56.文様
「なあ、テオ」
息を殺して丸くなってしまったテオに、女神さまが優しく呼びかけられました。
「ブローチを見せてくれ」
「え……」
また虚を突かれたようすで、テオは素直に手に握ったままだったあのブローチを女神さまに差し出しました。
「これはおまえの母親の持ち物だったのだろう」
「あ、ああ。そうだ」
女神さまは指先でそれをつまみ上げ、丸い青銅の上に刻まれた文様を、もう片方の手の指先でそっとなぞりました。
「昔、西の海の島に、とある女神を祀る大きな神殿があった」
唐突に語り出した女神さまにテオはますます目を丸くします。
「大地の母たる女神は豊穣を司どり、船乗りたちの守り神でもあって、その島は航路の要所としても栄えたのじゃ。当然船乗りの男たちがたくさんやってきて女を求める。慈悲深い女神は自らを崇める巫女たちに男たちの相手をさせた。春を売らせたというわけじゃ。一昔前に、更にはるか遠くの海から来た海賊どもに破壊され、神殿は跡形もなくなってしまったが。この文様はその神殿の物じゃ」
「どういう……」
「そなたの母親は巫女の一族の出であろう。それこそ古い貴い一族じゃ。しかし役目の性質上、あまり公にはできなかった。唯々諾々と奴隷に身を落とさなくてはならなかった。そなたの父親は出自を知っていただろうがな。これをそなたに託したのは父親なのじゃろう」
「あ、ああ」
「身分などその程度のものじゃ。いかに貴い生まれだろうが落ちるときには落ちる。その者の性質が変わるわけではない。変わるのは境遇じゃ。だが境遇が変われば性質をも捻じ曲げてしまうのが人間だ。変わってしまうのが人間だ。おまえはどうじゃ? テオ?」
「え……」
「おまえは本来、奴隷だったはずの自分が安穏としているのが許せず、路地裏で暮らし子どもたちを助けているという。ならば、元から貴族や王族であったならおまえは、子どもたちや奴隷を助けなかったのか?」
「え?」
「そういうことであろう? 奴隷の母ではなく、市民身分の女の腹から生まれていたら、今のおまえは違っていたのか? 例えばあの美しいアルテミシアとつがいになり幸せに暮らしていたとして、そんなおまえが野垂れ死にそうになっているエレナを見かけても、助けなかったというのか?」
「あ……」
「ミハイルやデニスやハリやポロが殺されそうになっているのを見かけても、おまえは知らない振りをするのか? 市民の腹から生まれたおまえなら、そうだと言うのか?」
「わからない。おれは……」
「テオ。おまえの思いはおまえだけのものじゃ。身分や境遇は関係ない。真心とはそういうものじゃ。人はな、テオ。見栄やはったりだけで人の命を引き受けたりはできない。それこそ責任が重いからじゃ。だから生き死にを神々のせいにする。だが、神なんていない、そう言い切るおまえならわかるだろう? 重さがわかるおまえならわかるだろう?」
「おれは、ただ……ただ、おれにできることならやらなくちゃって。おれには助けられると、そう思ったから」
「それがおまえだよ。テオ」
女神さまは目を細めて微笑まれました。
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