プロローグ
浜ノ浦高校新聞部コラム「非モテの嘆き」
『恋愛至上主義のクソッたれ共へ』
恋愛とは性欲の詩的表現に他ほかならない。
映画のようなラブロマンスも、日ごろ目にする男女のイチャイチャも、周囲に隠し通すカップルの秘ひめ事ごとさえも、全て性欲という言葉に置き換えることが可能である。
なぜなら恋愛というものを突き詰めていけば、結局のところ子孫を残すという本能に基づき、その本能を手助けする存在に過ぎないからだ。
例をあげよう。
恋愛によって結ばれた2人が、
これすなわち。人前でイチャイチャする行為は性的表現を世に解き放ち、それを公共の場でひけらかしているのと同義である。もし世が世であれば公然わいせつ罪で逮捕されていたであろう。
にもかかわらず、恋愛とは世の中でもっとも尊いものであり、最上のものであり、至上のものであるかのように扱うクソったれ共が存在している。
それが
一見、彼らは人畜無害のように見えるかもしれないが、
彼らは恋の渦中にいる己らを
つまり彼等の根源には、恋愛に不器用な者は存分に叩きまくっても問題がないという意識が存在しているのである。
そしてその傾向は、ここ
だがしかし。恋愛に不器用な者共よ、この風潮に負けてはならない。
敵が非童貞であることを誇り、童貞に対する優位性を語るのであれば、断固反抗するべきなのである。
教室後方で睦言を交わすカップル、放課後の廊下や中庭のベンチで笑い合うアベック、休日の映画館やファミレスで楽しそうな顔を浮かべる恋仲の二人組。そんな場面を見て羨ましがってはいけないのである。
歯を食いしばり「まったく羨ましくない」と言わなくてはならない。
血の涙を流しても「ぜんぜん羨ましくない」と言わなくてはならない。
それこそが恋愛至上主義者に対する最良の反抗であり、同時に、恋愛至上主義者と我ら非モテが極力関わりを持たないようにすることこそが、双方に平和をもたらすのである。
にもかかわらず、我ら非モテが極力関わりを持たぬように努力しているにもかかわらず、奴ら恋愛至上主義者共はわざわざ我々の元までやってきて「すっぱいブドウじゃん」などと煽ってくるのである。これをクソッたれ共と言わずしてなんと言うのか。
まあ、つまりアレだ。くたばれ愛至上主義者共め。
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