第五話 長元坊

 燈と疾風が転がりこんだ宿は、「長元坊ちょうげんぼう」という。

 翌日、女将さんにお礼を言ったあかりが「変わった名前ですね」と言うと、女将さんは同じ名前の鳥がいて、そこからつけたのだと教えてくれた。


「チョウゲンボウはね、天羽あまはに冬の間だけやってくる渡り鳥なんだ。蜻蛉とんぼみたいに翼を広げて空を飛ぶんだけど、その姿を見るのが好きだった祖父じいさんが宿の名前にしたんだって昔教えてもらったよ」

「この辺りでも見られるのですか?」


 実際に見たくなった燈が問うと、女将さんが笑った。


「そりゃ見られるよ。今はちょいと早すぎるけどね」


 チョウゲンボウが天羽にやってくるのは秋も半ばになった頃。さらに瑞希は最南端なので他の地域よりも訪れが少し遅いのだという。

 確かに今は朝晩がようやく涼しくなったくらいで、まだ昼間じっとしていても少し汗ばむくらいには気温が高い。チョウゲンボウが渡ってくるには少し暑すぎるのだろう。

 それでも、いつか見てみたいと思った。蜻蛉のように空を滑空する、チョウゲンボウを。


 宿屋「長元坊」は三階建ての大きな木造建築だ。かつては偉い貴族の旦那様が建てたお屋敷だったが、中央に移ることになったので何人かの使用人に分け与えられたらしい。その使用人のひとりが女将さんのお祖父さんだったのだ。元は平屋の建物がいくつも連なった形をしていたのだが、宿屋を経営するにあたって二階と三階を増築したのだそうだ。


「他の使用人も宿屋をやり始めたんで、あちこちから宿屋も旅人も集まってこうして宿場町になったんだ。まあ、一番繁盛しているのはうちの宿だけどね!」


 そう話す女将さんは得意げだ。何でも、女将さんの母親の代になって一階で握り飯や乾物を売るようになってから一気に繁盛し始めたのだという。


「母さん直伝の握り飯なんだからそりゃ売れて当然だけどね。まさかこんなに客が押し寄せてくるなんて思わなかったからさ。燈と疾風はやてといったっけ? あんた達にもしっかり働いてもらうよ」


 仕事着として朱華はねずの小袖と薄墨うすずみ色の髪結い紐を手渡された燈は大きく頷いた。


「はい! 助けて頂いた分きっちりお仕事しますので何でも言ってください!」


                   *


 釜の蓋を開ければ、熱い湯気とともにふっくらつやつやとしたご飯が顔を出す。白米は高価なので半量だけで、残りは麦やひえあわといった雑穀だが、それでも美味しそうなことには変わりない。

 そのご飯に熱いうちに塩を振って、宿自慢の特製の佃煮や漬物を包んで握っていく。握り加減は形が崩れないようにしっかり、それでいて固くなりすぎないように。


「こんな感じですか?」


 燈ができた握り飯を女将さんに見せると、彼女は嬉しそうに笑って頷いた。


「うん、上出来。じゃあそれを奥で待っているお客さんに渡してくれるかい?」


 女将さんが指で指し示したのは、四十代ぐらいの青丹あおに色の水干すいかんを着た男性だった。汗だくで、重そうな背負子を床に置いている。

 燈は作った握り飯を竹の皮に包んでからその男性に渡した。


「お仕事お疲れ様です。熱いので気をつけてくださいね」


 笑顔で差し出すと、男性もにっこりと微笑み返してくれた。


「ありがとう。お嬢ちゃんも頑張ってな」


 優しい言葉に燈の胸もほんのり暖かくなる。美味しそうに握り飯を食べる男性にもう一度にこっと微笑んでから、燈は宿の人々の姿を見渡した。

 宿屋の人々は店の人もお客さんも皆明るい。天羽が混乱しても、明るく力強く生きている。そんな人々の様子を見て、燈は神苑しんえんで話した天子様を思い出した。


(天子様が語っていた天羽の民は、こんなに素敵な人達だったんだ)


 何てことのない日々を大事にする、他愛もない豊かさ。きっと天子様が愛しく思っていたのはこの豊かさだったのだ。

 燈も愛しいと思う。今の自分に何ができるのか分からないけど、詠姫よみひめとしても、それ以外でも自分にできることがあるのならば、この光景を守るために何かしたいと思う。


「燈ちゃーん、こっち手伝ってくれない?」


 考え込んでいたら、土間の方から名前を呼ばれた。振り返ると若い女性の従業員さんが手を振っている。


「はーい!」


 燈は奥の間に押し寄せるお客さんの間をすいすいと抜けて、ぴょんっと土間に降り立った。そんな燈の身軽な姿に、手を振っていた女性がびっくりした顔をする。


「燈ちゃんてば随分軽やかに動くんだねえ」

「少し舞をしていたので、動き回るのは自信があるんです」


 燈ははにかみながらそう言った。詠姫として毎日舞の稽古をしていたので、動き回るのは得意だった。体力もそれなりに自信がある。最も、疾風には遠く及ばないけれど。

 その疾風は、宿屋の裏手で大きな猪を捌くのを手伝っている。天羽では鳥ぐらいしか主だった肉食の習慣が無いが、山の近くでは猪や鹿も食べられている。宿場町も天羽の端っこで飛鴛ひえん山脈が近いので、よく誰かが狩ってくるのだそうだ。恐らく捌いている猪もそうなのだろう。

 実は、燈は肉というものを食べたことがない。詠姫は巫女姫の性質が強いので、神苑に肉や魚自体を持ち込むことが許されず、それらが含まれない精進物と呼ばれる料理を食べていた。詠姫になる前のもっと幼い頃には食べていたのかもしれないが全く覚えていない。

 猪を食べたことがないと言うと、女将さんが少しだけなら食べさせてあげると言ってくれた。捌いた肉は干して冬までの保存食にするらしいが、ほんの少し切れ端を焼いてくれるという。どんな味がするのか今から楽しみだ。

 裏手の扉が開いて疾風が顔を出した。疲れているようだったが、燈の方を見てちょっと微笑んでくれる。

 燈も笑顔を返すと、後から入ってきたおじさん達が疾風の頭を小突いた。


「若もんがいっちょまえにイチャイチャしよってからに」

「ほら、嬢ちゃんが見てるんだから背筋をしゃんとせい」


 がははと笑う男性陣に疾風は呆れた顔をした。


「いてーよ、おっさん」


 燈はその様子を、少し離れたところから幸せそうな表情で見ていた。

 やがて他の人々も混ざって、宿の中は一気にお祭り騒ぎになった。

 微かな秋の香りを孕んだ風が吹く頃、宿屋「長元坊」はその日いつまでも笑い声が絶えなかったのであった。

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