⑤ ≠一目惚れ
空架町の最北端に位置する、名も無い森がある。
昔は神社があったらしいが、その名残は無い。
全ては鬱蒼とした木々に包まれ、過去の存在となってしまった。
そんなただの森でしかない場所の一番奥に、その場所はある。
小さな池。
咽かえるような木々の匂いに包まれた空間が突如として開け、まるで何かの冗談みたい美しい空間が、そこにはある。
夏になればぼんやりと、明滅する小さな光が池の周りに浮かび上がる。蛍だ。都会にも田舎にもなれなかった街に、唯一残された蛍の住み家。
だというのに、誰も知らない。こんなに綺麗な場所なのに、人の踏み入った形跡を、私は見たことが無かった。
勿体ないと思うと同時に、喜びを覚えた。私だけが知っている秘密の場所。
夏の夜はいつも一人になりたくて、よくその場所を訪れた。そうして蛍の光に包まれながら、ぼんやりと空を眺めているだけで、私は何もかも満たされた気持ちになれた。
在原と初めて出会ったのは、そんな場所だった。
小さな虫の鳴き声や、草葉の揺れる音が聞こえる。生ぬるい風が頬を撫でる。
そんな穏やかな自然と溶け込むように、在原 悠は佇んでいた。
月に照らされ、蛍に包まれ、星を眺めるその姿は、恐ろしく様になっていた。まるで私は、一人だけ絵画の世界に迷い込んでしまったような錯覚に陥った。
儚げ、というのか。幻想的、というのか。
在原は私よりも断然、その場所に相応しい人間のように思えた。
その風景だけ、その記憶だけ切り取ってみれば、ロマンチックな少女が夢に見る理想の風景だったかもしれない。
ただ一つ残念なことがあるとすれば、当時の私は、夢なんて何一つ持っていない捻くれた女の子だということだった。
その美しい光景を前に心を動かされることは無かった。
どころかむしろ邪魔だとすら思った。それが私には気に食わなかった。縄張りを荒らされた動物の気分とは、きっとこういうものなんだろう。
しかしながら当然ながら、私には「ここは私の場所だから失せろ」と言えるだけの「何か」があるわけでもなかった。それほどの「何か」があれば、私は最初からこんな場所を必要としなかっただろう。
だから私は帰ろう、と思ったのだけど、そんな私の挙動を察知するかのように、在原は突然に振り返って私の方を見た。
視線が遭う。
空っぽの眼。こちらを見てはいるけれど、その眼に私は映っていない。
存在するだけの空虚。意識はあるけれど、意思はない。
喜びも怒りも悲しみも楽しさも、退屈という感情さえも存在しない空虚な表情。
まるで鏡を見ているような、強い既視感に襲われた。
人を見て、こんな感情に襲われるのは初めてだった。
世界はそれを一目惚れと呼ぶのかもしれないが、そんなものを正直に認められるほど私は純情な人間じゃない。
その時の困惑を、言葉にするのは難しい。
最初は、同じだと思った。いや、同じではない。似ているのだ。いや、似ているとも違う。――類似。
そう、類似しているのだ。
根本的な特徴は何一つ似ていないのに、特徴を並べていけば、同一のものとしか思えないような、奇妙な証明を見させられている気分。
まるで鏡に映った自分自身を見ているような。
虚像となった自分自身を見ているような。
彼は誰も見ていない。彼は何も見ていない。私がそうであるように、他人に対して持つべき感情が、ほとんど欠落しきっている。
彼は人を認められない。人を拒絶することも出来ない。ただ全てが通り抜けていくだけ。私がそうであるように、個性と呼ぶべき感情が、ほとんど壊死しきっている。
そういうことは、直感的に分かる。
だからこそ、私は安心した。
そして「この人だ」、と直感的に思ったのだ。
今後私の人生が何十年と続くとすれば、ずっと隣にいられるのは、この人しかいない。
そんな合理的な感情を本当に恋と呼んでいいのか分からない。
一つだけ言えるのは、捻くれている、いないに関わらず、私も歳相応の少女だったということだ。
要するに、夢見がちだった。
そして夢を夢のままで終わらせられるほど、強い人間でもなかった。
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