かなしみめろんぱん。〜実家のロバと15人の仲間達〜
入美 わき
序章 第1話 かなしみめろんぱん。
「実家のロバが死にそうなので退職させてくださいっ!!」
自分の生きる環境が変わり始めたあの日。
今まで瞬く間に過ぎていた時間が急に長く感じて、コクコクと時計の秒針みたいに心臓が身体を揺らす。
「ノイさんについて来て、本当に良かったって今は思ってます。いつまでも、例え同じ環境に居なくてもノイさんは僕の大事な先輩なんです」
心の片隅でどうでも良く思ってしまっていたもの、鬱陶しく思ってしまっていたものが今は全部大事で掛け替えのないものに思える。
「ーもしもし、あんた今大丈夫よね?いいかい、落ち着いて聞くんだよ?ー」
目を閉じると深夜でさえ眠れない程騒がしかった都会の雑踏が遠のいて、風の声や木々の囀り。虫と蛙の歌声など静けさとはまた違うほっとするような音色が耳に入ってくる。
「わかった。ノイさんの意思がそこまで固まってるならもう何も言う事はないね。大事なものがあるならちゃんと守んなきゃダメですよ?」
一つの命と二つの命。
運命が交わらなければ、決して繋がる事が出来ない星と星をつなぐ唯一の秘宝。
今更とはもちろん思うし、もしかしたらそれが唯一ではないのかもしれない。
でも俺は生命の神秘を目の前にして、本当に大切なものを知った気がするんだ。
「私はわかるよ……、ノイさんの気持ち。だって家族なんだもん。いつだって大切だし、いつだって支えてあげなきゃって思うもの。
もしダメだったら私も説得する。大丈夫!真剣なんだって事、伝わるよ!」
慰めとは全然違う。
理解って簡単に言える言葉じゃないけど、自分が思うのは勝手だろ?
俺は初めて理解されたんだって実感した。
そして俺も誰かを理解できるようになりたくなった。
「新人さん、井上さん?でしたっけ?応対すごい丁寧ですね!!私感動しました。これから一緒に頑張っていきましょう!」
褒められる事なんてなかった。
冗談で貶されるだけで、本当に叱られる事さえなかった。
人の目を見て、綺麗だって思えたのもその時だった様な気がする。
俺も誰かにそう言ってもらえるだろうか?
「他人なんて気にしなくていいと思いますよ?だって俺は俺だし、ノイさんだってノイさんなんだ。人によって価値観なんて違うものですから、同じ物差し使おうとする奴の方がおかしいんですよ」
価値観なんて言葉を言う事がなかった人生。
自分の意思をある意味では殺して生きてきた。
人生のほぼ折り返しに立って、自分を持つ事が正しいんだって思えた。
「井上さんは面倒見のいい方なんですね。新米教師の私よりもずっと教育についてわかってらっしゃる様で。恥ずかしながら、お手本にさせて貰ってもよろしいですか?」
誰かの手本になる。
そんな大それた事、俺にできるだろうか?
曲がってた背中が伸びて、背骨の軟骨が一個一個軋む感覚。
これを機に姿勢も直さなくては…。
「本当、世話を焼きますねーノイさん。もちろん悪い意味で言った訳じゃないですよ。僕はそれくらいの人の方が親しみやすい。生徒達が貴方に声かけたがる気持ちがわかります。実際、自分もこうして話に来てしまいました」
世話を焼かされていたんじゃなくて、俺が世話焼きだったんだ。
他人の人生にちょっかいだして、その人が少しでも笑って生きられたら最高だって思う。
自分の人生を誰かの為に使えたら…。
今更遅いだろうか?
「貴方に構ってる暇なんてないんです!だからウジウジ悩んでないで走り出せばいいじゃないですか!相手に本気だったら走れバカ」
母親以外から初めてバカと言われ、社会に出てから初めて叱られた記憶。
相手に臆する事なく自分を伝える痛み。
今でも忘れない。
「壬生君…、ひぷさんから聞いてますよ。本当に普段は口から文句ダダ漏れなのに、結局は手を止めずに仕事してる。素直じゃないんですね。いい人なんですからもっと笑ってていいと思います。文句言う前に一呼吸してみると意外と素直になれますよ?」
おっさんのツンデレとか誰得だよ…。
それを自分でやってるんだから救えない。
もし何か愚痴る前に周りの声を聞いたり、周りに何か問いかけたりできたら自分の心は開けるのだろうか?
「ノイさんは大事な仲間だ。僕達にとって欠けちゃならない戦力なんですよ。ギルドの皆んなが居て初めて僕らは戦えるんです。前に立つメンバーの背中を支えてるのは他の誰でもない、貴方なんですよ」
自分の力なんてちっぽけだと思ってた。
本当に役に立っているのかって不安だった。
信頼は最初からされてたんだ。それに気付かなかったのは俺の視野が狭かったから。
仲間の背中を支えられる喜びを噛み締めてまた戦場に立とうと、そう誓おう。
そして………。
「どうしても、貴方が大切なんです!!逃げてしまった私がこんな事言うべきじゃないとは思ってます…。でも、貴方が落ち込んで泣いてる顔を想像したら、居ても立っても居られなくて、それで………。」
踏み出せなかった俺にあの日、あの人は手を差し伸べてくれた。
あの時、俺はドラマやアニメ、ゲームの主人公の様に輝けていたのかな。
もちろん主人公なんて柄じゃない。
でも、物語の主人公なんてのは人の数だけ居るんだ。
その中には今を生きる人、過去偉業を成し得た人。
誰よりも優れた人、誰よりも劣った人。
たくさんの物語が世界中に散らばっている。
中でも高校生の美男子が主人公のお話の方が華やかなのはもちろんだ。
だがもし、物好きが1人でも居るなら…。
オンゲ好きのおっさんがひとつの幸せをその手に掴むまでの話を、少し聞いてくれないか?
これは俺が大切な仲間達と出会い、最高のギルドを築いていく物語ー。
◇
ヒー『今日からの水着イベントやりたいのに休みがない…全然休みとれない〜』
鳥である『追加で別のイベント1週間後からだって………』
Hypnos『え?マスターまじですか??』
鳥である『まじみたいですよ〜。さっき速報上がってました!』
赤碕『そんなにイベント来るなら、有給5日くらい取りたいですね、先輩』
ヒー『いや、全然たりない。1ヶ月休みたい…』
Noigy『それな』
Hypnos『二度と出勤しなくなるやつや草』
Noigy『ひぷさんじゃないんだから、そんな…』
Hypnos『 ʕʘ‿ʘʔ 』
Noigy『( "ಠ益ಠ)』
Hypnos『(=^▽^)σ』
鳥である『wwwwwwww』
elice『ほんとこの2人ツボるwww呼吸できないwwww』
ヒー『嫁の腹筋割れたらどうしてくれるwww』
鳥である『姉ちゃんの腹筋がwww割れるww』
Hypnos『目指せシックスパック!!』
Noigy『馬鹿言ってないでまじめに戦って下さい…』
ヒー『ごめんなさ〜〜〜いorz』
elice『すいませんww』
鳥である『申し訳ないwww』
赤碕『ノイさんが怒ってるw』
Noigy『で?ビキニ派かワンピース派かって話でしたっけ??』
elice『wwwwwww』
Hypnos『1番やる気ねぇなこの人www』
ヒー『肌色多いのがええのう……』
elice『(*´꒳`*)』
赤碕『笑顔がこわい(笑)』
ヒー『それでいてメガネ掛けてて上目遣いされたら秒で浮気するわ〜(*´∀`*)』
elice『……………………』
Hypnos『あ、ヒーさん死んだ…』
Noigy『ヒーさん……………わかるっ』
Hypnos『ノイさん嫁いないのにわかるの??爆笑』
Noigy『( ゚д゚)』
赤碕『ダメですねこのギルドw』
ヒー『ギルメン、マックスの15人まで増えないかな』
Hypnos『ヒーさん生きてる!!!』
Noigy『ひぷさんいるから無理ですよ、ヒーさん』
elice『今日もギルド戦勝てましたね!おつです!』
ヒー『おつカレー!報酬うま〜〜〜』
赤碕『お疲れ様です(^^)』
Hypnos『おつでしたー』
Noigy『お疲れです!アイス食って寝ますー』
ヒー『おやすみ〜』
elice『おやすみ〜』
Hypnos『おさしみ〜』
鳥である『おさしみ〜』
赤碕『おさしみなさい〜』
elice『うつってる!!笑』
ヒー『wwwwwwww』
◇
某年7月17日東京、気温40度という異例の猛暑日となっていた。茹だるような暑さに熱中症死亡者が鰻登りに上がっていた。
世の事件事故発生数も人々の苛立ちと比例して増えて行き不可思議な動機で物を壊し人を殺め、そんな事件が多発。
芸能ニュースも大御所の不倫やアイドルの禁断の恋、誰が喜ぶのかわからないスキャンダラスな内容ばかりが報道されていた。
そんな日々の気候や人の鬱憤など他所に、企業という物は動いている。
そう、こんなクッソ暑い日に…
「あ、居た居た!ノイさーん買って来ましたよ、めろんぱんと牛乳。って窓際ギリギリの中堅社員なのはわかってますけど、リストラ寸前宜しく公園のベンチで日スポ頭に掛けて寝ないで下さいよ恥ずかしい……」
クールビズスタイルで顔の特徴が薄い後輩社員にノイさんと呼ばれるこの俺は井上 修二(いのうえ しゅうじ)先月40歳の誕生日を迎えたピチピチだ。
使い古したワイシャツが、だ……、言わせるなよ。
「昨日のギルド戦時間遅かったですからねー、老体にはきついっすか?肩、揉みましょうか??」
「うるさい!言いたい放題言いってくれるな〜!いくら本当の事でも傷付くんだぞ?……ん、サンキュー。これいくらだった?」
「1100円でした!」
「嘘はダメだよひぷさん、コイデ屋のめろんぱん100円と縄文のうまい牛乳100円です!毎度自分の分も入れて来ないで下さいよ……まあ仕方ない、晩飯は俺が買って来るんで。2000円ください、前払いで」
「高いっ!この人善意って言葉知らないから窓拭きしかできないんですよ……。仕方ない、200円ください」
銀色の硬貨を二枚長財布に仕舞う一見丁寧で爽やかそうに見える後輩社員の壬生 傑(みぶ すぐる)。高卒で入社6年目。なのに俺とほぼ同じ仕事をこなす、まあまあ出来る奴。
「そう言えば気になってたんですけど、めろんぱんに牛乳って合うんですか?あんパンと牛乳のグローバルスタンダードコンビに勝てます??」
「ん?ぐろ?なに?よくわかんないけど、俺は美味いと思うんだからいいんだよー」
「ふーん、まあどうでもいいんですけどね」
気になるのかどうでもいいのかハッキリしろっ!と思ったものの、この手合いに一々腹を立ててたら堪忍袋の緒がなくなってしまうので注意。
「猛暑の中でも営業営業、上の方々も少しは働きアリの気持ちわかって欲しいもんですよねー。まあ私も上に行ったら下見ない気がしますけど」
「本当に本音しか言わないなー、これだからひぷさんは」
愚痴を言ってるんだろうが自分の内心まで喋ってるからなんとも憎めない。
年の差があるってのに気にもしない態度が個人的には気に入ってるけど、口が裂けても本人に言うもんか。言ったが最後奴は調子に乗る。ダメ、絶対。
「なんでもいいですけど、めろんぱん一個くらい早く食べてくださいよ〜。後3、4件ありましたよね?日が暮れますよ。今日のギルド戦21時開始なんですから」
後輩の文句をスルーして牛乳を啜る。
熱気で紙パックは汗をかき、めろんぱんも砂糖がとけて外装にくっついてきていた。
ようやく半分くらい食べ終わっためろんぱんをもう一口頬張ろうとした時、会社の仲間内でハマっているソシャゲのテーマソングが流れ出した。
「ひぷさん出先ではマナーモードが基本ですよ。だからひぷさんは………」
「んにゃ?僕のスマホじゃないですよ鳴ってるの」
「え?……」
隣を見ると、買って来た弁当とサラダを平らげて好物だと言うコーラを片手にスマホを弄るひぷさんの姿がそこにあった。それじゃ一体誰の……。
「窓際先生、ボケるには2年くらい早いですよ。もう、背凭れに掛けてあるジャケットに仕舞ってませんか?御自分のスマホ」
そうだ、ベンチに寝転ぶ前トラウザーのポケットから落ちない様にジャケットの胸ポケットに入れた様な……。
「なんで事言うんですひぷさん。これだから若いのは。もう2年は保ちますよ……」
恥ずかしい。が、そんな事よりも会社からの連絡だろう。
早く出ないと余計な小言が増えたら敵わない。
「はい、もしもし!お疲れ様です。井上です!」
「ーあ、もしもし?あんた何言ってるの!?仕事中なのはわかるけど画面の名前くらい見なさいよねー」
「は?え!?母さん??」
実家、岐阜の田舎に住む母親からの急な電話に公園のチャチなベンチと後輩社員を後ろに倒して立ち上がる。
いったいどうしたのだろう?御盆休みの帰省の日にちは数日前にメールで…。
「ーもしもし、あんた今大丈夫よね?いいかい、落ち着いて聞くんだよ?ー」
「え?いきなりなんだよ……」
そんな在り来たりな言葉の後に続く、これまたお約束のような言葉に俺は耳を疑った。
なんで急に、暑さの所為なのか歳なのか。
家族が倒れた。
母親からの突然の報告に動揺を隠せなかった。
景色が見えなくなっていく……。
音も次第に遠くなって…。
気が付けば、あーだこうだと文句を言う茶色いワイシャツに装備を変えた後輩を無視して会社へと走りだしていた。
急速に落下して来た食べかけのめろんぱんに、1匹の働きアリが押し潰されている事も知らずに。
◇
見上げた空。
木漏れ日が差す日陰。
滝の様に流れる汗。
そしてベッタベタの髪、顔、ワイシャツ。
かかって来た電話に出るなり勢いよく立ち上がり座っていたベンチと隣に座っていた僕と手に持ってたコーラを見事にひっくり返し走り去って行った先輩社員の背中にひとしきり文句を言い終えて1人、疲れ途方に暮れていた。
辛うじて頭は日陰に入ったものの、首から下が炎天下に晒されている。
でもそんな事気にならないくらい、現状に困惑していた。
今まで多くの仕事を共にこなして来たけど、
あの人がこんなに焦った事があっただろうか?
窓際、窓際と散々弄ってきたが、その勤務態度に悪い所もなく仕事にミスは少ない。
予期せぬ状況でだって冷静に対処できるひとなはずなんだ。
「……母さんって言ってたからきっと御実家からの電話なんだろうけど……」
電話の相手が仕事関係の人間じゃなくて田舎の親だった事に驚くまでは僕でもわかる。
ただ、生存確認か世間話ならその場で話をすればいいだけ。
それなのに仕事中にも関わらず、何も告げず血相を変えて走って行くという事は何か重大な事件?事故?があったに違いない。
「大丈夫かなー、ノイさん……」
呑気に地上15cmくらいから吐き出された言葉は空を漂う事なく、蝉の鳴き声に掻き消されていった。
わからない事を考えても仕方ない。
僕は僕のやるべき事をやらなくては!
「ノイさーん、借りますよー」
ノイさんが向かった方向に小声で叫ぶとベッタベタで砂埃をふんだんに被ったワイシャツの上に地面に落ちてる年季の入ったジャケットを羽織り、ボタンを一つはめた。
「安いワイシャツ買って、会社に戻ろう」
◇
「実家のロバが死にそうなので退職させてくださいっ!!」
普段はガヤついてる職場を一瞬、奇妙な静けさが覆った。
いつもより異常に早く外回りから帰って来た年上の部下が汗だくで、息を切らしたまま目の前に来るなり叫んだんだ。
「ごめんよ、ノイさん。落ち着いて、ひとまず応接室に行って冷えたお茶出して貰おう。話は一息ついてからにしませんか?」
「すいません、ヒーさん。急に、こんな事言い出して………」
普段から走り慣れてないんだろう。肩で息をするノイさんの背中を押して空室の応接室へ向かう。
行く前に嫁にお茶頼んでおかないと。
「エリス!応接室にお茶頼んでいい?めっちゃ冷たいやつでよろしく!!」
支部長であるヒーこと山中 宏(やまなか ひろ)のデスクに大量の資料を置き、自分のデスクに戻ろうとしている小柄な女性社員。それが俺の嫁eliceこと山中 絵里華(やまなか えりか)。この東京支部の事務統括を務めてくれている。
「かしこまりました。ですが、支部長。社内であだ名を使うのはマナー違反だと常々申し上げているはずですが?」
「あーはいはい。メリハリはつけないとな。気をつけるよエリス!」
はぁ、と肩で息を吸い深く吐く嫁の呆れた顔。
何度も注意して来ないのはもう諦めてるからだろうな。
もちろん公私混同はよくない事。
よくわかってはいるんだけど、どうしても堅苦しいのは苦手なんだよ。
それも引っ括めてため息1つで許してくれる嫁にはいつも感謝してる。
さて、今は嫁自慢をしてる場合じゃないな。
「さぁノイさん、適当に掛けてくれ。落ち着いたら話を聞こうと思ったんだけど、1つ質問してもいいかな?」
「……、なんでしようか?支部長」
肩肘を貼り、俯き気味な部下を見て少し笑ってしまった。
かなりフランクに接してるつもりだけど、上司って肩書きはどうやっても重苦しいようだ。
「ノイさん、今日の外回りではひぷさんが同行してたと思うんだけど、何処に置いて来たの?彼、まだ営業中??」
俺の言葉に鳩が散弾銃くらった様な表情を見せる。きっと気が動転してて、何処かにほっぽって来たんだろう。
特に怒る事でもないし、ひぷさんなら適当に帰ってくるだろう……。
一応退勤時間過ぎても戻らなかったら一報入れようか。
「特に攻めるつもりは無いから気にしないでくれ。それで、落ち着いたかな?落ち着いたなら、話をしようか。まず、結論から言えばさっきの申し出は退職願いなんだよね?その理由をもう一度聞かせて貰えるかな?」
はい、と膝の上で握り拳をつくり震える声で返事をして話始めた。
「ちょうど1時間くらい前に実家にいる母親から電話がありまして、至急実家に戻るようにと言われました。その……、家族が、倒れてしまったと…」
コンコンコンッとノック音がノイさんの言葉を遮った。
「失礼します。っと、すいません、もうお話始まってました?私、すぐに退室しますね」
コースターと冷えたお茶を2つ、手早く置き余った1つのお茶を持ったままエリスは応接室を出て行こうとする。
本当はノイさんの事心配して話聞きに来たんだな。
「待って下さいエリさん。もしよければ、相談って感じではないですけど、ヒーさんと一緒に話を聞いてくれませんか?」
もしかしたらエリスはノイさんがこう言い易い様にわざと自分のお茶まで用意してきたのか?だとしたら策士過ぎて笑う。
「本当はね、心配だったの。この人真面目に人の話聞かないから、ノイさんが辛い思いするんじゃないかって…」
心配は俺への信用のなさからだったとは…。
「ノイさんがいいならしっかり聞くわ。この人が調子乗ったら引っ叩けるしね!」
「あはは、ありがとうございますエリさん」
「うぉっほん。あーあー、話を戻すぞ?それで倒れた家族って、聞き間違いかもしれないからもう一度聞いてもいいかい?」
「はい、実家で飼ってるロバ、です」
「………、ぷふっ(バシッ!!)痛っ!」
「貴方、絶対真面目に聞く気ないでしょ…」
予想してたのか、即応反射なのか知らないが強烈な一撃が俺の背中を襲った。
さっきノイさんが支部に入って来て言った第一声、みんなも覚えているだろ?
笑うだろ?ロバって何だよ(笑)
ご実家のお爺ちゃんお婆ちゃんでも、電話して来なかったお父さんでもなく。
飼ってるロバって何!?草生えるわっ!!
ていうかロバってどんな顔だ??
「ロバって………、老婆に聞こ(バシンッ!)えるっ!!ってさっきから痛いし攻撃範囲が広いっ!!」
「だって、手のひら使ったら私が痛いから、これを使って…」
「オボンじゃねぇか…。ステンレスのちょっと重いやつ!!いつも木の優しさ溢れる軽い材質のやつ使ってたろ??」
「あれはこの前壬生さんが来客にお茶出すから貸してって来て、持ってってから返って来ないんだよね」
「あいつの所為か……」
ひぷさんめ、あいつ絶対許さないぞ。
「あの、自分はどこから話せばいいですか?」
「ごめんなさいね井上さん。退社希望の理由はご実家に帰らなきゃならないって事でいいのよね?」
「そうです。理由の中身が確かにおかしくて、ヒーさんが笑うのも仕方ないと思います。……でも、自分にとってはあいつも家族なんです…。親から帰って来いと言われたのもありますが、自分の意思で帰りたいと、そう思ってます」
ノイさんの言葉はヒリヒリする背中の痛みを忘れるくらい真剣で、真っ直ぐだった。
俺とエリスとの間にもうすぐ家族が増える。
自分にとっての大切なものに何かあった時、俺もノイさんの様に真剣に向き合って、自分が最善だと思う選択が出来るだろうか?
本当にこの人はすごいと思う。
だからこそ、居なくなってもらっちゃ困るんだよな。
「ノイさんの現状については把握した。それで、退職についてだけど…。それについては受理できない」
「……、そんなに簡単な話ではないのはわかってます。ですが、そこを何とかっ!!」
ノイさんが椅子に座りながら深々と頭を下げる。
その気持ちはもちろんわかる。わかるが、本当にそれを受け入れ、部下を手放す事が部下自身の幸せなのか考えなければならない。
「ちょっと宏っ!!把握したって、本当に話聞いてたの??聞いてたらしっかり考えて!なんで、そんな……」
「お、エリス〜。俺は山中支部長さんですよ〜?メリハリ、大事にしろよ?」
「ーーーーーッ」
「まあまあ、そう睨むなって。お前こそ話は最後まで良く聞けよ。ノイさん、これは俺が勝手に思ってる事なんだけど。上司ってのはね、部下を幸せにしてあげなきゃらならんのさ。今家が大変だからといって、食べていく為の仕事を、今まで培ってきた能力をまたゼロスタートに戻す事はノイさんの今後の人生に大きく関わると思う。だから俺は受理しない」
「ヒーさん、そこまで考えてくださってたんですか……。それでも、実家が岐阜にあるのでここから何度も通うとなると負担の方が大きくて、どうしてもいつかは生活がきつくなってしまいます」
「ノイさん、無理するのはだめよ。山中支部長、私からもお願いします!」
「ダーメ。今日の所はここまでにしてさ、また明日もう一度話をしよう。俺も真剣にノイさんの今後について、提案出来る事考えてくるからさ」
2人共もちろん納得してない。でもこのままノイさんを返してしまったらもったいない!
だから俺は俺に出来る精一杯をノイさんにしてやろうじゃないか。
「ほらほら2人共、さっさと片付けて今日は帰ろう帰ろう!夜には"あっち"でイベントあるんだから、今度こそ優勝目指して頑張ってこー!!」
「あ、ちょっと待ちなさいっ!!」
大声で引き止めるエリスを無視して応接室を後にする。帰ってからイベントまでの数時間が勝負だ。
必ず、希望をつくってみせるぜノイさん!!
帰宅後鬼の様に起こる妻を宥める事が確定だったとしても、帰りの足取りはとても軽かったのを覚えてる。
◇
「ただ今戻りました〜」
夕方、事務所へ戻ると退勤時間を過ぎても残っている人がちらほらと居てどこか重たい空気を背負ってデスクに向かっていた。
「……みんな、どうかしました?なんだか葬式みたいな空気になってますけど?」
未だ静まり返った事務所内、キーボードを叩く音だけがやたら大きく聞こえて虚しくなった。
何もしてないのに外野に置かれた俺の問いかけに反応してくれたのは2人だけ。
「ああ、壬生君。おかえりなさい。さっきちょっとあってね……」
「傑先輩!聞いて下さいよ!井上先輩がちょっと前に駆け込んできて、いきなり仕事辞めるって言い出したんです!!」
小声で話かけてくれたのは俺より年上の女性で事務の小暮さん。
まるでワンコの様に食いついて来たのが後輩で俺と同じく女性で、こっちは営業の佐藤。通称さとちん。
「わかったわかった!さとちん、どうどう。
小暮さん、今さとちんが言った事って本当ですか?」
ゆっくりと深く頷く小暮さん。
「ええ、本当よ。…いきなりの事で私も耳を疑ったのだけれど、なんだかご家庭の事情みたいね…」
ご家庭の事情。やっぱりさっきかかって来たお母さんからの電話がきっかけで、さとちんが言う通りなら、実家に帰らなきゃ行けなくなったのかな?
それで、エリ姉さんとヒーさんに当事者のノイさんが居ないとなると今本格的に話をしてるんだろうか……。
とりあえず、勝手に借りて内側がコーラの糖分でべっとべとになってるジャケットをノイさんのデスクの椅子にかけて置こう。
「2人共、説明あんがとっす!俺は今日の分、報告上げて帰りますわ」
「ええ、どういたしまして。壬生君、佐藤さん、私は先に帰るわね。お疲れ様」
「お疲れ様っす」
「お疲れ様です小暮さん!気をつけてくださいね〜!……ねぇねぇ先輩っ!報告終わったら付き合ってくれません?久々に飲み行きましょうよ〜〜〜」
仕事を放ったらかして後輩が俺の椅子の背もたれを揺らす。
「今日は疲れたから嫌だ」
「そんな事言ってたらずぅっと仕事終わりに飲み行けないじゃないですかぁ〜〜〜」
即答で断るとしなしなと萎むようにして自分の椅子へ向かおうとするさとちん。
その背中が寂しさでいっぱいだった。
「んー、わかったわかった。俺が退職か異動になったらな」
「本当ですかっ!!………ってそれ送別会じゃないですか!!み〜んな参加するやつじゃないですか!!」
「今日のノリツッコミ冴えてんなー」
「い〜ですよ〜だっ!先輩なんてどっか飛ばされちゃえばいいんですよ!!」
「おいおい、滅多な事言うなよな……」
後輩をからかって遊んでいると、応接室のドアが開き、件の3人が事務室に出て来た。
「さて、残りの仕事片付けて帰りますかー。ん?おおっ!ひぷさん帰ってるじゃん!お疲れっ!」
大事な話をしていたはずのヒーさんが大手を振って歩いてくる。
その後からノイさん、エリ姉さんが続いて歩いてくる。
「ヒーさんエリ姉さん、ついでにノイさん!おつかれっす〜」
「お疲れ様、壬生君。もしまだ退勤してなくて、就業時間つけてるんだったらその態度許さないわよ?」
「アイッ、すいませんマムッ!!」
ビシッと敬礼して見せるとこれまた一段と呆れた顔をされてしまう。
「ひぷさん。今日は転ばせて置いて行ってすいません。事態が事態で気が動転してました」
「本当勘弁して欲しかったですよー。ノイさんのジャケットかけときましたんで、早い内にクリーニング出して下さいね?」
クリーニング?と小首を傾げるノイさん。
その表情があの時、無惨にも地面に落ちていった悲しきメロンパンのように思えてきて笑いそうになった。
「あ、そうだひぷさん!明日出勤して朝礼終わったら俺のとこ来てもらっていい?話があるんだよねー」
「んお?何か悪い事しましたかね??」
心当たりがあり過ぎて最早何が悪いのかわからない。
いや、悪い事ばかりが人生ではないさ。きっといい事に違いない。そう心で強く思ったものの、心の片隅で帰り際にさとちんに言われた言葉が心室に槍を立てていた。
「ささ、帰って今日も"あっち"で大暴れしようじゃ〜ないか諸君!!」
「お疲れ様。私はあまり動けないけど、役には立てると思うから頑張ろうね!」
応接室から歩いて来た時と同じく大手を振って帰って行くヒーさんと後ろを付いて歩くエリ姉さん。
身長180㎝のヒーさんと、150㎝のエリ姉さん。凸凹夫婦がとても羨ましくて泣きそうだった……。
「かなしみめろんぱん……」
虚しい気持ちだけがぽつんと1つ落ちていた。
◇
「あの、ヒーさん………まじですか」
「まじまじ」
いつもと変わらない社内の景色とキーボードを叩く音。
いつもは聞こえない後輩社員の笑い声。
勤務時間になり、朝礼が終わってすぐの事。
ひぷさんがヒーさんに呼び出されて、事前に聞いていたからかひぷさんもスタスタと支部長のデスクへと歩いて行って数秒後…。
「ひぷさんには去年の末に出来た岐阜の支部に異動してもらう!ちなみに決定事項な」
ヒーさんは半笑いで話してるけど真面目な話らしい。
俺の実家があるのも岐阜で、新しい支部が出来た事も知ってたけどまさか俺よりも先にひぷさんが行くとは思わなかった。
その異動辞令が決定してたから、俺が退職できなかったんだ…。
「まあ、決まった事なら仕方ないっすよねー。実家静岡なんで家に近くなると思えば、いい事なんすよね。……うちの実家、ロバ居ないんすけど……」
余計な事をボソッと言うもんだから話聞いてた周りの人間がみんな笑ってるじゃないか!
俺からしたらロバも大事な家族だっていうのに……。
弄られて嬉しくないと言ったら嘘になるがな?
複雑な気持ちでひぷさんの背中を見てるとヒーさんがひょっこりこちらを見て俺を指差して笑ってこう言った。
「まあそこのロバさんも一緒に異動なんだけどねwww」
「Noigyです!!」
「井上さん?」
条件反射でついプレイヤーネームを叫んでしまいエリスさんに睨まれている。
仕方ないじゃないか、ウケそうだったんだから!!
「…すいません山中さん。それでヒーさん、異動っていうのは?」
「ん?そのままの意味だけど?昨日言ってたしょ、俺ら上司は部下の幸せに責任があるって。俺に出来る最善の提案してるんだけど、どうだい?悪くないだろ?」
いきなりの提案に空いた口が塞がらない。
いつもはしゃいでて、へらへらした態度からは想像もつかないだろうけど本当に優しい人だな。
「ヒーさん、何から何まで本当にありがとうございます」
「いいっていいって、そーゆーのはさ。それで詳しく伝えると、2人の最終出勤日は今月の15日。それで向こうでの初出勤は来月頭だ。会社都合の異動って事にしといたから特別有給休暇が5日分付くから足りない分は悪いけど溜まってる有給を消化して欲しい」
「あのー、ヒーさん?俺今自分でアパート借りてて猫2匹飼ってるんですけど、アパート探しとかどうしたら…」
「ああ、その辺は心配要らない。向こうの社宅はお偉いも猫だか何だかが大好きで自分が責任者だからって社宅をペット可にしやがったららしいから大丈夫」
「宏、ミーアキャットだそうよ」
「なんだ猫か…」
「いや、猫でもないわよ」
明かりに向かって立つ可愛いやつよ。と、夫婦漫才を聞かされながら今後の事を考えていた。
「あ、ひぷさん。引っ越しとかどうします?ひぷさんの荷物の量によりますが、俺の荷物とか少ないから一緒に手配します?」
「…そうします。っていうか今思ったんすけど、俺ってノイさんのとばっちりくらってますよね?直撃っすよね!?」
ひぷさんの気づきに対して山中夫妻は息ピッタリに頷く。
それを見てひぷさんは肩を落としてこう言った。
「……かなしみめろんぱん。」
これが、この物語の始まり。
そして、ここからもう1つの世界が動き出す!
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