第17話 幕引きは神によって行われる

 細雪は走っている。


 表通りを行く人間にはあることすら忘れられたような、寂れた路地裏を一心不乱に走っている。


 行き先はおそらく、彼女の所属する組織。


 時折後ろを気にしては、不安を払拭するようにスピードを上げる。


「あと少し――」


 息も絶え絶えに、自らを鼓舞するように彼女は言った。


 最後の一踏ん張り、と自然に足も速まる。


 が、その時。


「待ちなさい」


 薄暗がりを切り取ったかのように、突然人影が現れた。


 スーツ姿にサングラス。おおよそ個人を特定出来るものは何もない、そんな格好をしている。


「何処へ行くつもりですか」


 体温を感じさせない平坦な口調で彼は言った。


「いえ、その」


「仰らずともわかります。あなたにつけたはずの発信器と処理装置から信号がなくなったことから、あなたの身に何か起こったであろう事は想像に難くありませんでしたから」


「はい、その通りです。彼らに……その、私があの人と血縁関係にないことを知られてしまいました」


「なるほど」


「で、ですが、こちらの情報はまだ知られていないに等しいです。私に出来ることがあるかはわかりませんが、まだお役に立てます」


 次第に細雪の口調は速くなる。


 しかし、スーツの男はそのまま、平坦に、無感情に言い放った。


「そうかもしれません。ですが、あれとやり合うにおいてこちらのリスクを常に念頭に置かねばならないのも事実。あれがこちらの存在を勘づく事は、あなたを生かしておくことに到底釣り合わない代価となりる」


 そこで言葉を切り、細雪に一歩近づく。


「あなたは、組織の為に死ぬつもりだった。それは間違いないですね?」


 その言葉の真意に気づいてか、細雪は小さく頷く。


「ご苦労様でした。あなたのしたことは、こちらにとって大きな利益となった。ここで消えるには惜しい、そんな功績をあなたはあげたのです」


 男の手には、鈍く光る何かが。


「けれど、これは必要なコストなのです。あれとやり合うに用心しすぎることはない。あれと渡り歩いたあなたを、私は心から尊敬します」


 覚悟を決めたのか、細雪は目を瞑る。


 けれど、その肩が小さく震えているのを


「そーれっ」


 走り込んだ勢いそのまま、男の顔を思い切り殴りつける。骨のぶつかり合う音と共に、男は倒れ込んだ。


 唖然としている妹に向かって、僕は一言、


「助けに来たよ、細雪」


 そう言ってくしゃりと頭を撫でた。


 実は肉弾戦の必要は全くなかった。ただなんとなく格好つけたかっただけだ。


 あとめちゃくちゃ拳が痛い。やっぱり慣れないことをするもんじゃない。


「なんで……誰もついてきてなかったはずなのに」


「そりゃあもう、妹の位置がわかるように兄は教育されているのさ」


 とかなんとか。


 そう言いながら頭を撫でる手に紛れさせ、こっそり襟元の発信器を外した。先ほど彼女の頬をべたべた触っていたときにつけたものである。


 ちなみに有理の私物だ。何で持っていたかはやはり聞いてない。


 伸びてしまっている男の所持品をごそごそと調べていると、細雪は不満げに言った。


「なんでこんなことしたんですか」


「何でだろうねえ」


「私は兄さんを裏切ったんです。どころか最初からあなたを兄だとも思ってなかった」


 それは嘘だ。


「嘘ではありません。他の人と同じ、あなたのことは実験材料としか」


「いや、違うんだよ。さっき確信した」


 ひとしきり探って、向こうの大まかな位置を把握してからもう一度細雪に向き直った。


「こいつと同じなら、君は僕のことをあの人とは呼ばない」


 男は終始僕のことをあれ呼ばわりしていた。


 それに対して、最後まで細雪は僕のことを人間扱いしていた。


 未だに兄さんと呼ぶのが抜けていないのもある。


「君は僕のことを実験材料だなんて思ってない」


 細雪は血の通った人間だ。


 役目が果たせず悔し涙を流し、死ぬことを怖がる、普通の人間だった。


 きっとあの夜の笑顔も、涙も、嘘じゃない。確信はないけれどそう思った。


「頼りになる兄さんだと思って慕ってくれている」


「それはごめんなさい」


 丁寧に断られた。


「それで、細雪はこれからどうするの」


 小さく伸びをしながら、僕は彼女に質問する。


「また組織の為に死ぬと言ったら?」


「否定はしないけど、絶対に止める」


「矛盾しています」


「仕方ない」


 兄って言うのは理屈抜きできっとそういうもんなんだ。


 誰かのために死のうとすることは否定出来ないけれど、妹が死ぬのは嫌だ、と言う矛盾。


 こんなことを言っているから、まといなんかに甘いと言われるんだろうけれど。


「他には? やりたいこととかないの? 行きたいところとか」


 魂が抜けたように呆けている細雪の目に、少しだけ光が灯ったような気がした。


 ぽつり、と言葉が漏れ出す。


「……プラネタリウム」


 ほう、プラネタリウム。


「行ったことがないの?」


「いいえ、そういうわけではないんですけど、もう一度行くとしたら――と思ったら」


 その瞳が、思い出したかのように揺れ動く。脳の中の記憶を探し求めてたゆたっているみたいだ。


「いいね。他には?」


「ほか……海に行きたいです。泳げるところじゃなくて、静かに一人でいられるような」


 その言葉を切っ掛けに、後から後から細雪の生きる希望がにじみ出てきた。


 もう一度入道雲が見たい。


 電車に乗って遠くへ行きたい。


 美味しいパンが食べたい。


 冷たい川に足を浸したい。


 ふかふかのベッドでゆっくり眠りたい。


 潮騒を感じて、汗を流して、将来に悩んで、誰かの喜びを共有して、ひまわりも見たい、イスに腰掛けて何でもない時間を過ごしたい。


 読んでない本がたくさんある。聞いたことない歌がたくさんある。見たことない景色がたくさんある。感じたことない幸せも、悲しみも、楽しさもたくさん、たくさんある。


「これは、そう……そうですね。死んでしまうわけにはいかなくなってしまいました。兄さんのせいです」


 細雪は口調とは裏腹に、どことなく嬉しそうに見える。


「それは……ふふっ」


 思わず笑ってしまう。


「何を笑っているんですか。全ては兄さんのせいです」


 わざとらしく頬を膨らまし、細雪は言った。


 ともあれ、これで


 お揃いだ。


 ああ、なんて罪深いんだろう、僕ってやつは。


「もしもどうしようもなく困ったら、僕のところに来るといい」


 そう言って僕は事務所の名刺を取り出す。


 あとは何とかしておくから。そんな僕の言葉に、細雪は小さく頷いて言った。


「頼りにしています。兄さん」


 僕に背を向け、明るい大通りの方へと消えていく細雪。


 彼女にばれないように、男の命を奪ってから大きく深呼吸する。


 もう殺し屋の真似事はやめよう。明日からは――まあ、何をやるか全然決めていないけれど。


 だから、今からやるのはただの私用で、私情で、私怨だ。


 なゆたと、細雪と、そしていたかもしれないもう一人の僕の妹。


 僕のを侮辱してくれた罪はきっちりと精算してもらう。


 目的の建物が見えてきた。


 さて。


 全部台無しにしてやる。


 全ては実を結ばず、平等にならされ、打ち壊され、濁流のように目に映る何もかもをおじゃんにしてやる。


 僕はもう一度大きく息を吸い、宣告する。


「さあ、幕引きだ。機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナがやってくるぞ」

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