お清と亀公丸

武州人也

邂逅

 多摩川を望むとある町に、お清という娘がいた。

 この娘、齢十六にして容貌すこぶる麗しく、一顧傾城いっこけいせいの美人となった。その顔貌、御髪みぐし、肢体のどれをとっても人を魅せぬものはなく、唐土もろこしの詩に「かつ滄海そうかいを経て水と為し難く、巫山ふざん除却のぞけば是れ雲ならず」とあるように、男たちは彼女が長成するにつれて他の女たちには目もくれなくなったのであった。

 けれども、深閨しんけいに養われて世間知らずな所があった彼女は、ともすれば自らの恵まれた容姿を鼻に掛けるきらいがあり、それが白璧はくへき微瑕びかとなっていた。彼女は他者を見下し、まるで竹取のかぐや姫のように言い寄る男たちを拒み続けていたのである。

 何年か前、この町に、一人の童子おのこがやって来た。その名を亀公丸きっこうまるといい、元は西の方の村に住んでいたが、早くに母を亡くし、その後暫くして父も鬼録きろくに記されてしまったものだから、父の兄の家に引き取られたのである。

 お清が十六になる頃、この亀公丸は十二となった。彼は切れ長の目によく通った鼻筋、血管の透けるような白い肌をした中性的な容貌の美少年に育ち、女ばかりでなく男の目線をも引きつけるようになった。今時珍しい古風な総髪をしていたが、結い上げた髪の下からのぞくうなじや細首も、何とも艶めかしく見えるものであった。

 加えて、その容姿もさることながら、彼は非の打ち所のない博学才穎はくがくさいえいの少年であった。養父は漢学者であったが、彼の実子は遊び人ばかりであったものだから、真面目な亀公丸に徹底して学問を叩き込んだのであった。ほぼ遊ぶ暇などないとばかりに、この少年は四書五経を始めとする漢籍に、頭をどっぷり漬け込んでいたのである。後の世において漢学、特に経史けいしの学は、洋楽の侵略を受けて衰微の道を辿ったが、この頃は漢学こそが学問の主流派だった。


 いつ頃、お清が亀公丸のことを一目見たのかは誰も分からない。何分、この二人は共々、あまり頻繁に外に姿を見せる方では無かったのだから。けれども、お清はいつしか、しきりに亀公丸のいる三枝さいぐさ家の住まいの近くに姿を現しては、そわそわと落ち着かない様子で垣の内を覗こうとするような素振りを見せるようになっていたため、彼女が亀公丸に懸想していることは、誰の目にも明らかであった。

 お清は言い寄られることには慣れていても、その逆は全くの不慣れであった。そも、座して男の寄って来る身にあっては、どうして男を篭絡する手練手管など磨けようか。花は蜜蜂を寄せることは出来ても、自ら蜜蜂の方へ出向くことは望むべくもないことなのである。自分に言い寄る者には傲慢不遜に振舞った彼女も、惚れた相手に対しては、思いの他小胆であった。

 ある時、亀公丸は、家族と共に居を移すことになった。その話は程なくしてお清の耳にも入ったが、そのことで、お清はあからさまに焦燥の色を浮かべるようになった。

 それを見た一人の節介な町娘が、お清を唆すように言った。

「河に臨みて魚を羨むは、家に帰りて網を織るに如かずと言います。今行動を起こさずして何としますか。」

 それを聞いたお清は出立の前夜、ついに決心したのである。

 その出立の前日、その日はしとしとと雨が降っていたが、それとは対照的に、お清の胸の内に燻る恋情の猛火は、愈々抑え難いものとなった。今日を逃せば、もう二度と、相見あいまみえることは叶わぬやも知れぬ。そう思うと、意を決さざるを得なかった。

 その日の夜になっても、雨は止まなかった。夜空を覆い尽くす雨雲の下のむせ返るような湿気の中、お清は傘で雨を避けながら、身一つで足早に三枝の家へ乗り込んだ。女だてらに、意中の少年に夜這いを仕掛けたのである。

 お清は亀公丸の寝床に忍び寄ると、少年の細首にぎこちなく手を回し、体の震えを必死に抑えながら、その唇に迫ろうとした。

 その時、外で眩しい稲光がぴかっと光り、少し間をおいて凄まじい雷鳴が轟いた。お清は驚いて腰を抜かし、床に尻餅をついてしまった。そして間が悪いことに、雷鳴によって亀公丸の目も醒めてしまったのである。

「……誰だ其方は。」

 亀公丸は、見慣れぬ女——それもとびきりの美人である——の姿を自室の中に認めた。それが異様な事態であることに彼が気づくまで、然程の時間もかからなかった。亀公丸は危険な状況にあると直ぐさま思い、助けを呼ぼうと大声を出そうとした。

「——」

 お清は素早く手ぬぐいを亀公丸の口に突っ込み、叫ぼうとするのを封じた。お清自身も信じられないぐらい、敏捷にして冷静な挙動であった。そのまま、持ってきた縄で亀公丸を縛り付けて一切の抵抗を封じた上で、想いを遂げるに至ったのであった。


 明くる日、三枝家は出立した。お清に対して、亀公丸は何の挨拶も無しに、黙って町を出て行った。亀公丸は元より学問に身を捧げていたから、女子おなごには目もくれなかった。それはお清に対しても同じである。であるからして、昨晩のお清の蛮行は、亀公丸の心に大いなる傷を残したのであった。

 

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