幕間三 無月

 今宵も、赤木あかのぎは厚い雲で覆われる。

 あかり疾風はやて依月山いづきやまを逃げて数日後のこと。東家の屋敷では重い空気が漂っていた。

 その中心にいるのは、東の御方。蘇芳すおううちぎを優美に着流した彼女は脇息きょうそくにもたれ、不機嫌さを隠そうともしない様子で虚空を睨みつけていた。

 脳裏に思うのは、数日前の密偵の報告。


『西家の兵が、天子様殺害の下手人の遺体を見つけたようでございます』


 どういう方法を使ったのか、西家は天子を殺害した人物を見つけ、依月山まで追いかけたらしかった。下手人は打ち取られ、首が瑞希みずきに持ち込まれた。その身元は、中流貴族の次男坊で、先代の詠姫よみひめの義兄であった。

 すぐさま男の首は瑞希で晒され、家族は貴族身分剥奪の上財産の没収。家族共々天羽からかなり離れた孤島に流罪。その全ては、西の御方と息子、寅彦とらひこを中心にして行われた。

 東の御方は、僅かに眉根を寄せた。悔しくて仕方がない。詠姫の行方が未だようとして知れない今、これで寅彦を次期天子にしようとする西が活気づくに違いない。


(ひとつ手は打ちましたが、これも成果が出るかどうか……)


 心を落ち着けるように深く溜め息を吐いた時、御簾みすの向こうで澄んだ笛の音が聞こえた。夕闇を切り裂くような鮮烈で透明な音色。辰彦たつひこ龍笛りゅうてきだ。

 東の御方は、御簾を上げ透廊すきろうへ出た。慌てる侍女を制して宵闇に沈む前庭を覗く。

 辰彦は、庭池の傍の石に腰掛けていた。淡い長髪が水面の風に揺れて銀にきらめく。東の御方から数歩の距離であったが、彼が気づいた様子はない。東の御方も暫く声をかけず、静かに息子の様子を見守っていた。

 赤木に来てから、辰彦はこうして外で龍笛を吹くことが多くなった。何か、物思いをするように水面みなもを見つめていることも。

 きっと、次の天子になることを考えているのだろうと思う。東の御方も東家も、辰彦に天子になるように言い続けてきた。散々圧力をかけてきた。だが、それも全ては辰彦のため。ひいては東家のためである。それも、彼は分かっているはずだ。

 だから、辰彦が悩むのは、天子になることよりも詠姫が見つからないことによって中々次期天子に決まらないことだろう。愛する息子のためにも、早く詠姫を見つけなければと思う。

 心のうちで決意を固めたとき、ざあっと一際強い風が吹いた。

 水面が揺れる。落ちた木の葉が砂とともに舞い上がる。後ろで御簾ががさりと音を立て、侍女が整えに走る衣擦れが聞こえた。

 御簾の音が聞こえたのか、辰彦が静かに振り返った。板間に座る母と目が合い、表情を柔らかく和ませる。


「母上、聞いておられたのですか」


 東の御方もひとまず物憂げな表情を消し、息子に優しい笑顔をみせた。


「益々良い音になりましたね、辰彦」

「いや、ほんの手遊びですよ」


 辰彦が照れたようにはにかんで頬を掻いた。いつも生真面目な辰彦も、この時ばかりは年相応の青年らしい笑みを浮かべる。暫し、母息子の穏やかな時が流れた。

 その時、東の御方の横に、音もなく黒い影が忍び寄った。東家の密偵である。


「奥方様、神苑しんえんに完全に火が回りました。数人の配下が武人のふりをして民衆に情報を強襲ゆすったところ、詠姫様を宿場町の方で見かけたとのことです」


 東の御方は喜びの声を上げたいのをこらえ、半眼で黒衣の男を見た。


「東家のしたこととは気づかれていませんね?」

「恐らくは。お命じの通り、全員武人の格好をいたしました」

「良いでしょう。褒美は後で差し上げますから今は控えなさい」

「なんですと?!」


 密偵が驚きと怒りの混じった声をあげる。だが、驚いているのは彼だけではなかった。


「母上、神苑に火を放ったとはどういうことですか!?」


 辰彦の声が驚愕に震える。東の御方は短く嘆息した。


「辰彦、落ち着きなさい。……お前は早く下がりなさい。辰彦の前でする話ではありません」


 密偵は暫く戸惑っているようだったが、やがて再び音もなくいなくなった。

 辰彦は東の御方に詰め寄った。


「母上、どういうことか説明してください!」


 東の御方は、興奮で震える肩をぽんぽんと軽く叩いた。


「貴方が気にする必要はありません。心配しなくてもすぐに情報が入って、詠姫様を見つけられますよ」


 優しく言うが、辰彦は駄々っ子のように睨みつけてくる。東の御方は驚いた。珍しい。大人しい辰彦がこんな表情をするなんて。


 しかし、辰彦がその表情のままでいたのはほんの一瞬のことだった。すぐに子供じみた表情を消し、僅かに目を伏せる。


「全員に武人の姿をさせたというのは、西家に責任を負わせるためでしょうか」


 東の御方は満足そうに微笑んだ。やっぱり辰彦は賢い子だ。


「そうです。武士なんて野蛮なんですからこのくらいするでしょう」


 だらしなく着物を着崩し、刀を腰に刺した男どもの姿を思い出して、彼女は嫌そうな表情で吐き捨てた。武士は嫌いだ。礼儀がなく、品に欠け、重んじる伝統も存在せず、ただ今日を楽しむことを喜ぶだけの人々。異国の文化に染まり、天羽人あまはびとの雅というものをまるで知らない。あんな家の男が天子になるなど考えただけでぞっとする。

 だからこそ、辰彦を次期天子にしなければ。そのために、母としてできることをするつもりだ。

 東の御方は辰彦のすずの瞳を覗き込み、しっとりと妖艶に微笑んだ。


「大丈夫。私に任せていなさい。宿場町の民も快く情報を提供してくれることでしょう」


 今夜は無月。

 厚い雲に覆われて、さやかな月も人の誠の心も覗き見ることはできず。

 ただ、静かに夜が更けていくばかり。


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