第五章 2

 丸一日歩いて、また夜が来た。マンハッタンから南西に位置する森の中まで来たんだ、ひとまずは安心か。昼のうちは周囲を確認しながら動かなければならなかったが、夜は前に進むことだけに集中できる。今のうちに距離を稼がなければ。夜は、逃げる側に味方してくれる。きっと大丈夫だ。うまく逃げられるはずだ。

 家から逃げるとき、北東方向に逃げたと見せかけておいてよかった。馬鹿正直に最短距離で逃走していたら、すぐに捕まってしまっていただろう。走ることには自信があるが、小型無人偵察機の追跡能力にはかなわないしな。本当に命拾いした。奴らは今頃、北東方向を探していることだろう。だが、安心はできない。差し迫った危機をひとまず脱しただけで、命の危険が完全に過ぎ去ったわけではないんだ。逃げ出すことには成功したが、私には居場所がない。知り合いの家に逃げ込んだとしても、即刻、奴らに通報されてしまうだろう。行く当てがない。最悪だ。いま私が目指しているのは、安全が保証された場所などではなく、隠れられるかもしれないという程度の場所でしかない。そこが安全だという保証などない。到達できたとしても、危険な状態は続くだろう。

 いっそ、全てを暴露してしまおうか。そうすれば、正義を重んじる人々から守ってもらえるかもしれない。

 いや、駄目だ。何を考えているんだ、私は。真実を明かすわけにはいかないだろう。愚かなことを考えてしまった。公表するのは危険すぎる。社会は衝撃に耐えられない。

 ああ、くそ、星が綺麗だ。こんな時なのに。どこか安全な場所で、この美しい星空を毎晩のように見上げながら暮らせたら、どんなに幸せだろう。しかし、それは叶わぬ願いだ。私は立ち止まったら殺される身だ。今もなお、殺されかけているんだ。

 ロレンスは考えるのを止め、前後左右を目視しながら森を行く。倒木を跨ぎ、岩を跨ぎ、踏むと音が鳴りそうな小枝を跨ぎながら、夜を進む。遠くのほうで虫が鳴いている。孤独ではない気がして、少しだけ心が強くなる。しかし、その声の主に近づきすぎたせいで、鳴き声が止まってしまった。彼はまた孤独に逆戻りして、遠くの虫の声に縋るようにして、歩を進める。それが何度も繰り返された。

 寂しい。寂しいな。心も体もつらい。道が険しくて嫌になる。森には、障害物がごろごろ転がっている。道路沿いの平坦な場所を走れればいいんだが、部屋着で森の近くをさまよっているところを誰かに発見されたら、間違いなく通報されてしまう。歩きにくいが、森の中を行くしかない。丸一日、歩きっぱなしだ。膝が軋む。森の風景を楽しみながら歩きたいところだが、そんな悠長なことをしている余裕はない。そこかしこに転がっている倒木や岩に気をつけ、追っ手を振り切ることができる速度で歩を進めながらも、消耗しすぎて歩けなくなったりしないように、適度なペースを保たなければならない。体が使い物にならなくなったら終わりなんだ、気をつけなければ。

 かなり歩いた。徐々に、希望の光が強くなってきているような気がする。かなり移動した。いい感じだ。逃げれば逃げるほど、捕まる確率は下がっていく。今のところ、私を追う者の姿はない。周りには誰もいない。夏のキャンプを楽しむ人々の気配もない。遠くに、野ネズミと野ウサギとハイイロリスがいるだけだ。動物たちよ、驚かせて申し訳ない。

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