ある日の高林家

ある日の愚兄弟の続きになります。

充パパ視点です。




*******



 ――それは、一本の電話から始まった。いや、本当はあの子まなぶが歩けなくなったと言った日から始まっていたのかも知れない。



 ***



 その日、仕事から帰って来てコートを脱いでいると、突然自宅の電話が鳴った。片手でネクタイを緩めながら、受話器を取る。


「はい、高林です」

『あ、親父? 充です』

「充か……久しぶりだな。どうした?」


 如何にも『怒っている』という声音の次男からの電話は珍しい。


『親父に、学のことで聞きたいことがあるんだ』

「学のこと?」

『ああ。学の診断書について。家にある?』

『兄さん!』


 なんで、充は今更そんなことを言うのか。


「診断書? 母さんが保管してるはずだから、探せばあると思う。それに、学の声が近くでしているようだが……お前は座っているのか?」

『いや? 駐車場に向かって歩いているよ。それに、学は自分で歩いて私のあとをくっついて来てる』


 吐き捨てるように言った充の言葉に戸惑う。学は未だに車椅子に乗っているというのに。


「そんなはずは……」

『あとでわかるさ。ところで、今日は二人とも家にいる?』

「ああ」

『今から学を連れてそっちに行くから。それまでに診断書の用意と、古い新聞記事を調べてほしいんだ』

「何の記事だ?」

『事故の記事。……あの町から出る羽目になった、羽多野 圭の』

「羽多野、だと?!」


 その名前にギリギリと受話器を握る。なぜ今になってその名前が出てくる? やっと思い出さずに済むようになったというのに。どこまでも着いてくる忌々しい名前だった。


『忌々しいのはわかるけど、なぜ、あの町全体が私たちに冷たかったのかわかるから』

「充、お前、何を……」

『じゃあ、あとで』


 何を知っている、と言おうとしていた自分の言葉を遮り、充はさっさと電話を切ってしまった。


「一体何だと言うんだ……」

「あなた?」


 仕方なく受話器を置くと、妻が話かけてきた。羽多野という言葉を聞いていたのだろう。その顔は不安そうだった。


「今から学を連れて、充が帰って来るそうだ」

「まあ。久しぶりに充に会えるわ」

「それと、充が、学が歩けなくなった時の診断書が見たいと言っている。確かお前が保管していたな?」

「し……診断書……?」


 診断書と聞いて、心なしか妻の顔色がサッと変わる。


「どこにしまったかしら……」

「悪いが、探してくれ」

「……わかったわ」


 そう言って自分のコートを持って診断書を探しに行った妻の顔色を不可解に思いつつ、鞄にしまってあったノートパソコンを取りだして椅子に座ると、テーブルにパソコンを乗せてあの町の名前を入れて検索する。羽多野という名前は打ち込みたくなかったからだ。

 尤も、自分は羽多野がでっち上げた嘘だと思っていたため、事故の記事などあるはずもない、と思っていた。

 検索を開始するといくつか記事が出てきたので『事故』という言葉を追加し、もう一度検索にかけると記事はすぐに出てきた。それも、何社も。

 それだけ大きな事故だったとわかる。とりあえずそのうちの一社の記事を開いて読み始めた。


「な、んだ、と……?」


(あれは……事故の話は、羽多野 圭がついた嘘だったはずだ!)


 慌てて別の一社の記事を開き、読み始める。


「これも、だと?!」


 さらにもう一社、もう一社と次々に記事を読み進めるが、どれも『羽多野 圭が男の子を庇って事故に遭った』という内容だった。夏でもないのに、背中に嫌な汗が流れる。




 『男の子を庇った女の子、重体


  ――………靴紐を結んでいた男の子からは直前

  に迫った車の様子が分からなかったため、

  羽多野さんはあわてて男の子を突き飛ばし、

  その直後に車が突っ込んだという。

  羽多野さんは両手足複雑骨折のうえ、引きずら

  れたままの状態で車が店舗に突っ込んだために

  全身にガラスの破片を浴びてしまい、現在も

  意識不明の重体だという。

  病院関係者の話によると、現在もガラス片を

  取り除く手術が続けられており、思った以上

  の出血で用意した輸血では間に合わず、病院

  内であわてて献血を呼び掛けた。

  病院では現在も献血を募っており、………――』




(そんな……、そんな馬鹿な……!)


 カタカタと震える両手を組んでギュッと握る。最後の記事は他社よりも詳しく書かれており、その記事によってあの日の学の言葉を思い出すと同時に、家を出た長男の言葉も思い出した。


『調べもせずに、嘘つきな学の話を信じるのか? 』

すぐる?! 実の弟を嘘つき呼ばわりするのか!』

『だって嘘つきだろ? なあ、学? 歩けなくなっただなんて。挙げ句に車椅子? はっ! 大袈裟過ぎて笑っちゃうね』

『卓、学は本当に足が……』

『う、嘘なんかじゃない! 僕、本当に足が……』

『卓!!』


 妻が怒鳴っても、長男はその態度を改めることはないどころか、ますます自分たち親と学を睨みつけた。


『お袋、大概にしろよ……学に甘過ぎる。親父、今すぐ学にその嘘を改めさせないと、あとで高林うちがひどい目にあうぞ? 俺はそんなの御免だね!』

『卓、止めないか!』

『止めないさ! 靴紐を結んでて圭に突き飛ばされたんだよな? 親父はなぜ突き飛ばされたのか、その理由を学やお袋に聞いたのか? 診断書をみたのか? 俺はあの現場を見てたから知ってるんだぞ、ま・な・ぶ・?』


 そこまで思い出すと、バタンという車のドアの音に我に帰り、慌てて椅子から立ち上がると窓に寄ってそっとカーテンを開ける。

 久しぶりに見た充の顔は怒りに満ち、足を突っ張りながら嫌がる男の手を引いている――学の手を。拳を握り、目を瞑る。

 今ならわかる。長男のあの含んだ言い方の意味を。あの時は実の弟を罵った長男に対する怒りでいっぱいで、気付きもしなかったが。


(卓……)


 今更後悔しても遅い。玄関の扉が開く音と同時に「兄さん、痛いってば!」という学の声が聞こえると目を開け、部屋で待ち構える。


「ただいま。……久しぶり」

「お帰り、充、学。……それで、学。車椅子はどうした?」

「……」

「とっくの昔に治ったんだとさ。言わなかった理由を聞いたら、『言う必要ないじゃん』だそうだ」

「……ほう?」


 充の言葉と自分の低い声に反応したのか、学はびくりと身体を震わせる。


「しかも、車椅子に乗ってた理由、何だと思う? 親父」

「兄さん! 止めて!」

「『車椅子に乗ってると、皆にちやほやされるから』、だとさ」

「……っ! 何するんだよ!」


 拳で学の顔を殴ると、床に倒れ込んだ学は自分を睨み付けて来た。そんな学の声が聞こえたのか、「あなた?!」と妻がすっ飛んで来た。


「『言う必要ない』だとッ……? 『ちやほやされるから』、だと?!」

「あなた!」

「……黙ってただけじゃん」

「ふざけるな!」


 もう一度学の顔を拳で殴り、その胸ぐらを掴む。


「もう一度、あの日のことを聞くぞ。あの日、なぜ歩けなくなった」

「……ほどけた靴紐を結んでいたら、突然圭に突き飛ばされた」

「その理由は?」

「り、理由?」


 口の端から血を流しながらも、学の顔はどんどん青ざめて行く。


「……」

「言えない理由なのか?」

「……っ」

「充、テーブルにあるパソコン取ってくれ。母さん、診断書は? あったのか?」

「そ、それは……」


 充はすぐに動いてパソコンを持って来る。画面を見たのか、「同じ内容の記事だ……」とポツリと呟いた。誰かに聞いたのだろうか?


「充、それを母さんに見せろ。学、理由は?」

「け、圭が、俺を嫌って……」

「……とんだ嘘つきだな。本当は、自分が嘘つきだから、一緒にいた連中に嘘をつかれたと思って周りの声を聞かなかったからだろう?!」

「……っ!!」


 顔面を蒼白にしながら、ガタガタと震え出した学の胸ぐらを離して今度は妻に向き直る。記事を読んでいた妻が「あ……ああ、そんな……っ!」と言って見る間に青ざめた。


「母さん、診断書」


 充にパソコンを取り上げさせ、妻の前に手を出す。


「し、診断書は……」

「診断書は?」

「……あるわけないでしょう?! 医者になんか行ってないもの!!」


 ヘナヘナと力なく座り込んだ妻を、冷たい目で見下ろす。


「なるほど……お前も嘘つきだったってわけか」

「仕方ないでしょ?! 学が『足は痛いけど、病院に行きたくない』って言ったんだもの!」

「……」


 その言葉に、長男の言葉が再度思い出される。確かに自分たちは、学を甘やかし過ぎていたと、今更ながらに気づいて。


「あの町の人たちに、『何でお見舞いに行かないの』『あの子は高林さんとこの学ちゃんを庇って死にかけたのに』って、さんざん言われたわ!  私はまさか学が嘘ついてるなんて、思ってなかっ……」

「つまり、あの町を逃げるように引っ越さざるを得なかったのも、冷たい目で見られる羽目になったのも、全てお前や学のせいだった、ってわけだな……。尤も、調べもしなかった私も同罪だが……」

「あなた!」

「父さん!」

「あの時、卓の話をきちんと聞くべきだったと後悔してるよ……今更だがな。充、一緒に来てくれ」

「あなた?!」


 青ざめている二人を部屋に残し、充からパソコンを受け取るとそれを鞄にしまい、それを持って充と一緒に部屋を出る。自分の服が置いてある部屋に行くと長期の出張で使う大きなキャリーケースを出し、それに下着や私服、ワイシャツやネクタイなどを詰めながら、充には箪笥からコートとスーツを出してもらう。


「……親父、何してるの……出張?」

「いや? ここを出ていく」

「親父?!」

「充、悪いが駅まで送ってくれ」

「親父!」


 充にコートをもらってそれを着ると、キャリーケースを持ち、スーツを受け取ろうとして充に「私が持つよ」と言われたので、ついでに出勤用の鞄を持ってもらうことにした。玄関で靴を履いていると、その音を聞き付けたのか妻が飛んできたので、充に荷物を持たせ、先に行ってもらう。


「あなた?! どこに行くの?!」

「この家を出る」

「どうして!」

「嘘つきと暮らせるか! いつ、またどんな嘘をつかれるかわからんだろう!」

「そんな……!」


 自分の言葉に、呆然と立ちすくむ妻を冷やかな目で見る。


「この家はお前にくれてやる……慰謝料としてな」

「……あなた……?」

「あとで、弁護士を通して離婚届を出すから、そのつもりでいろ」

「そんな!!」


 追い縋る妻の目の前で扉を締める。充が待っている車に乗り込むと、充はすぐに車を走らせた。


「充はどこであの記事を見たんだ?」


 そう聞くと、電話してくる前に起こったことを全て話してくれたあとで


「……家を出て、これからどうするの? 親父」


 と、そう聞いて来た。


「しばらくビジネスホテルに泊まりながら、部屋探しだな……」

「でも、お袋は……?」

「離婚する」

「離婚?!」


 驚きの声をあげた充をちらりと見たあとで、溜息をつく。


「あんな話を聞いたあとでは、どのみち一緒にはいられん。それに、羽多野……さんに償わなければ」

「……あの子は、受け取らないと思うけど……」

「それでも、償わなければならん。女の子なのに、全身に傷を負わせてしまったんだから」


 卓の言葉が脳裏に甦る。


『親父、今すぐ学の嘘を改めさせないと、うちがひどい目にあうぞ?』


(本当にひどい目にあったよ、卓……)


 目を瞑り、あの時のことを思い出す。自分たちと喧嘩した卓は『やってられっか! しばらく顔も見たくない!』と言って部屋に引き込もってしまい、『そのうちどっちが正しいかわかるだろう! 放っておきなさい!』と言った自分の言葉の通り、その日は卓を放っておいた。だが、卓はいつの間に家を出たのか、翌朝には既に消えていた。


『嘘つきとは暮らせない。縁を切る』


 というメモだけを残して。


「あのさ、親父」


 充の声に我に帰る。


「なんだ?」

「どうせなら、私と……俺と一緒に暮らさないか?」

「充?」

「部屋は余ってるし、妻がいるわけでも、恋人がいるわけでもないから」


 充の言葉に驚く。


「……いいのか?」

「ああ。それに、会うにしたって親父はあの子の顔、知らないだろ?」

「……」

「会うなら、さっき謝れなかったし、俺も一緒に行って頭を下げるよ。尤も、泪くんが……あの子の婚約者が、会うことを許すかどうかはわからないけど」

「……そうか……婚約者がいるのか……」


 充の言葉に安心する。その婚約者は、全てを知ったうえで彼女を受け入れたのだろうから。


「どうする? 一緒に暮らす?」

「ああ、頼む。すまんな……」

「気にするなよ」


 親子だろ、と言った充は、駅へ行く道から逸れ、別の道へと走らせた。


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