴だった。
「高校時代、デブだオタクだってからかわれてた私に、ニシくんはとても優しかった。クラスでも部活でも、私が孤立しないよう、いつも声をかけ続けてくれた……ロクに友達すら作れない私が、人気者のニシくんを好きになるなんて、身の程知らずもいいところだったんだけどね」
ニッシーらしい話だ。どうして彼を好きになったのか、すごくわかる……けれど、それを語るチガヤちゃんの表情は、どこか鋭いままだった。
「大学に進学したら、想いを伝えるつもりだったの。それまでに女の子らしくなるんだ、なんて決めたりして……だけど入学してみたら、あっという間にニシくんは、他の女の子に恋をしてた。嫌になるけど、すぐにわかっちゃったのよ」
チガヤちゃんが語る恋の話を、ヒマちゃんは気まずそうに聞いていた。
ヒマちゃんの恋を叶えたいが為に、ニッシーは一度だけ、他人を傷付ける行動をした。それだけ自分が想われていたことを、この子はどう捉えていたんだろうか。
「そんなの、私のせいじゃないもん……」
拗ねるように顔を背けたヒマちゃんを見て、チガヤちゃんは苛立たしげに、両手でローテーブルをバシンと叩いた。
「そういう話じゃないの! ニシくんもハヤトもカメヤンも、あんなにアンタを大事にしてたじゃないのって話! アンタねぇ、あれ以上の何が欲しかったのよ?!」
一気に
「私はヒマが羨ましかった! きっとメグもアイリもそうだったはずよ?! なのにどうして、アンタが悲劇のヒロイン気取ってんのよ!!」
チガヤちゃんはそこで手を離し、そして大きな溜息を吐き、苛立たしげに頭を掻いた。
「怒鳴ったりして、ごめん……でも、今のヒマがやらなきゃいけないことは、自虐じゃなくて謝罪じゃない? 許して下さいごめんなさいって、リコにひたすら謝るところじゃないの?」
落ち着こうと必死なチガヤちゃんを見て、ヒマちゃんは完全に俯いてしまったけれど、それでも言葉は途切れなかった。
「だって謝ったら、リコはあっさり許しちゃうでしょ……リコのそういうとこ好きだけど、ちょっとだけ嫌い……いっそ、私を嫌いになって欲しいと思ったの」
「そんなの無理に決まってるじゃないの、リコなんだから。アンタたち、本当に面倒臭いわね!」
チガヤちゃんが呆れるように笑い、つられたようにヒマちゃんも、俯いたままでクスッと笑う。頑なだった心が、解けたのを感じた。
「今日、来てくれて嬉しかった。メッセを送り続けてくれたのも、嬉しかったよ……ありがとう、リコ。本当にごめんなさい」
それはすごくヒマちゃんらしい、真っ直ぐな謝罪だった。
「私の方こそ、いっぱい傷付けてごめんね……仲直り、してくれる?」
きっと私たちは、本当の意味で仲良くなれる――そんな期待を込めたけど、ヒマちゃんは頷いてくれなかった。
「もう、元通りにはなれないの。私が自分を許せないし、ハヤトも私を許さないよ……リコは、ハヤトと同じ気持ちでいてあげて」
「そんなの……」
関係ないよ、とは言えなかった。
私はハヤトくんの彼女なんだから、アイリちゃんにも言われたように、彼の気持ちへ寄り添わなければいけないんだろう。
だからといって、私も一緒に怒るべきなのだろうか? 本当は怒ってなんかいないのに、この子を責めなくてはいけないのだろうか?
戸惑う私を見たヒマちゃんが、おねがい、とすがり付いてくる。
「お願いリコ、私を許さないで。私のこと、嫌いになって……こんなお願い、したくなかった。だからもう、会いたくなかった……!」
この子の抱えている苦しみが、そのまま伝わってくる。はっきりと見える悲しみが、私の胸を押し潰してしまおうとする。
だから「わかった」としか言えなかった。
ヒマちゃんは小さく頷いて、そのまま黙り込んでしまう。たくさんの感情を我慢しているように見えた。
本当に、これでいいの?
こんなものが、ハヤトくんの望みなの?
何もかもヒマちゃんが悪いことになって、ひとりぼっちになってしまって、笑顔すら見せてくれなくなって――ヒマワリが、枯れてしまう未来。
あの人が、そんな結末を望むなんて、絶対にあるわけがないじゃないか!
「本当に悪いと思ってるなら、私の言うこと、二つ聞いて」
罪悪感に付け込む格好なのは承知の上で、私はワガママを言うことにした。思いもよらない反応だったのか、ヒマちゃんはじっと私を見つめている。
「一つ目は、メイくんと会ってあげて。やり直したがってるんだから、逃げずに向き合ってあげてね」
「タケルが、私と……?」
「そうだよ。あんなに取り乱したメイくん、私もはじめて見たんだからね?」
少し頬を染めたヒマちゃんが、わかった、と頷いた。
「二つ目は? 二度と実家に帰るな……とか?」
ありえない予想を口にするヒマちゃんへ、私は「簡単なことだよ」と返す。
「ハヤトくんは、いつか必ず許してくれる……その日が来たら、また私の親友になって!」
これは命令ではなく、祈りだ。いつになるかはわからなくても、この祈りが届く未来は必ず来る。私はそう信じて、この子にしか叶えられない、二つ目の願いを口にした。
ヒマちゃんは大きな目をぱちぱちと瞬かせ、次第にその目尻は下がり、涙はぽろぽろと零れ続けた。
「そういうこと言うから……期待、しちゃうじゃない、バカぁ……!」
嗚咽を隠せなくなったヒマちゃんの背を、チガヤちゃんがそっと擦り続けた。
ヒマちゃんの部屋を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「ねぇ、ご飯食べて帰らない?」
チガヤちゃんが私の腕を掴んだ。逃がさないぞと言わんばかりだ。いいよと言うと、そのまま駅前の定食屋へ連れて行かれた。
入口で迷い無く食券を買い、ボックス席に陣取る。女子力や写真映えなんて気にしないチガヤちゃんといるのは楽だ。女の子を楽しむ時間も好きだけど、今は自然体でいられる方がいい。
今日は選ぶ話題も「今月開催のコスプレイベントが楽しみ」とか「ニッシーに触発されてオリジナルの漫画を描き始めた」とか、そういう前向きなものばかりだ。さっきの話については一切触れない。私の気分を上げようとする気遣いが伝わってきて、胸がいっぱいになった。
「そうだ。今度の店休日、シグマさんがご飯食べようって。ホワイトデーの次の日ね」
「わかった、空けておく! 高いお店なのかなぁ、ドレスコードとかないよね?」
「定食屋じゃないのは確かよね、ふふっ」
二人でクスクス笑っていると、チガヤちゃんの肉野菜炒め定食と、私の生姜焼き定食が運ばれてきた。
「さて、しっかり食べて元気出さなきゃね!」
割り箸を二つに割りながら、チガヤちゃんが笑う。
私の生姜焼きの隣に、肉野菜炒めが山のように盛られていった。
その日の夜、メイくんへ電話をかけた。夜中の通話は久しぶりだ。
相手はメイくんだと言うのに、なんだか緊張してしまう。用事がなくても電話をかけ合い、ベッドに潜って夜通し喋っていた頃が、ほんの少しだけ懐かしかった。
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