3-12 誘惑に魅力はない

 休みが明け、久々にモーネの部屋に入ると、彼女は机の抽斗に入っていた絵本を手にアルファベット表とにらめっこしていた。


「ずっと、こんな調子だ」


 何をしたんだと言わんばかりの見張り役の男に、シェスティンは黙って微笑んだ。


「今日は夜の食事を共にしたいと、あるじは言っている。問題ないな?」


 彼の言うことは絶対なのだと、こちらに否を言わせないよう圧のある声に、モーネは絵本から顔を上げて男を睨みつけた。彼の言う主とはパートの事なのだろう。

 シェスティンは小さく嘆息しつつ、頷く。礼をしたいと言っていたから、そのうち声がかかるとは思っていたが、顔を出した傍から言われるとは思っていなかった。


「ありがたく、お受けします」


 当然のように首肯して男はいつものように扉を閉め、鍵をかけた。


「こんにちは。モーネ。ずっと勉強してたの? えらいわね」

「……聞かなくていいのに」


 不機嫌そうにぼそりと呟く彼女が可愛くて、シェスティンはクローゼットの一角からブラシを取り出すと、彼女の後ろに回り込んでその髪を梳かし始めた。


「今日は作法の勉強もしましょう」


 琥珀色の瞳が振り返って眇められる。必要ないと語っているようだ。


「食事に誘われるのは今日だけではないわ。上手くいけば、貴女も一緒に食べられるかもしれない。部屋から出られるチャンスは増えた方がいいでしょ?」

「今日だけではないとどうしてわかるの?」

「ふふ。勘。でも、当たるわ」


 表に向き直った彼女の手が、たどたどしく文字を指し示す。


『や』『め』『て』


「……大丈夫よ。心配しないで。挨拶を覚えてから、どこまで文字を覚えたか教えてちょうだい」


 さらりと梳けたストレートの髪は真珠のような光沢を孕んで、仄かに光っているような錯覚を覚える。彼が「パーレ」と呼んでいたのも頷けた。

 モーネは渋々と立ち上がり、片足を引き膝を折るレディの挨拶を練習するのだった。




 いつもの時間が過ぎると、パートが直々に迎えに来た。少し早いけど、遅くなるよりはいいだろ、と手を差し出す。

 あえてその手を無視して歩き出すと彼は楽しそうにシェスティンの横に並んだ。


「そんなに警戒しないで」


 向かう先のある部屋の前に男性が二人、ドアを挟むようにして立っている。いつもは人気のないこの別棟に明かりが灯り、開けられたドアからは暖かい空気が漏れていた。


「親父たちがいたんじゃゆっくりできないだろう? こっちに用意させたんだ。楽にして」


 椅子を引かれ、シェスティンが座るとすぐにシャンパンを手ずから注がれた。

 向かいの席のグラスにも注ぐと、パートはそのままその席に着き、グラスを持ち上げる。


「乾杯」


 気障なウィンクと共に差し出されるグラスに、シェスティンは自分のグラスを合わせる。チン、という小さな音が使用人一人いない部屋に響いた。


「……誰も、いないのですね」

「その方が気を使わないかと思って。大丈夫、ドアの向こうには待機させてるから。さあ、冷めないうちにどうぞ」


 テーブルの上には鮭を使ったオードブルやロールキャベツ、じゃがいもを潰してソーセージを添えたものなど数種類の料理が所狭しと並んでいた。


「言ってくれれば、俺が取り分けるから」

「いえ、そんな。お構いなく」


 シェスティンがエンドウ豆のスープに口を付ける様子を微笑みながら見届けてから、パートは自分の食事も開始した。


「彼とは上手くいってる?」

「えぇ。お陰さまで。ご心配ありがとうございます」

「貴女をここに呼んでるものだから、馬鹿らしい噂も耳にしてね。大丈夫なら、良かった」


 わざとらしいとも言える微笑みはシェスティンの一呼吸まで観察しているかのようだった。


「でも、彼とも結婚の予定はないんだろう? 彼が気の毒だね」

「別に、結婚してないから一緒に暮らせないということもありませんし、私は彼を支えていくと決めましたから」


 パートは少し驚いた顔をした。


「彼と、一緒に? それは、お兄さんが許してくれるかなぁ。あの人、そういうのうるさい気がする」

「今すぐにとは、もちろんいきませんけど……彼を支えられるようになれば、きっと」


 ふふ、とパートは「空を飛ぶんだ」と夢を語る子供を見たかのように笑った。


「近道もあるよ。貴女を気に入る金持ちはいくらでもいる」

「……それは……」

「もちろん、そういう道もあるってだけの話さ。俺は応援するよ。頑張って」

「ありが……」

「でも、くじけそうな時は相談して。俺があげるから」


 シェスティンの言葉を遮って紡がれるのは、捕食者の言葉。甘くくるんで、毒を忍ばせる。


「そこまで、お世話になるわけには」

「何を言うんだ。モーネがあんなに素直に勉強してるなんて、奇跡だよ! 貴女には感謝しかない。それを返そうと思ったら、そのくらいなんでもないことだよ」


 大げさに手振りを加えて、人好きのしそうな笑顔でパートは笑う。

 「いくらでも頼って」と言われて、シェスティンは曖昧な微笑みしか返せなかった。

 それから食事が終わるまで、パートは甘い言葉で事あるごとにシェスティンを褒め称えた。いいかげんうんざりしてきたところでドアの外から猫の声が聞こえてくる。

 スヴァットは部屋の外で餌をもらっているはずで、これ幸いとシェスティンは腰を上げた。


「呼んでるみたい。ごちそうさまでした。とても、楽しい時間でしたわ」

「……こちらこそ。また、一緒に食べてほしいな。今度は猫も一緒にどうだろう」

「ええ。喜ぶかもしれませんね」


 パートは満足そうに頷いた。

 用意された馬車に乗り込む直前、シェスティンは見送りのパートに思い出したという風に告げる。


「今度から、休息日の前日はトーレさんが迎えに来てくれるそうですの。夕刻に少しお手間かと思いますが、よろしくお願いしますね」


 一瞬、パートは虚をつかれたような顔をした。すぐに笑顔を貼りつけたけれど。


「本当に、仲がいいんだな。分かった。皆に伝えて失礼のないようにするよ」


 シェスティンを乗せた馬車が遠ざかっていくと、パートは瞳から笑みを消す。


「……出来損ないだから、手を差し伸べたくなるのかな。入手困難なものほど、欲しくなるのはどうしてだと思う?」

「お気に召したようでなにより。アンタ好みの美人だもんな」


 いつの間にか、ごてごてとした装飾品をいくつも身につけた男が、ドア横の壁に寄りかかってにやにやしている。

 パートは振り返ることもなく、馬車の出て行った門の方を忍び笑いしながら見つめていた。


「人聞きの悪いことを言わないでくれよ。見た目はそれほど重要じゃない」

「身寄りがなくて、若くて向上心がある。その分性格はキツそうだったけどな」

「そうでもない。才気もあるし……潰すには惜しいな。大人しく落ちてくれればいいんだが」

「三男君が牽制してるだろ」


 人差し指のルビーに舌を這わせて、男は喉の奥で笑う。


「面倒臭いが、彼は、どうとでも。彼女を失くせばまた流れてくれるさ」

「ひでぇ男。自信、あるんだ?」

「正攻法だけが、欲しいものを手に入れる方法じゃないからな」


 下卑た笑い声が辺りに響く。


「ひでぇ男。こっちの仕事も忘れないでくれよ。上客つきそうだぜ」

「そうか。ブツは?」


 ようやく振り向いて、パートは男にドアを開けさせた。


「芳しくはねぇけどな。まぁ、ぼちぼち」

「じゃあ、値段は吊り上げないとな」

「最近やりたい放題だな。親父さんにどやされねぇ?」

「今、この家の金を回してるのは俺だからな。親父はもう口も出せないのさ」

「ふぅん。パート様さまだな」


 重そうな玄関扉はその見た目に反して静かにぴたりと閉じた。この家からは鼠一匹逃さぬというように。



 ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇



「シェス」


 広場で降ろしてもらい、スヴァットを抱えながら歩いていたシェスティンは、不意に呼ばれて辺りを見渡した。


「シェス、ちょっと!」


 振り返ろうとしたところで、それが腕の中から聞こえてくると気が付いて、彼女は視線を落とすより先に空を見上げた。

 モーネの描いたような三日月型の月が昇っている。


「シェス! 聞いてるか?! アレはやめてくれ!」

「……何を、やめろって?」


 周囲にはまばらとはいえ人がいる。シェスティンはなるべく人のいない方へと足を進めた。


「あいつだよ。あの男! 駄目だ。俺も結構女の子は褒めるけど、あいつの褒め方は、こう……鳥肌が立つんだよ! 見ろよ、これ!」

「…………いや、その手を出されても」


 短く黒い毛で覆われた腕は、日光の下でさえ素肌がどうなっているかなんて見えやしない。本猫ほんにんはいたって真剣らしく、時々ぶるりと体を震わせている。

 馬車を降りて月が見えたとたん、我慢できずに口走ったようだが、周囲が見えているとは言い難かった。


「話は聞くから、もうちょっと……人通りのないとこまで黙ってて……」

「あぁあ!! 思い出したらなんか痒くなってきた! 頼むから、あのヤローとだけは付き合う振りとかもやめて……ん、ぐっ……」


 シェスティンに口を塞がれ、すれ違った人が横目でシェスティンを気味悪そうに見たことに気付いたところで、ようやくスヴァットは正気に戻ったようだった。


「もうちょっとだから」


 呆れたようなシェスティンの声にスヴァットは彼女を見上げて、申し訳なさそうに目を伏せた。

 浜に下りる坂を下りきってしまってから、スヴァットの口を解放する。


「ほら、何だって?」

「……すまん。取り乱した」


 本当に痒いのか、スヴァットは渋い顔をしながら後ろ足であちこち体を掻いていた。


「まぁ、ワタシもうんざりしてたからな。呼んでもらって助かった。……あんまり痒いようならトーレに薬でももらいに行くか?」

「そ、そうだよな? 薬? んにゃ。そこまでは……」


 はたと、動きを止め、スヴァットはシェスティンを見上げた。


「なぁ、シェス。シェスは時紡ぎの話を集めてるのか?」

「なんだ、急に」

「この間トーレに聞いてたじゃないか。結末の種類もずいぶん知ってるみたいだったし、好きなのかと」

「……好き、ではないんだが……あちこちで見かけるとつい、気になって……」


 歯切れの悪い答えに、スヴァットも少しだけ何かを迷うようだった。


「そう、か。いや。うちに伝わる……というか俺の爺さんがよく話してくれた話が、どの結末とも違ってるもんだから、好きなら話そうかと。興味ないならいいんだ。爺さんの創作みたいなもんだからな」

「どれとも違うって、調べたのか?」

「見落としはあるかもしれないけどなー。友達とかによく聞いたことないって笑われてたから、結構気にして見てはいる」

「……面白そうだな。聞かせてくれ」

「途中までははだいたい一緒だ。口頭だから細部はいつも違ったけど」


 咳払いをひとつすると、スヴァットは語り始めた。


『――時紡ぎはお姫さまに手を差し出しました。

 お姫さまがその手を取るのをためらうと、お姫さまの騎士は時紡ぎとお姫さまの間に立ち、嫌がる姫を連れ去らせはしないと剣を抜きました。

 時紡ぎは突きつけられた剣を恐れることもなく、騎士の時を止めてしまいます。

 目の前で崩れ落ちる騎士を悲しんだお姫さまは彼に駆け寄りました。


 もう一度差し出された時紡ぎの手を、けれどお姫さまがとることはありませんでした。

 お姫さまが手にしたのは騎士の剣。

 それで、自らの喉を突こうとして――時紡ぎに止められました。

 時紡ぎがお姫さまの手から剣を取り上げようと、ふたりが揉みあううちに偶然、時紡ぎの胸にその剣が刺さってしまいます。

 美しい国はとたんに色褪せ、全ての時が消えてしまいました。


 数年後、ひとりの青年が美しい国に帰ってきました。

 彼は外交のため、外の国に出掛けていたのです。

 色褪せた故郷に驚いて、国中を駆け回りますが、人っ子一人、猫の子一匹、空を飛ぶ鳥でさえも動く物はありません。

 しばらく元の家で暮らしていましたが、時の動かぬ誰もいない国では心まで凍りつきそうでした。

 やがて青年は故郷を後にします。

 そして故郷を忘れ去られないように、美しい国の物語を語り続けたのでした。』


「――って、感じなんだが……」


 途中から微動だにせずに話を聞いていたシェスティンに、スヴァットは不安そうに首を傾げた。


「知らなかった」


 ぼそりと、彼女が呟く。


「あ、やっぱり? うちの爺さん与太話大好きだったからなぁ。良く知られたお伽噺とかも改変されてて……そういうののひとつなんだろうな。まぁ、笑い話として聞いといてくれよ」

「オチは毎回同じだったのか?」

「ん? そうだな。青年が物語を語り続けるってのは変わりなかった」

「そうか。もしかしたら、初めの作者の話なのかもしれないな」

「これが? だとしたら、もっと広がっててもいいような気がするけどな」

「口伝は廃れやすい。時紡ぎは作者の数だけ結末があるんだ。スヴァットのお爺さんが作者のひとりでもいいじゃないか。なんならスヴァットが本にすればいい。面白かった。貴重な話を聞かせてくれてありがとう」


 聞いてる間はシェスティンに表情がなかったので、何となく居心地が悪そうにしていたスヴァットだったが、そういって柔和に笑う彼女の顔を見てほっと息を吐いた。


「元の姿に戻れたら考えるよ。猫みたいに気ままに生きていけはしないもんな」

「生まれは何処なんだ? あ、いや、無理に答えなくてもいいが……」


 口をついて出てから、シェスティンははっとする。踏み込まない、つもりだった。スヴァットがどうであろうと、呪いが解けたら別の道を行く。長く一緒にいれば情が沸くのは当然で、それ以上傍にいるのは危険極まりない。

 解っているからこそ、必要以上は聞かないようにしていたのに。

 彼が月夜以外は話せないのをいいことに、彼女のことも多くを語る気はなかった。


「あの城下町から南の方の、この国との国境付近の田舎だ。両親もまだ健在なんじゃないかな? 爺さんは俺が村を出る前に死んじまってるが」

「あの城下町付近は時紡ぎの話も色々残ってるからな……」


 話を切り上げて家に帰ろうとする彼女に、スヴァットは苦笑した。


「シェス、俺の話なんてたいして面白味もない。だが、こんな特殊な事情で話をまともに聞いてくれるヤツなんていないんだ。あんたの話を聞かせろとは言わないから、せめて俺の話は聞いてくれよ」


 シェスティンは無言でスヴァットの背を撫でる。


「話を聞いたって聞かなくたって、あんたはもう俺の虜だろ? この姿の俺を手放せやしないんだから、細かいことなんて気にするな」

「……どっちが自信家なんだか」


 困ったように眉尻を下げる彼女の口元は、微かに笑っていた。


「爺さんにかかれば、うちは亡国の王族の血を引く最後の生き残りになるんだぞ。爺さんの爺さんもそのまた爺さんも商売人で、口先ひとつで物を売り歩いてたのにな。桃から生まれた子供が鬼を退治するまでの大スペクタクルロマン活劇なんてのもあるぞ? 聞きたくなるだろう?」

「わかった。聞くよ。聞くから……一度家に入って、もう少し着込んで、温かい飲み物を用意させてくれ」


 スヴァットはシェスティンの肩に飛び乗ると、彼女の頬に自分の頬を擦り付けた。


「寒いんだから、酒で中から温めればいいんじゃね?」

「ワタシは酒じゃ体温は上がらん。でも、そうだな。スパイスの効いたホットワインなら、お互い満足いくかな」


 スヴァットはぐいぐいと頭を押し付けながら、上機嫌に喉を鳴らすのだった。




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