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平成二十五年十月二十日。岐阜県下呂市である実験が行われた。
「木造3階建て学校の実大火災実験」。
読んで字の通り、木造三階建ての学校を模造した木造建築に、実際に火を着け火災の様相を記録観察する実験である。
これを聞いてどう思うだろうか。
スケールの大きな実験だな。費用が幾らかかったんだろう。よくやるな。
そんなところだろうか。
しかしこの実験は、昭和以降長らく続いた日本の建築界における一つの潮流に対して大きな一石を投じた、意義深い実験だったのである。
日本では、建築物における耐火性能の義務化について法に定めがあり、一般に三階建以上の公共建築物は耐火建築とすることが求められる。一般の建築物についても、防火地域指定や延べ床面積など色々と条件があるが、耐火や準耐火などの定めがある。
大まかに言って、大型建築物は耐火性を求められる、と考えて良い。
古来火災によって日本は大きな被害を被ってきた。江戸時代の度重なる大火はもとより、大正十二年の関東大震災では、地震の搖れによる倒壊もさることながら、火災による被害も甚大であった。太平洋戦争期に於て米軍の焼夷弾が振るった猛威は、説明するまでもない。
戦後の復興に際して、建築家たちは、これを機会に建築物の不燃化を訴えること頻りであった。まだ終戦冷めやらぬ昭和二十一年三月発行の「建築雑誌」七一八号に、東京工大教授田邊平學は〝不燃都市の建設〟を謳っている。
戰災都市の復興に當たつては、豫て筆者が叫び續けてゐる樣に、「燃えない都市」をこの機會に何としても造り上げなければならない。殊に文化高き平和國家を建設せんとあるからには、その文化都市の建築物は、あらゆる文化的施設の完備してあるべきは勿論、その骨組は飽くまで簡素強靭であり、殊に防災的でなくてはならぬ。
萬人の知る通り、我國の都市は燃え易い木造家屋の大集團で出來上がつてゐるが、これは全く世界の文明國に類を見ぬ所である。「木造都市」であるが爲に、我國の諸都市は古來火災によつて脅かされ續けて來た。…
(中略)
…文化高き平和國家新日本の建設に當たつては、この機會に禍を轉じて福となすべく、何を措いても都市火災の原因を断ち、大火災発生の惧れを無くする策を講じなければならない。
田邊平學「不燃組立家屋の一提案」(「建築雑誌」第七百十八号)
戦災で多くの家屋が焼け落ちた今こそ日本の都市不燃化の奇貨とすべし、との建築界の強い願いは、その後も何度となく発せられ続けた。その最たるが、昭和三十四年に日本建築学会によって発せられた「建築防災に関する決議」に掲げられた〝木造禁止〟だろう。
その是非はともかく、戦災を経験した建築家たちは、防火防災への執念から、またその他要因から、日本の建築物の鉄筋コンクリート化を推し進めていった。法制度も、昭和二十五年制定の建築基準法の順次改正や、住宅公団、住宅金融公庫などを通じて不燃建築を推進した。
結果として、日本では大型建築物は押並べて鉄筋コンクリート化した。
これは決して悪しきことではなく、学校や役所は災害に際して最も頑健な建物として、避難所として機能するようになり、日本の防災において決して小さくない役割を果たしている。
しかし一方で、日本古来の木造建築は新規建築が基本的には認められず、再建時に鉄筋コンクリートで作らねばならなかったり、また戦後の造林政策によって植林された杉や檜が成長し、木材として供給可能になると、国産木材の利用促進という要求が出たりと、それまでの一様な建築基準に対して、異議異論も呈されるようになっていた。平成二十二年に木材利用促進法が制定され、一定の耐火基準を満たす大型木造建築が認められるに至った。
冒頭に紹介した実験は、この法律を受けての、耐火木造建築の耐火性を評価するための実験だったのだ。これに先立ち、予備実験、準備実験を経ての本実験であり、これにより、耐火木造建築技術に一応の目処が着いたとされる。
戦後、大型木造建築が規制されるようになってから半世紀余。
しかしその始まりはさらに遡り、昭和八年の東京帝国大学から話は始まる。
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