三章

女魔術師


 お兄ちゃんのことが、大好きだった。

 母親と、年の離れた兄。

 その二人が少女の家族だった。父は少女が物心つく前に急逝してしまい、彼女の記憶には残っていない。

 それもあって、年の離れたお兄ちゃんは彼女にとって生まれた時から最も身近な大人の一人だった。

 どんな時だってやさしかったし、思う存分自分を甘やかしてくれる。わがままを言えば何でも聞いてくれるし、ちょっとしたことでも見逃さずに褒めてくれるし、自分に何かがあれば真っ先に駆けつけてくれるのはお兄ちゃんだった。

 母親のことはもちろん大好きだったけど。ちょっと厳しいところがあってすぐにガミガミ言ってくるのが玉に傷だ。そんな時はお兄ちゃんの後ろに隠れるのだ。そうすると、母親からもお兄ちゃんが苦笑いをしながらも自分をかばってくれる。

 自分の一番の味方はお兄ちゃんで、だから彼女もお兄ちゃんのことが世界で一番好きだった。流れるような金髪が、穏やかな目元がそっくりだと言われるのが嬉しかった。

 ある日、そんなお兄ちゃんが勇者になった。

 勇者になったことは誇らしいけど、家から離れると聞いてそ寂しさがはるかに勝った。やだやだと行かないでと泣いても止められなかったのは初めてで、お兄ちゃんが行ってしまった後はとても寂しかった。

 大好きなお兄ちゃんが自分のお願いを聞いてくれなかった。ちょっとすねたが、母親に諭されてしぶしぶ機嫌を直した。しょうがないんだと思い直して、お兄ちゃんはすごいことをしているんだと思えば自然と機嫌も持ち直した。

 だから、手紙が待ち遠しかった。

 お兄ちゃんからの手紙はいつも自分たちのことを気にしてくれていた。詳しいことは書けない事情があったが、その分、家族を気に掛ける言葉が並んでいた。

 皇国最低の時代。

 のちの世で、そう言われた十年足らずの最後の皇帝の治世。

 皇家が積み上げたものすべてが雪崩を打って崩れ落ちるような末期だったが、少女の生家のバロウ家は比較的裕福だった。兄が勇者になったこともあり、生活は保障されていた。

 だから時代そのものに対しては、少女がつらいと思ったことがなかった。

 でも、あの日。

 何の前触れもなく、見知らぬ武装した人たちの襲撃があった日。

 母親が、少女を押し入れの奥に隠して、押し入ってきた誰かに――


「ごめん、ごめんね……すぐに助けられなくて、ごめんなさい……!」

「クソがッ。まさかあいつの実家だからってだけで狙ってきただと!? 皇国主義者のカスどもがッ」


 ――当時、少女には何が起こったかはわからなかった。

 たまに会うことのあったお兄ちゃんの仕事仲間だった女性に抱きしめられて、少女はただ茫然としていた。何度か話したことのあるお兄ちゃんの仕事仲間だった男の人が何を話しているのか、まるで理解できていなかった。

 だから、聞いた。


「お母さんは?」


 二人は顔をそむけた。母親に守られ、最後まで無傷で隠れることができた少女に、彼らには何も言えなかった。

 嘘だ。こんなの嘘に決まってる。呆然としながら、現実を否定しながら、それでも失ったものを幼心で知って、だから少女はなにも言えなかった彼らに、もう一声。


「お兄ちゃん、は……?」


 世界で一番の味方が、駆けつけてくれないはず、ないのに。

 ジークが歯を食いしばって、アルテナがただただ少女を強く抱きしめた。

 それから、数日。

 少女の取り巻く環境が危険だと、腕利きの冒険であり、教会からの信任も厚い秘蹟使いの実力者であるジークに引き取られることになった。アルテナも手を上げたが、彼女は当時まだ十七歳。護衛の一人として少女の傍で目を光らせることになった。

 そんな中、少女は。


「お兄、ちゃん、は……」


 母親が死んだあの日から葬儀が終わるまで、兄の帰りを少女は待ち続けて、結局。


「……あの人、は」


 あの勇者は、帰ってこなかった。

 母の葬儀が終わった次の日に届いた、勇者からの手紙。


「……」


 少女は、いつも胸を躍らせて待ち望んでいた手紙を開封することなく無言で破り捨てた。

 びりびりと、決してつなぎ合わせることができなくなるほど細かく千切って床に捨てる。

 床に落ちた紙片の一つに、ぽつりと雫が落ちた。


「なにが、勇者よ……」


 二片、三片、次々と濡れていく。少女の涙を吸って、ふやけていく。手紙だったものでは吸いきれないほどの涙が、少女の瞳から流れ落ちる。

 史上最低の皇帝を打ち倒す。聖剣を抜き、教会の後ろ盾を得て、圧政の暴君を排除し人々を救う。なるほどご立派なことだ。振り返る暇などありはしないのだろう。ひたすらに邁進しなければならないのだろう。彼の行いは彼の家族より重要で、きっと家族を失ったことすら、美談になるのだ。

 だから少女は許せなかった。


「……なにがッ」


 少女は音を立てて、ふやけた手紙の残骸を踏みつけにする。

 薄っぺらい紙。踏みつけにした感触すらない。それを、幾度となく踏みにじる。


「なにがっ、なにがッ……なにが勇者よぉ!!」


 千切り捨てて、自分の涙を吸ってふやけた手紙の残骸を何度も何度も踏みつけて。


「――ろして、やる」


 国を救おうと、人々に望まれていようと、たった一人の少女は望まなかった。

 一人だけの想いなど、多くの人々の感情で形成されたダンジョンには届かない。恩恵の秘蹟にならず、魔物にすらなりはしない。

 そんな、ちっぽけな思い。


「殺して、やる」


 だから、彼女は自分の手でやると決意したのだ。


「勇者なんて、あたしが、ぶっ殺してやる……!」


 兄によく似た少女の穏やかな目元は、その日から薄く研いでいくように鋭くなっていった。










 朝起きると、ご飯が用意されていた。

 風呂場の浴槽で目を覚まし、体の節々が痛むのに顔をしかめつつも這い出たレンはきょとんと目を瞬く。

 起きたら食卓にご飯が並んでいるとか、これはなにかの奇跡かなと信じられない気持ちになる。

 レンに気が付いた女魔術師はなんでもない口調で。


「ああ、起きたの」

「あ、はい。おはようございま――すッ!?」


 見慣れない光景に目をぱちぱちさせていたレンは顔を上げて、女魔術師の姿を見て固まった。


「せん、ぱい。その恰好は……」

「は? ただのエプロンだけど」


 なるほど、女魔術師の言う通り、ただのエプロンだ。

 ミルク色の、シンプルなエプロン。飾り気はないが、腰と胸元をくるりと紐でまとめるつくりになっている。腰は後ろで結び、胸元は前に留める形になっていて、ちょうちょ結びにされている紐が飾りのワンポイントになっていた。

 もちろん、男一人暮らしのレンがエプロンなど持っているわけがない。つまり女魔術師は、家出に際して荷物に自分のエプロンを入れたのだ。

 なんなのこの人、家出の荷物にエプロン持ってくるとか女子力どうなってるんだ。内心で呻きつつもレンは言葉を絞り出す。


「全然変じゃありません……。すごく似合ってます、はい」

「……え、エプロンに似合ってるもなにもないでしょうがっ」


 頓珍漢なことを言ってしまったのか。声を尖らせた女魔術師に怒られてしまったが、実際に似合っているのだから仕方がない。

 いつもの冒険者スタイルの上に、シンプルながらもかわいらしいエプロン。昨日の薄着の寝巻とはまた違う。普段と先輩として接している姿に、エプロンというアクセントが交じることで醸し出される魅力。レンに褒められたのが気に入らなかったのか、頬を染めながらするりとエプロンを解いて脱ぐ仕草が、着衣だというのに色っぽく見えて仕方がなかった。


「いやかわいいですよ。びっくりです。びっくりするくらいかわいいです。なんなんですか、先輩。もう俺、わけがわからないです。俺はどうすればいいんですか、先輩……!」

「さ、さっさと座りなさい! そして黙って食べなさい!!」


 くらくらする思考を何とか抑え込んで、自分で何を口走ってるのかわからなくなっているレンは食卓に座る。


「ご飯の用意まで、ありがとうございます……って、え? すごく豪華ですね、これ」

「普通よ?」


 ビーフシチューにパン。ものすごく簡単にいえばそれで終わりだが、朝から昨日の残り物でもないシチューなど普通は食卓に登場しない。

 少なくとも、レンは朝からこんな手の込んだものをつくらない。というか、こんな手間がかかりそうな料理をしたことがない。切って焼いて塩を振ってパンと一緒に食べて終わりだ。


「というか、朝に一番食べないと力でないしょう。何もなさ過ぎで苦労したわよ。何なの、あの台所」

「いや、あんまり凝った自炊はしないもんで」

「ふぅん? せめて鍋くらいは買いなさいよ。普段あんた、なに食べてるの」

「そりゃ適当なものをテキトーに……あ。そういえば、鍋もないのどうやってシチューなんて作ったんですか?」

「魔法の使い方を広げれば、調理器具の代用ができるのよ。うっかり解除するとひどいことになるから、普段はあんまりやらないけど」


 雑談をしながらスプーンですくって一口。


「うまっ」


 思わず声に出ていた。


「……別にお世辞はいいわよ」

「いや、ほんとにおいしいですって。なんですかこれ!? これが普通だったら俺がいままで食べてきた朝ごはんはなんなんですか!?」

「大げさね。ただのシチューじゃない」

「いやいやいや。俺、お店でもこんなおいしいもの食べた覚えがないですよ」

「それはあんたがロクなお店に行ってないだけよ」

「え? これよりおいしいお店、先輩知ってるんですか? じゃあ今度教えてくださいよ」

「……そうね。気が向いたらね」


 目を丸くしつつも、レンは舌鼓を打つ。

 香辛料のたっぷり入ったスパイシーさと、とろとろに溶けるまで煮込まれた玉ねぎの甘みが絶妙にマッチしてる。牛肉スプーンを入れれば、肉の繊維がほどけるように切れていく。パンもわざわざ焼きなおしているようで、パリッとしつつもふわふわだ。

 女魔術師は、ちらりとレンの反応を見ただけで特に何も言わない。食事の味にはしゃぐレンとは対照的に静かに受け答え、もくもくと食べ終え先に立ち上がる。


「じゃあ、あたしはダンジョン探索があるから。あんたは今日、明日と休みよね。食器の洗い物ぐらいは任せていい?」

「もちろんです。やっておきます」

「どーも」

「あ、先輩」


 さっさと扉に向かう女魔術師に、おいしいご飯を食べて落ち着きを取り戻したレンは笑顔で見送りの挨拶を。


「いってらっしゃい」

「ん」


 そっけなく頷いて、女魔術師は外に出た。









 扉を閉めた女魔術師は、とん、と背中を壁に預ける。

 そして両手を、自分の頬に。


「なによ、もぅ……」


 自分の頬をぐにぐにさせる。油断すると、頬が緩む。嬉しくなんてない。後輩からちょっとエプロン姿を褒められたらからってなんだ。掌でほっぺたを持ち上げる。自分はそんな簡単な女ではない。褒め言葉くらい、さらっと流せる。きりりとした鋭い目つきを。食事をあんな嬉しそうに食べてくれたからって。裏表なくはしゃいだ子供っぽさにこちらも嬉しくなっただなんて。いつもの自分を取り戻すために、薄く研いだ自分を。

 呼吸を、整えるのだ。

 あの時に決めたのだ。

 手紙をちぎって、涙を流して、踏みにじったあの日に。

 他人に甘えた自分から決別して、勇者を殺せる自分になるって。

 なのに。


「ふ、ぅ」


 喉元がつまるような、胸がきゅうんくすぐったくなるような、おなかがぽかぽか暖かなるような熱。

 壁越しに、気配を探る。闘うために感覚を鍛えた彼女は、壁越しでもレンの存在をはっきり感じることができた。

 まあ、なんだ。

 女魔術師は、ぼうっとした頭で考える。

 先輩としての自分の行いで後輩の喜んでくれたんだから、ちょっとくらいいい気分になったっていいだろう。レンと仲がいいディックさんとかも、いい恰好したくてレンをおごったりしてる。それと同じことだ。後輩から褒められれば、嬉しい。普通だ。これから共同生活を送るわけだし、お互いギスギスするより仲がいいほうが都合がよいに決まっているし。

 だからご飯くらい、これからも作ってやってもいいだろう。

 あんなに、喜んでくれるなら。

 彼女は洗い物をしている彼に、そっと一言。


「……いってきます」


 部屋の中には絶対に届かない声量は、小さく、けれどもとても甘く女魔術師の胸に響いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る