更月忍の手記(抜粋)
―――某日、雲一つ無い快晴の頃
今日、私は我が家に受け継がれる神社の本殿に入る許可を戴きました。そこは、私が生まれてこの方、お母様とお婆様に立ち入りを禁じられておりました。お婆様曰く、私が神社の孫娘として相応に年を重ね、そして責任について理解できると言うことを信じて、お婆様は私の手を取り、本殿へ向かう道を許して下さったそうです。私は、お母様やお婆様の言葉に、私が人として認められた様な思いを抱き、私を引く二人の手に、どこか満たされる様な思いを募らせました。
私が本殿で最初に見たのは、荘厳な神仏の像でも、きらびやかな内装でもありませんでした。私は、そんな上辺の物よりももっと驚くべきものを目の当たりにしたのです。
本殿の中には、私の見知らぬ女性が居ました。しかし、その姿はおよそ私の知っている人間とはかけ離れており、私は自分の目を疑ったのを深く覚えています。彼女は、学生の時分であった私よりも、僅かに大人びており、由緒ある本殿の造りの中にあって、余りにも目を奪われる存在でした。何よりも私が驚いたのは、彼女の瞳と、腰までかかるほどの長い髪が、雲一つない青空を、一滴も溢さず刷り込んだような、美しい水色をしていた事です。
私がその姿に息を呑み、言葉を忘れていると、お婆様からお話を戴きました。その女性は、この神社で隠居されている者で、名前を冷泉と呼ぶのだそうです。冷泉とはこの町の名前。それについてお母様に疑問を投げ掛けると、お母様は逡巡して私に彼女の事を全て教えてくださいました。その女性とは、この町に住まう冷泉と言う神様の一人であり、今の冷泉町の神様の母なる人であると言うのです。
確かに冷泉町は、長く不可思議な気候をしておりました。夏になると、震える程に涼しくなり、不自然な程に過ごしやすくなるのです。私は、それが神様の仕業であると予予お母様達から聞かされてきましたが、その象徴たるご本人が、我が家の有する神社で隠居をしていると言う事実は、私の心に深く刻まれました。
―――某日、爽やかな蒼白の空の頃
学校が夏休みに入り、私も家庭での勉学に集中していました。私達には、自ら興味を持った事について論じると言う課題が課せられ、私の学友も等しく課題に頭を抱えておりました。
晴天の頃、私は冷泉神社の本殿の中で評論に勤しんでいました。それには二つの理由があります。
一つには、私が論じるべく選んだ題目に依るものです。私は、自分の家の歴史ある神社に対して余りにも無知であると悟りました。それ故に、私は神社の歴史と、この神社を軸とした冷泉町と言う町の歴史について調べたく思ったのです。
もう一つには、私がお母様達から仰せつかった一種の仕事によるものです。冷泉神社の本殿に隠居していらっしゃる、冷泉の古い神様。彼女を監視することが、神社を管理する更月の家に脈々と受け継がれる役割であり、冷泉の神様を理解した今、その監視の役割は私に引き継がれたのです。尤も、学業がある内はその限りではなく、夏休みの間だけの仕事であります。
しかし、私は仕事においても、学業においても、冷泉神社に隠居されている彼女と交流を出来たことを非常に嬉しく思います。そこに居る彼女は、人間よりも遥かに長く生きており、私が教書で教わるべき知識を、まるでその肌で感じたかのように説明してくださりました。
一方で、彼女もまた多くを語れる者を探していたようで、私が始めに彼女の言葉を聞きたいと思い声をかけると、彼女は優しい口調で私に自分を語ってくださいました。
―――某日、陰影刻々たる入道雲の生える頃
冷泉と言う神様と語らうようになって、もう数年が経過します。何時しか私は、冷泉よりも大人になり、肩を並べても私の方が上に突き出る程になりました。冷泉は、成長を致しません。お母様に話を聞くと、冷泉の姿形は、彼女がこの神社に身を寄せた当時から一つとして変わっていないと、亡きお婆様は仰っていたと聞かれました。その事について冷泉に尋ねると、冷泉は諭すような言葉で「人間が認識するには遅すぎる速度でわたしは成長している」と言いました。そして同時に「神様も、寿命と言うものがある」とも教えてくれました。それは、どういう意図の回答なのでしょうか。これを書いている今の自分には、まだ理解の出来ない言葉です。
―――某日、雨音が盛夏を告げる頃
私は、幾年も冷泉と会話を重ねている内に、彼女が何故今もここに囲われているのかに疑問を感じ始めています。冷泉から、この町の気候と神様の話を聞くほどに、私は彼女自身に一切の罪はないと強く感じます。そして、冷泉の先代の神々が犯してきた罪によって、何の落ち度もない今の冷泉がここに閉じ込められているのは、私には不条理でしかありませんでした。
私は、そんな不条理な彼女を思い、一つの提案をしました。その手始めとして、私は彼女に名前を一つ与えました。それは、私と冷泉だけが知る名前であり、他の者には彼女が神様であることを覚らせないための名前でした。次に私は、彼女に人間らしさを貸し与えました。昨今、多くの人が自分を着飾り、艶やかに変身をしております。その多くの技術の一端を彼女に与え、彼女を汎用な一人の人間の様に飾ることが出来たのです。
そして、私は人間に姿を偽った「夏野小折」を本殿の外へ連れて行ったのです。
冷泉は、久方振りに目にする冷泉町に、興味や好奇と共に、何処か懐かしさを思わせる瞳をしておりました。彼女曰く、これまで外に出ることが出来たのは、彼女の長い生の中でもほんの僅かな時間だと言います。しかし、彼女が最後に見た冷泉町と、今見ている冷泉町とは、彼女の中では大きく変わってはおらず、数十年の時を経て尚、冷泉にとっての冷泉町はそこにあり続けたと、私の隣で思い更けておりました。
―――優しい夏の風が緑を揺する頃
私は、毎年行われる冷泉の夏会の話し合いに、神社の責任者代行として出席いたしました。冷泉の夏会では、神様に奉納する舞いを踊る人物を選ぶ年が何年かに一回あります。そして、舞い手は必ず女性であり、現在は四王寺の娘さんが舞いを行っております。ですが四王寺の娘も成人をしており、舞いを担当するのも五年を超えております。本人の希望と言うのもあり、これを私が書いている今年は、新たな舞い手の選定が行われたのです。
ですが、それは思いもよらない結果を残しました。先に書いた通り、この冷泉の夏会は女性による舞いの披露であり、冷泉に尋ねたところによると、それを男性が行うことは長く長く行われてきませんでした。神社の人として、私もこれが男子禁制の事であるのは良く理解をしております。しかし、今年はその例外が生まれた選定でありました。
私と同じ高校へ通う彼は、祭ヶ原と言う家の人で、長くこの町の舞いに携わってきた家の人でありました。そして、この年に彼以外の持ち回りの家には適した女性がおらず、年齢においても頃合いにおいても、舞いを受け持つことが出来るのが彼しかいないと言うのが、話し合いで決まった結果であります。私は、その事実を冷泉に伝えましたところ、冷泉は驚き、そして深く考えこみました。
今、冷泉町の神様は神社にいる冷泉ではありません。彼女は冷泉町の旧い神。冷泉は、自分の娘の事について何度か話をしてくださいました。それは彼女の直接の娘であり、今の冷泉町を司っている神様である事。そして、舞いを踊る人間だけが目にすることが出来るのは彼女の方である事。それはつまり、これから決まる夏会の舞い手が彼女を目にすることになれば、誰が否定しようとも夏会の舞い手は祭ヶ原の彼だという事になります。
始めから、 私はあの話し合いの結果に不安を隠せませんでしたが、冷泉から話を聞いて、この記を認める今も、心を覆いつくす程の不安が、手を震わせます。
―――
私は、多くの不安を抱きつつ、冷泉の夏会までの日々を過ごしています。そして、その不安の一部は、選ばれた側である祭ヶ原君も抱えておりました。私は、先の選定からすぐに、祭ヶ原君を訪ねました。彼は私の一つ下の学年であり、冷泉町の風習の残る彼の名字は、私たちの通う学校に於いては珍しいものであるため、学友に尋ねればすぐに出会うことが出来ました。
祭ヶ原君は、昨今の男性の様な無骨な人ではなく、男らしさの無いたおやかな人でした。そして、私は彼から様々な事を聞きました。彼自身も、この選定の結果には心配を隠せないらしく、今でも自分が夏祭りの舞台に立つことが信じられない様子でした。しかし、同時に彼はもう一つ不可思議な経験をしたことを私に伝えてくれました。
それは正しく、私の神社に居る冷泉の娘を彼だけが目にすることが出来たと言う経験でした。つまり、祭ヶ原の彼は、神様を見る力を手にして、名実共に夏会の舞い手になった事を示しています。
やはり、彼は舞いを踊ることが出来る人間だと認められたのです。そして、彼がそう認められた以上、私は再び冷泉町を絶やすことが無いように、彼の動向に気を配らなければなりません。決して、もう一度過ちを起こさせないように。
―――
私は、無謀なことを致しました。おそらく、祭ヶ原君を深く傷つけたのでしょう。ですが、そうしないと、もっと彼は危険の中に足を踏み入れることになります。それは、この町にとって看過できない問題。ですから私は、彼を何としても止めなくてはなりません。たとえ私の身体を犠牲にしようとも、私は止めなければなりません。例え、彼が私やそれ以外の多くを恐れても、私は止めなければなりません。
私は、きっと人間としては重い過ちを犯しているのかもしれません。私は祭ヶ原君の意思を尊重せず、彼の手を取り、私にその心が移ろうように唆したのです。彼は驚き、そして恐れていました。彼の手を、私の胸に当てて鼓動を確かめさせたとき、彼の顔は強張っていました。それは、緊張や羞恥ではなく、恐怖のように私の目に映りました。そして彼と組みあった時、彼は私を突き放しました。
私の行為を、冷泉は諫めました。そして彼女はその日、出かけると一言告げて出ていきました。彼女は私に意味深な多くの言葉を残して夏野小折として出て行ったのです。私は彼女の背中を眺めながら、心の内側で大きくなる不安が飛び出さない様にするので精一杯で、出ていく彼女を、止める事も追う事も出来ませんでした。
―――
やはり、全ては選定から狂ったのです。
やはり、私は止める ことが出来ませ んでした。
やはり、これは決 して行われては いけないもの でした 。
私は、神様 を守る事が出来 ませんでした。彼は神様を愛して いるのです。そして神様 も彼に心 を委ねている のです。私は自らの心の悲 鳴に耐えら れません。そ れは、二人がどう過 ごし て来たのかを知っている からです。
多くを背 中に背負 わされ、 自分の考えも通させ てはもらえ なかった悲しい舞い手の 事も。
人 間の 理 を知らずに人の姿で生 き て、人の 姿ゆえに押し付けら れた、 目に見えない痛みを抱 え続けた神様の事も。
神 社に隠 居していた冷泉も今は此 処におらず、私は神 社の娘 とし ての全ての責任を抱 えな ければ な りません。ですが、こ の責任は、無知な 私には あま り に も 重
冷泉は、もういない。
―――
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