短編集

枕五味

愛娘と夜と冬の王

凍える厳しい冬の町。しんしんと雪が降りそそぐ。

雪で冷えた石の道を歩く女の細い足が二本。血の気の失せた肌は風が吹くたびに白くなっていく。

少しでも温まるために、女は家と家にはさまれた路地へと逃げ込む。

疲れきってそこに座り込む。茶色の薄汚れた布は、彼女の体を冷たい石畳から守るには少しだけ薄すかった。

女の歳は30程。

その眼から生気あふれる光を少しずつ風がさらっていく。

時計塔から20時を伝える鐘がならされた。

女は重くなった瞼を持ち上げるのに精一杯だったが、鐘の音を聴いた後に諦めたように眠りにつこうとした。


「…眠るにはまだ早い…」

ハッと眼を覚ます。

どこからか自分に語りかけてくる声が聞こえた。

何とかして声の主を探したが、影も形もまるで見えない。

しかし死の淵に立っていた彼女にとってその声は、幻聴というにはあまりにもハッキリと聞こえすぎた。

まるで頭に直接語りかけてくるようだ。

「眠るにはまだ早い」

いきなり目の前に大きなそれが現れた。形は定まっていない。黒くて大きい「何か」が現れた。

「この赤ん坊を育てて欲しい」

『何か』が差し出した手はあまりにも大きかった。その片手には布に包まれた赤ん坊が乗っかっていた。

赤ん坊は空から降る雪に手を伸ばして、すこし笑っている。

「無理よ」

私はやっとのことで声を絞り出した。

「この袋を持っていけ。中身は引き受けてくれるなら明かそう。拒絶するならお前は死ぬ」

『何か』はもう片方の手を私に差しだした。そこには私の片手ほどの大きさをした袋があった。

女は袋を持って立ち上がり、袋を明けた。中には金貨がギッシリとつまっていた。

女はとても驚いた。

これだけお金があれば、今すぐ暖かい部屋のある宿にいけるだろう。明日のご飯にも困らない。

子どもを育てるだけの余裕も勿論できる。

「さぁ、受け取れ。」

女は赤ん坊を受け取った。愛らしい寝顔だった。

「名前もすべてお前がつけていい。しかし忘れるな、これから11年後、私はこの子を迎えにいく。それまでの間、よろしく頼む」

やがて『何か』は消えうせた。


それから彼女は金貨を最大限有効的に使った。

暖をとれる部屋。温かい食事。きれいな服。

不思議なことに、その袋には底がないかのように金貨が湧き出てきた。

欲に溺れて生活しても良いと思えたが、あの『何か』のことを考えるとそうする気には中々なれなかった。

女は赤ん坊に対して精力的に育児に励んだ。戸惑いもしたが愛情を一生懸命与えた。

赤ん坊は普通の元気な女の子に育った。

よく笑う、空色の瞳をした天真爛漫な子だ。

あの日みた『何か』には似ても似つかない。

やがて女は金貨に頼ることを控え、仕事に就いた。

そして仕事先で出会ったパン職人の男と結婚し、息子を生んだ。

父と母と娘と息子。愛情たっぷりの完璧な家庭。

幸せな日々を過ごす女だったが、冬の夜への不安だけは拭えなかった。

時々、遠くを見る娘の目が怖い。どこを見ているのか。


娘の誕生日は、あの『何か』に出会った日だと定めていた。

女はすっかり娘に情が移っていた。

10年間、愛情を注ぎ続けて本当に良い子に育った。

であれば手放したくないと思うのは必然であろう。

明日だ。明日その日が来る。

長いようであっという間であった。

誕生日は外で食事をしたいという娘に我慢してくれと言い聞かせて、その日は一日家で過ごすと決めた。

もしも『何か』が来ても、話をして追い返してやるつもりだ。

金貨の詰まった袋も全て返す。


20時が来た。

私以外の家族は全て眠ってしまっている。

来る。来る。来た。

ドアを叩いている。私は開けない。

鍵のかかったドアは勝手に開いた。

そこには大きな『怪物』が立っている。

雪と共に冬の冷気が家に入ってきた。

しっかりと立たせた二本の足で私は相対する。

私は袋を差し出して、声を張らせていった。

「あなたの娘は亡くなりました!11年前に、雪の日に凍えて!さぁ、この金貨のつまった魔法の袋を返すわ!かえって頂戴!」

私は真っ直ぐにソレを見ている。思い切り睨んでいる。さぁ帰れ、お前は招かれざる客だ。

この家に一歩でもはいったら承知しないぞといった感じだ。

玄関は開け放たれたままで、風は外へ向かって出て行く。

「ああ、なんてことだ、女よ。誠実なお前がこんなことするとは。嘘をつくのは好くない」

「嘘じゃないわ!」

「ではあれは何だ」

怪物が指をさした。その指の先には私の娘がいた。

私は愕然とした。

喜んだようにはしゃいでいる娘のその瞳は金色に輝いていた。

「パパだ!」

娘のハイネが父親のもとへ駆け寄る。

私は足はおろか口すら動かせない。

「さぁ、いこうハイネ」

「うん」

ハイネは父親の大きな手を掴むと、雪のふる夜の世界へ出て行った。

こちらを振り返ることもしなかった。

娘の一歩一歩がとても長い、されど一瞬の出来事。

私は茫然と見ていた。

「さよなら、ママ」

最後に声が聞こえた。扉が閉まる。

「ハイネ・・ハイネ!」

母親の私は我慢できず玄関を思い切り開いた。

しかしそこにあの二人の姿はおろか、足跡さえもなかった。

雪が静かにふりつもり、周りの音を吸収する。

その静寂はまるで11年前の夜のように。


あれから私の生活は変わらず続いている。

魔法の袋は変わらずここにあるが、何故か使う気にはなれなかった。

幸せな日々、しかし心に穴が空いたようだ。


ああ、愛する私の娘。はたしてあの子は人間だったのだろうか。

どちらにせよ、飢えていないといいのだけれど。

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