第三章 14

 土曜日。ティモシーは、グオをアパートの屋上に呼び出した。大家が屋上を有効活用するため、床に敷き詰める形で設置したソーラー発電パネルの上を、不法侵入した二人の男が踏みしめる。

「屋上を勝手に開放するなんて、一体どうやったんだい?」

「こういうのが得意な友人がいてね」

 ティモシーはミッヒに頼んで屋上のロックを解除してもらったあと、昼ごはんを作るように命じてから屋上にやってきた。屋上にある排気口からは、ミッヒが調理しているミートソースの爽やかな酸味と芳醇な肉汁の香りが放たれ、二人の胃を切なくさせる。

「グオさん、ビールでもどうだ?」

 ティモシーは、布製の買い物袋から缶ビールを取り出して投げやった。グオは中身の炭酸ガスが暴れてしまわないように膝を折って衝撃を吸収しながら、缶ビールを両手で優しく受け止める。

「僕はアルコールが好きではないんだが、今日は特別だ。いただくよ」

 二人は柵に寄りかかってビールを一口二口煽りながら、三十メートルほど先にそびえ立つ超高層マンションの、高層階の部屋の窓を見上げた。首を上向きにすると脳の血流が滞って不快になるので、グオはすぐ手元のビールに視線を移したが、ティモシーはそのまま見上げ続けていた。超高層ビルの佇まいは現実感が欠落していて、その風景はまるで巨大な写真のように感じられ、目を離せなくなっていたのだった。こちらの世界と、あちらの世界の間には、脳に錯覚を起こさせるほどの乖離があった。

 ティモシーは目の前に迫る巨大な写真のような風景を睨みながら、頭の中で喧嘩を吹っかけた。

 俺は地を這いながらも社会のために叫び続けているのに、あの高みに住む奴らは、アンドロイドに職を脅かされることもなく悠々と社会問題を傍観し、俺たちを差別主義者と呼ぶ。さして労せずとも金を得られる奴らは、俺たちが感じている恐怖や絶望など知らずに、知ろうともせずに、俺たちを悪者扱いする。やめてくれよ。俺は、貧富の差に文句を言う気はないんだよ。あんたらを憎んでなんかいないんだよ。だから、あんたらも俺たちを憎まないでくれよ。少しは俺たちが置かれた状況を分かってくれよ。少しは想像してみてくれよ。頼むよ。苦しいんだ。

「どうしたんだい、フィッシャーさん?」

 疲れているように見える友人を気遣って、グオが労わりを込めて言った。自らの弱気を恥じたティモシーは、すぐに誤魔化した。

「いや、あんなマンションに住みたいもんだと思ってな」

「僕は御免だね。高すぎる場所にいると、気持ちが落ち着かないよ」

「高所恐怖症ってやつか。なら、仕方ないな」

「いいや、そうじゃない。僕自身の気質が変わってしまうことが不快なんだよ。これは本能的な話なんだが、高所から人を見下ろすと、対人関係を構築する際にも人を見下しやすくなるんだよ。樹上生活をしていた先祖から伝わる気質のせいだ。相手よりも高いところにいると、その相手の行動を把握できる。防御面でも攻撃面でも、優位に立てるんだ。嘘みたいな話だが、これは本当だ。相手よりも自分が強いと錯覚してしまう。気が大きくなってしまうんだ。そして、皆を見下し始める。僕は、実際にそうなってしまった人間を知っている」

「そんなもんなのかねえ。疑わしいけどな」

「人間の心理や本能というのは、恐ろしいものなんだよ」

 ビールの苦味が増した気がした。

 グオは場の空気を汚してしまったことに責任を感じ、話題を変えた。

「そういえば、デモの映像をテレビで観たよ。手ごたえはどうだい?」

「非常にうまくやっているが、結果に関しては分からない。ただ、仲間は着実に増えているから、きっと及第点は得られているんだろう。あんたが来てくれたら、もっとうまくやれるんだろうな。あんたは賢いから」

「きみだって賢い。話し方にも気品を感じる」

「そんな馬鹿な。違うよ。ほんの少し、やり方を心得ているだけだ。賢くはない」

「愚か者を慕う人間などいない。きみは慕われている。つまり、そういう事だよ」

 ティモシーは顔の表面がじわりと熱くなっていくのを感じ、それを隠すように顔を背け、手をひらひらさせながら言った。

「褒められると、皮肉を言われているような気分になるんだよ。頼むからよしてくれ」

「分かった分かった。それで、今日はどんな相談かな?」

「扱いが少々難しい人材を得たんだ」

「興味深いね。どうして扱いにくいんだい?」

「冷淡で、狡猾だ。あんたよりも賢いかもしれない。しかし、愚かなほどに自信家なんだ。それでいて、ひどく繊細なところもある。訳が分からないかもしれないが、本当にそういう奴なんだ。最近、苦労していてね。それと、扱いにくいのは性質だけじゃないんだ。人に姿を見られるとまずい著名人でもあるんだよ」

「それなら簡単だ。表に出さず、相談役として扱えばいい。私としても、これ以上きみから勧誘されずに済むので助かる」

 グオの冗談に思わず吹き出してしまったティモシーだったが、すぐに折られた話の腰を戻した。

「すでにそのように扱ってるんだが、話はそう簡単じゃなくてな。そいつは賢いんだが好戦的で、やりすぎるきらいがある。隠れて何をしているか分かったもんじゃないんだ。それを押さえ込めるかどうか、自信がない。助言をくれ」

「そんなの簡単だよ。役職を与えればいいんだ。自信家なのだから、必然的に自尊心も相当高いに違いない。その自尊心を満たし、責任感を植えつけてやればいいんだ。あなたにしか出来ない重要な役割なのだとでも言い聞かせて、相談役に祭り上げるといい。繊細な人だそうだけど、その点は、仕事外でうまくガス抜きさせてやれば解決するだろう」

 缶ビールを飲み干したティモシーが、缶を潰しながら礼を言った。

「やってみる。ありがとう」

「頑張りたまえ。僕は公平な試合を観るのが好きなんだ。相手方の相談役と同程度の支援はするよ」

「本当に感謝してるよ。さっそく、そいつの自尊心をくすぐってみるとしよう。じゃあ、ありがとう。失礼するよ」

「またね。ああ、屋上の鍵はどうしたらいいんだい?」

「そのまま自由に帰ってくれて構わないよ。俺が頼んで施錠してもらうから」

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