第17話 才能とアインシュタイン

手術が終わった後も、俺と理乃との交流は続いた。彼女は待合室でいつも難しそうな文献を読んでいるのだが、俺が待合室に入るとそれをそそくさと机の上に置いて、行儀よく膝の上に手を乗せる。一言二言の他愛ない挨拶を交わしてから、俺は理乃の向かい側に腰を下ろし、ようやっと2人の会話が始まる。これらはちょっとしたルーティンみたいなものだ。


「そういえば、理乃はいつも何を読んでるんだ?」


「ちょっとした科学雑誌だよ。入院中は暇だから、時間つぶしにと思ってね。カケル君も読む?」


「いや、俺はいい。そんな難しそうなもの読める気がしないからな」


「そんなに難しくないよ?中学理科で分かるようなことも記事になってるし。...ほら!この染色体の研究記事とかなら簡単だよ。中2でやったメンデルの遺伝の法則のおさらいにもなるし」


そう言われ、渋々と理乃に渡されたページを見てみる。確かに、優性・分離・独立といった見覚えがある単語が載ってはいるが、それらが理解を促してくれるわけもなく、記事を読み進めるごとに文字は意味を失って訳が分からなくなった。


「すまんが、俺の脳みそでは容量オーバーみたいだ」


志半ば、俺は理乃に雑誌を返した。それを理乃は少しだけ残念そうに受け取る。


「人間の脳みそに容量なんてないのになあ。私に理解できてカケル君に理解できないことなんてないよ」


「そんなことはないさ。君は俺と違って頭が良いから、そういうのを理解する才能みたいなのがあるんだろう。向き不向きは潔く受け止めるべきだよ」


「それ、野球でも同じ事が言えるの?」


少し口籠った。しかし、なんとなく理乃のペースに乗せられたくはないと思って、ささやかな反撃に出た。


「ああ言える。肩ができている奴はピッチャーに行くし、周りをよく見れるやつはショートが向いている。適材適所は野球にだってあるんだ」


「私が言ってるのはそんな事じゃないの。ボールを投げる才能とか、走る才能とか、もっと当たり前な事だよ。カケル君がどのくらい才能に満ち溢れた人かは分からないけど、野球が上手ならそれは全部その人の努力の結果だと思う」


理乃が珍しく笑わないで真剣な目をしていた。聞き手を納得させたいという熱意から生まれた、真っ直ぐな眼差しだろう。そこには一切の悪意の入る余地も無さそうだ。


「だから、私は才能って言葉はずるいと思うな」


最後にいつも通りのはにかみ顔で付け加えた。


「...まあ、そうだな。そういえば俺も才能なんて信用している方ではなかったからな」


今でこそチームを引っ張る三年の一角を担っているが、足も遅く、てんで試合に使ってもらえなかった小学校の頃の記憶が蘇る。悔しくて、情けなくて、そんな自分を変えてやろうと中学に入ってから自分に厳しくした。それが功を奏して、有名な高校から推薦がかかるような今の自分がいるのだ。だから、才能なんて空虚だ。今では納得できる。


「ごめんね、ちょっと熱くなっちゃって。無理に納得しなくても良いよ」


理乃は、頰を掻きながら申し訳なさそうに弁明した。俺は気にしてないという気持ちを表すため、彼女に軽い質問を投げた。


「しかし、俺みたいなバカがこんな高尚なこと理解できるようになるのだろうか」


苦笑しながら放ったその疑問に対して、彼女は真面目に答えを探した。あっ、と小さく声が漏れる。何か思い浮かんだんだろう。理乃はとても分かりやすい。


「私は頭が良いわけではない。ただ人よりも長い時間、問題と向き合うようにしているだけである」


丁寧に台詞を再生し、理乃は付け足してこう言った。


「誰の台詞でしょう?」


「理乃」


「はい、ぶぶー。そしたらわざわざこんな勿体ぶりませんー。あと一回ね!」


「いや、全然分からない」


ふふと彼女は楽しそうにネタバラシをした。


「かのアインシュタインだよ。説得力あるでしょ!」


俺は静かに頷く。続けて、彼女の言葉に耳を澄ました。


「どんな問題も時間をかけて、あの手この手で追求していけば解けないことはないの。バカとか関係ない。やる気さえあれば、カケル君はニュートンにでもアインシュタインにでもなれるんだよ!」


今や彼女の目は、出会った時と同じような輝きを帯びていた。きっと自分の興味のあることに対して、全力で向き合っているからだ。


「それで、問題を追求するための手段を作ったり、逆にそれを活用して問題を解いたりするのが科学者なの。問題が解ければ、見えない世界が広がるし、きっと才能じゃなくて、これまでの努力が報われたって思えるんだ」


理乃は興奮した勢いで俺の手を取り、窓から差し込む朝日の輝きも相まった、光る目で真っ直ぐ俺の目を捉えて言った。


「私達だって小さな科学者なんだ。だから、私はカケル君にも、理系を好きになってもらいたいな!」

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