第三話 後悔

 毎日、6時半に起床する生活はさすがに身体に堪える。定年退職をしてから約3年の間、橋本淳士は毎朝10時に起床するという、バリバリの営業マンをしていたサラリーマン時代と打って変わった悠々自適な生活を送っていた。


 そんな日々が激変したのは娘の麻子が育児休暇を終え、職場復帰するときだった。保育園に空きがなく、孫の愛を預けられないことが発覚したのだ。育児休暇を愛が2歳になるまで延長することもできたが、最後は麻子の「職場復帰したい」という強い気持ちが勝ったようだった。淳士が近くに住んでいるということも大きかったのだろう。家族で話し合った結果、日中は近くに住む淳士が預かることになったのだ。毎日、孫の愛と会えるのは本来は幸福なことだ。娘や孫と遠く離れて暮らしていると、会う機会は非常に少なく、多くて年に1回だろう。だから、淳士も最初は喜ばしいと思ったのだった。


 麻子は毎日8時には家を出る。だから淳士は7時半には麻子の自宅マンションに向かうようにしている。


 まだ63歳の淳士は今までそれほど老いというものを感じていなかった。ただ、毎日6時半に起き、満員電車に揉まれるというサラリーマン時代の生活を改めてやってみると、嫌でも老いを自覚せざるを得なかった。電車に乗っているたかが30分ほどで腰が痛くなってしまう。


 麻子の住むマンションは駅から徒歩約5分のところに位置し、何をするにしても便利だ。愛の将来のことも考えて、3人家族には広すぎる部屋を賃貸していた。


 チャイムを鳴らすと、麻子の夫である亮介が出てきた。


「おはようございます。お義父さん、いつもありがとうございます」


 毎日、丁寧に礼を述べられると逆に気を遣ってしまうが、淳士が亮介の立場であってもそうするだろうなと思う。


「おはよう。愛はまだ寝てるの?」

「そうですね。昨日少し寝つきが悪かったので、今日はちょっと遅いかもしれないですね」


 リビングに向かうと、麻子が慌ただしく準備をしていた。麻子と亮介は毎朝ほぼ同じ時刻に出勤する。


「お父さん、おはよう。朝ご飯と昼ご飯は冷蔵庫に入れてあるので、起きたら食べさせてください」「うん、わかってる」


 麻子と亮介と短いやり取りをした後、2人は慌ただしく出社した。部屋がしんと静まり返る。これがここ半年の淳士の日常だった。今だに淳士はこの状況に慣れないでいた。


 愛が眠る隣の部屋に向かうと、ちょうど愛が起きたところだった。「じいじ、じいじ」と淳士のところに寄ってきた。最初こそ戸惑ったものの、幼児の扱いにはすぐに慣れていった。どれだけぐずろうとも、どれだけ泣こうとも動じなくなっていた。愛と過ごす日々はどんなことが起ころうともただ楽しかった。幸福だった。


 麻子は16時に仕事を終え、17時には帰ってくる。それまでが淳士の役目だった。麻子が帰宅するのを見届け、家に帰る。その繰り返しだった。


 ただ、その1日がどれだけ楽しかろうとも、どれだけ幸福だったとしても、麻子が帰ってきたことを告げるチャイムが鳴ると、ほっと胸を撫で下ろすのだった。安堵というより、やっと終わったという思いだった。帰りの電車ではぐったりとしていることがほとんどだった。


 毎朝、7時半には電車に乗る。人と人とに揉まれる日々。そんな毎日を送る淳士はふと思うのだった。どうしてこんなにも暗澹とした気持ちに包まれるのだろうかと。どうしてこんなにもいたたまれなくなるのだろうかと。そして、淳士は思い出すのだった。亡き妻との日々を。


 あれは麻子がちょうど今の愛と同じくらいの年齢のときだ。仕事の忙しさにかまけて麻子の育児は妻の恭子に任せきりにしていた。今思えば、育児なんてやろうと思えばできたはずなのに、見て見ぬ振りをしていた。何も言わない恭子にただただ甘えていたのかもしれない。


 恭子なら言わないはずだ。でも、毎日電車に乗っているときに車内の雑音に混じって聞こえる気がするのだ。あなたはあの時何もしてくれなかったわね、と。その言葉が残像のように耳に反響する。


 電車を降り、痛む腰をとんとんと叩きながら、麻子のマンションへと向かう。


 チャイムを鳴らすと、珍しく麻子が玄関から出てきた。


「あれ?亮介さんは?」

「今日は午前中に大事な会議があるらしくて、早めに行っちゃった」


 そうかとうなずきながら、靴を脱ぐ。すると、麻子が「なんか顔色悪くない?大丈夫?」と訊いてきた。


 いや別にと口ごもりながら、麻子の顔をまじまじと眺める。


「あのさ、俺ってちゃんと父親やれてたのかな?」


「何それ?急にどうしたの?」と笑う麻子は「でもさ」と続ける。


「少なくとも私はこんなに立派に育ってるんだし、そういうことじゃないの?」

「立派って自分で言うなよ。でもそれは恭子のおかげだろ?」

「確かに私が小さい頃、お父さんはほとんど仕事で家にいなかったけどね。でも、私は2人あっての私だから」


 麻子はふっと笑うと、「じゃあ行ってきます。愛をよろしくお願いします」と飛び出して行った。


 いつものように家はしんと静まり返る。


 あなたはあの時何もしてくれなかったわね。


 言われたことのない言葉がずっと耳に反響する。考え過ぎなのだろうか。でも、少なくとも今は、あのときできなかったことをやっていくしかない。


 淳士は「じいじ、じいじ」と元気に愛が起き上がってくるのをただじっと待っていた。

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