Gulf Stream
車に押し込まれてすぐのことだった。
「楽しそうだったな。何をしていたのかな?」
ベンツの後部座席。運転手がいるからなのか専務の顔のままの穂積は後ろをちらりと振り返り、また前を向いてからそう聞いて来た。
「え? ああ、受付嬢の一人が同期なのですが、その彼女に在沢室長の新人テストの報告をお願いしていました」
「は?」
かなり間抜けな答えが返って来たものの、聞き返しには答えず、現状を打破しようと逆に質問してみた。
「……あの、そろそろ離していただけませんか?」
「ダメ」
「……どうしてでしょうか」
「柔らかくて気持ちいいから♪」
エントランスを出たあと下ろされ、待っていた車に押し込まれた。けれど座席についた途端、今度は腰を引き寄せられ、ギュッと抱きつかれてしまったのだ。ずっと「離してください」と言っているのだけれど、そのたびに「ダメ」と言われてしまっていた。
「それで?」
「……何がですか?」
「受付嬢!」
「え? ですから、同期に」
「新人テストって!」
「そのままの意味ですが」
「……」
何かを言いかけて口を開けた穂積だが、溜息をついて、「まあいい」と言った。社内秘に当たる部分でもあるのだから、それ以上のことは言えるわけがないからすっとぼけてみた。
「では、あの羽多野とかいう男のことを話してくれ」
「……同じ秘書課の新人です」
「今は話せない……あの時君はそう言ったな? それを今話してもらおう。どうして彼と顔が似ている? どうして彼は君を呼び捨てにしている? どうして彼はUSBを大事そうに握りしめた?」
どこまで話そうか……どうやって話そうか……。しばらく考え、正直に話そう――そう決めた途端、穂積のスマホらしき機械音が鳴った。舌打ちした彼は私の腰から腕をほどき、胸ポケットからスマホを出して電話に出る。
「はい、穂積です。――……ああ、あと三十分ほどでそちらに着く。ただ、渋滞しているから少し遅れるかも知れないが。――……ったく、我儘な……。ああ、わかった。こちらにメールをくれ」
スマホを切ると溜息をついて「この話はまた今度」と言い、足元に置いてあった鞄からノートパソコンを取り出し、立ち上げる。
ほどなくしてメールが届き、何やら操作をしていたけれど、それを一旦止めると私の膝にパソコンを乗せた。
「これを三十分で日本語に。できるだろう?」
画面には英文が並んでいる。そして、左上にはドイツ語とも。
(……彼は『面接がてら迎えに来た』と言っていた。『時間がない』とも。そして、『できるだろう?』と言って来たということは、つまり……)
これが、面接前の試験なのだ……そう認識し、頭を切り替える。
「質問してもよろしいですか?」
「なにかな?」
「必要なのは、ドイツ語だけでしょうか?」
私の質問に一瞬驚いた顔をするけれど、すぐに笑顔を浮かべて「ドイツ語だけだ」と答えが返って来た。
「畏まりました」
他に質問はなかったので返事をし、文書作成を始めた。
――そして二十分後。
「添削をお願いいたします」
「思ったよりも早かったな」
穂積はそう言ってざっと読み返しながらどこかに電話をかける。
「穂積です。今から文書を転送するから、添削を頼む。違っていたら連絡をくれ」
電話をしながらあっという間にメールを送り、電話も切ってしまった。
(うーん……さすが切れ者と噂の人なだけあって、やることが早い)
穂積か添削を頼んだということは、電話の相手は彼の秘書か部下なのだろう。添削できる人がいるのなら、どうして私が必要とされているのかわからないと首を捻っていると、苦笑された。
「必要なのは、私にとってであって、穂積ではないから」
そう言われてしまい、ますますわからなくなってしまった。どうしてだろう? と考えていると、「着いたよ」と言われたので、一緒に車から降りる。
「こっちよ」
エントランスを抜けてエレベーターの前に案内される。また横抱きにされるのかと身構えていると「目的地に着いたから、ここではお姫様抱っこはしないわよ」と、おネエ言葉に戻ってしまった穂積にクスクスと笑われてしまった。
連れて来られたのは最上階で、扉が三つとトイレと喫煙所があり、ワンフロア貸切状態だ。
「こっちは事務所。入って」
穂積に促されて中に入ると、すぐに大きな机が目に入る。それにくっ付けるように机が四つ向かい合って並び、その全ての上ににパソコンと電話が置かれている。
「こっちが資料室よ」
窓際に近いほうにさらに扉があり、そこには棚があるのだけれど、その棚には資料などがぐちゃぐちゃに置かれていた。
「給湯室はここ」
資料室の横にある出入口に近い場所がぽっかり空いている。シンクにはコーヒーカップや食べたあとの食器が乱雑に置かれ、ポットやコーヒーメーカーもあるけれど……かなり汚い。
「で、こっちが仮眠室」
次に案内されたのはその反対側で、扉を開けると六畳ほどの広さと押入れがあった。窓もあるけれど、開けていないのか、空気がかなり澱んでいた。
「花火が上がる時は、ここでバーベキューをやるの。宴会もできるわよ」
仮眠室から出るとその横にある扉を開ける。そこはベンチもあってちょっとした庭みたいな場所になっていた。風や日差しが気持ちいいのだけれど、さすがに今日は少し寒かったから思わずくしゃみをする。そういえば病み上がりなんだっけ、と思ったけれど黙っていた。
「ごめん、寒かったわね。次はこっちよ」
そう言って中に入り、事務所に戻る。給湯室の横にある扉をくぐると、皮張りの黒いソファーとガラス張りのテーブルの応接セットが目に入る。一見まともだけれど、掃除をしていないのかソファーの一部には埃が被っていた。
「で、最後はこっち。お圭ちゃんの仕事場はここよ」
応接室の反対側にある、廊下側の扉を抜けて事務所の扉を通り越した先。
最後の扉を潜ったその先は――
――まさに、別世界、だった。
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