第16話「受付嬢」
記憶を頼りに里山の道を走ると、大門が見えてきた。
左手に刀を携えた
普段なら、巨大な二人の門番が立ち塞がっているのであろうが、彼らは現在、
琴律は明るい陽射しに目を細めて巨大な門を見上げると、なんの警戒もせず、木造りの門扉に掌を当てた。さすがに門錠がかけてあると見え、みしりとも動かない。
打刀を地面に置き、琴律は全身を翻すと、門扉に回し蹴りを放った。
物凄い音が辺りの里山に響き渡り、遠くにいた鳥たちが
「——おうおう
はきはきと勢いのある美声が、門の上から降ってきた。
続いて人影が大門の上から飛び降り、琴律を飛び越して、その背後に着地する。
振り向いて見ると、着物の上にエプロンを着けた、ひとりの女の姿がある。
モデルのようにすらりとした美人が、射抜くが如き眼光で琴律を睨みつけていた。長身の琴律よりも、更に少し背が高い。まっすぐ長い黒髪にグラマラスなボディスタイル、そこに纏った
琴律はその服装に見覚えがあった。
「ヰ
「おう、あたしか。ゑ
ゑ鯉と名乗った女は、すっと手を伸ばして、琴律の額に人差し指を突いた。
「……」
「お前、なんやこのエっロい格好。露出過多やで」
琴律のエトピリカの装束を上から下までじろじろと眺め、ゑ鯉は呆れたような声を出す。
「……手を離しなさい、不躾な」
「ふん」
一瞬、琴律の額から指を離したゑ鯉は、そのまま琴律の顔面を掌で覆うようにして掴んだ。
「んなっ」
いきなり繰り出された
「この——離しなさいと言っているでしょうっ」
「離すかい、
ぎりぎりと顔を締め付ける手を振り解けず、琴律は思わず、持っていた刀を抜く。
横一文字に振り払われた刀を、ゑ鯉は跳び上がって躱した。右手は琴律の顔から離さぬまま、片手倒立のような格好になる。
「死んだ後で
「く……」
焦って振り解こうとする琴律の顔面からようやく手を離し、ゑ鯉は宙で身を翻らせると、爪先で琴律の顎を蹴っ飛ばした。
無様に地に転がる琴律の傍らに、ゑ鯉は軽々と着地した。
「なんぼエトピリカや
「——ゑ鯉さん姉さあん」
またも、頭上から声がかかった。今度は本当に、琴律も聴き知った声である。
「ヰ子さんっ……」
門の上から、知人の姿が飛び降りてきて、琴律の前に立った。
「おう、ヰ子。来よったな」
「姉さん、
引きつった顔で、ヰ子はぺこりぺこりと二人に頭を下げる。
「ヰ子、挨拶やええから。この姐チャンにお仕置きや」
「へえ。——琴律さん。こないな
「ヰ子さん……」
物腰は対照的だが同じ服装をした二人が、琴律を通さじと門前に並ぶ。
「——しかし、あのガキタレぁほんま、肝心なときに番兵しとらんで、なに呆けてんねん。役に立たんで給料もらいやがって、
この場に居ない阿吽を
「ほんまにあのボケらは
「へ、へえ……」
いきなり話を振られ、面食らった様子でヰ子が生返事をする。
琴律は身を起こし、
「仕方がありません。それならこちらも、力尽くです」と再び威勢を張り直す。
左手に鞘を持ち、右手に抜き身の刀を構える。
「へっへっ。
腰に手を当てて、ゑ鯉がにやにやと笑う。
「
「
「……」
ヰ子の
琴律はヰ子の方へ、黒い刀を向けた。
「私も、帰れと言われて、はいそうですかと引き下がりはしません。通してくださらねば——」
「斬る、ってか?」
ゑ鯉のにやにや顔が、ふっと真顔に変わった。
一拍の間を置いて、ゑ鯉の回し蹴りが飛んできた。琴律は反射的に刀の鞘を前へ繰り出し、ゑ鯉の長い脚を受け止める。
腕がびりびりと痺れるほどの衝撃をまともに受け、琴律は柳眉を歪める。
「くぅ……」
「おらおらあ」
まるでミサイルのような人間離れした勢いで、ゑ鯉の脚が次々と繰り出される。それを琴律は必死で鞘で受け、捌く。ゑ鯉の着物の裾が
「おうおう。そんなん折れてまうど? 長い棒っきれで防ぐんが、ようやっとかいや? ケンカの方も、可愛い
(こんな……これほどに……)
これだけの
繰り出されるゑ鯉の蹴りは次第に捌き切れなくなり、琴律の白い肌に突き刺さる。重いキックを受けて、身体が噴っ飛ばされそうになる。たいして体重を乗せていなさそうな攻撃でも威力があって、当たると驚くほど痛い。プロの格闘家と素人の違いのような、薄ら寒いものを感じる。
自分よりも、ゑ鯉は遥かに強い。琴律はそう悟って、唇を噛んだ。
「ええいッ」
鞘と刀を捨て、琴律も前蹴りを繰り出した。
ずどん、と長い脚同士がぶつかり合う。琴律の
「おらよっ」
ぶつかり合った脚を支点にして、ゑ鯉がもう一度身を翻した。軽くジャンプして、反対側の脚で琴律の横っ面を蹴っ飛ばす。
琴律は声もなく、再び地に転がされた。
「ああ、つまらんわ」
軽業師のような動作で着地したゑ鯉は、手脚をぶらつかせながら、琴律の姿を眺める。
「痛い
(冗談ではない……)
痛くなかったどころか、弁慶の泣き所を蹴られないように精一杯であったため、他の箇所は蹴られ放題になっていたのだ。
しかも、かなり手加減をしてくれていた様子ではないか。実力が違いすぎる。琴律は顔をしかめた。
無様に這いつくばって刀を拾い、身を支えて立ち上がった琴律は、肩で息をする。蹴られた頬が痛み、涙が出てくる。
「ヰ子ッ」
「はいっ」
琴律の目の前に立つ二人の姿が、四人に増えた。
「あっ!?」
思わず声を漏らした次の瞬間、背後から腋の下へ腕が差し込まれ、琴律は羽交い締めにされてしまった。
身動きの取れない琴律がもがくうちに、四人が八人に増え、八人が十六人に増える。
顔姿はヰ子・ゑ鯉の二人分しかないが、何十人もの“ふたり”それぞれが違う動きを取っており、それらが瞬時に琴律の周囲を取り囲んだ。
増えたうちの二人が琴律の両脚に飛びついてきて、
「これは、一体、なんですっ……どういうことですっ」
寝転がされたまま、長い両脚を持ち上げられ、両膝が肩の上に来るように腰を折り曲げられる。背が丸まり尻が浮かされ、丈の極端に短い装束からは淡いブルーの下着が丸出しにされる。
白い雲がぽつんぽつんと浮かぶ青空の
ひとりのゑ鯉が横に立ち、足袋に草履を履いた足で琴律の右手首を踏みつけた。
「うっ」
琴律は思わず、刀を離してしまう。黒い打刀は手から地に落ち、艶の消えた刀身が陽光を受けて、鈍い輝きを放つ。
「ふん。どうせお前、大人しそうなヰ子やったら、簡単にやれると思たんやろ。甘いねん」
ゑ鯉は体重をかけ、
「うあ……あ」
「この子はな、殴る蹴るしかようせぇへん阿呆のあたしなんかより、
「……」
「エェこら、なんとか言うてみぃ。可愛い顔して、デカ
別のゑ鯉が、琴律の丸い尻を下着の上から
「きゃあん」
思わず、色のついたような声を上げてしまった琴律に、ゑ鯉の切れ長の目が更に切れ上がる。
「——おらぁガキぃ! ナメとったら承知せえへんぞボケぇ」
手首を踏みつけていたゑ鯉が、琴律の脇腹を蹴り込む。
「がうっ」
胃液が込み上げ、口から漏れた。あまりの痛みと
「う、がああ」
淑女にあるまじき声で、琴律は苦悶する。しかし力が入らない姿勢で固められ、身動きひとつ取れない。呼吸すらも満足にできない。
琴律の周りに、十数人もの“ふたり”が集まった。
「琴律さん。もう
ひとりのヰ子が膝をついて屈み込み、琴律の顔を覗き込みながら言う。眉がハの字に下がり、本当に琴律を案じているようであった。
一方、ゑ鯉は鋭角に吊り上げた眉で憎々しげに、琴律と傍の刀とを睨みつける。
「……ガキタレが、物騒な
琴律の手から落ちた打刀を、何人目かのゑ鯉が蹴り飛ばそうとした、その瞬間。刀身から黒焔が立ち昇り、蛇のようにゑ鯉の足に絡みついた。
「うおっ」
咄嗟に身を捻ることもできず、ゑ鯉は両脚、続いて胴を、黒い揺らめきに絡め取られてしまう。
「なんやあ!?」
捉え所のない不気味な焔を引き剥がそうと、ゑ鯉は両手でそれを追った。が、焔はますます大きく燃え、ゑ鯉の全身を包み込む。
「わあああ」
「ゑ鯉さん姉さんっ」
何人かのヰ子が胸元から
ヰ子は青ざめた顔で何もできぬまま、ゑ鯉と琴律とを交互に見遣る。
「
「……なんや、あれ」
己の分身が焔に灼かれるのを茫然と眺めながら、残ったゑ鯉たちは、琴律を遠巻きにしたままでいる。
それを隙と見て、琴律は素早く起き上がり、手から離れた刀に駆け寄って拾い上げた。
「あっ! お前——」
素早く踏み込み、最寄りにいたゑ鯉の着物を引っ掴むと、琴律は無言で膝蹴りを繰り出した。長い脚から繰り出された一撃は
続いてもう一人、ゑ鯉の髪を掴んだ琴律は、右手の刀の柄頭で相手の脳天をぶん殴り、昏倒させた。
残ったゑ鯉たちは慌てて琴律の周囲に集まり、取り囲んでくる。その様子を目にした琴律は、左手で掴んだままだったゑ鯉の首筋に刃を当てた。
「……」
「このっ——ど腐れガキがあ! こないなとこで人殺ししてみい! しばき倒して、
「琴律さんっ、もうおよしやす……」
唾を飛ばして吼えるゑ鯉と青褪めるヰ子とを睨みながら、琴律は低い声で、
「——離れなさい。道を開けなさい」と命ずる。
「いちびんなやボケッ」
幾人かのゑ鯉が一斉に踏み出した瞬間、琴律は右手で握りしめていた黒い刀を逆手に持ち直して、ざく、ざく——とゑ鯉の髪を根元から刈った。
手の中の束に琴律が息をふっと吹きかけると、髪はねっとりとした黒い
琴律は焔の中で一歩踏み出し、倒れたゑ鯉に近付く。
「せっかく、美人さんでしたのに……勿体無い」
気を失っている間に艶やかな長髪をベリーショートにされてしまったゑ鯉の着物を、琴律は引っ張り上げるようにして脱がせる。
左手に搔き抱いたゑ鯉の立派に張った乳房を、行きがけの駄賃とばかりに揉みしだいて遊んだ後、琴律はゑ鯉の首根っこを鷲掴んで、焔の中へ突っ込んだ。
意識を失っているゑ鯉は声もなく焼かれ、髪と皮膚の焦げる臭気をあげ始める。
「こっ、こっ、このガキ……いったい何してくれてんねん……何の冗談や!
「琴律さん! 何ですのんこれっ? こないな
「……」
どす黒い焔の外からヰ子らが悲痛な叫びを上げるのを聞きながら、琴律は刀をぶら下げて、のっそりと立ち上がる。
黒き焔を透かしてその奥に見えた少女が、ヰ子からは
「う、
ヰ子が琴律に負けじと、幾枚もの
鳥たちは琴律の髪やら顔やらを目掛けて、
「いややわ、なんでぇ!?
纏わりつく一羽一羽を素手で掴んで捻り殺しながら、琴律はゆっくり歩いてヰ子の方へ近づく。首やら羽やらを
「琴律さん、すんまへん! ほんまにすんまへんっ! ゑ鯉さん姉さんっ……
ヰ子はもはや泣き声である。
「そんなん要らんわ。手ェ出すなやヰ子」
ヰ子に迫る琴律の前に、ひとりのゑ鯉が立ちはだかった。
「ようやってくれたわ。けどな、お前みたいな悪ガキひとりをしばかれへんようでは、根之國の受付嬢やなんてやってられへんねん」
それは受付嬢どころか、闘士か狩人——或いは、もはや猛獣を思わせる顔つきであった。切れ長の美しい目をぎらりと光らせ、闘志というよりも敵意を全身から
琴律は素早く周囲に視線を走らせ、幾人にも分身していたはずのゑ鯉が消失していることを確認する。
「……貴女お一人ですか」
「おう。もう、猪口才な小細工無しや。お前もその
返事も待たず、ゑ鯉は琴律に駆け寄り、刀を握った左手を蹴りつけた。
刀は手から離れ、琴律の後方へと落ちる。
続いてゑ鯉は身を翻し、琴律の片足を踏みつけ、
「おおらぁ! どやぁガキぃ!」
「ぐぅ……!」
琴律は一瞬仰け反ったが、素早くゑ鯉の胴体へ組み付き、大きく口を開けて、
身も世もなく絶叫をあげたゑ鯉のエプロンを引っ張り、琴律はその下に着ている着物に手を突っ込んだ。
「ちょっ、何してんねんお前! 遊んでんのかっ」
たまらず離れようとしたゑ鯉の手を、琴律は握って離さない。
焦って琴律を蹴っ飛ばしてやろうとしたゑ鯉であったが、その足が動かせないことに気付かず、更に焦りを募らせる。
「くそっ、なんやこれっ。離せやおいコラっ」
「ゑ、ゑ鯉さん姉さん……」
ヰ子の震え声で我に帰ったゑ鯉は、己の左足に、真っ黒な打刀が突き立てられているのを見た。
「はあ……?」
刀はゑ鯉の足の甲を深々と貫き、履いている足袋と草履と、地面とをしっかり結んでいた。
血がじくじくと染み出して、白い足袋を赤黒く染める。
「——遊んでいるように見えましたか?」
「おお、お、お前ぇ……」
「そんな暇は無いんです。残念ですが」
琴律は荒い息を整えながら、掴んでいたゑ鯉の手を離した。ゑ鯉は
尻から足に衝撃が走り、ゑ鯉は痛みを堪えきれず絶叫した。
「く、く、く、く、クソぉ」
ゑ鯉は気丈にも、身を起こして
「こんっ、こんな、もんっ……」
しかし黒き凶刃は根が生えたかのようにぴくりとも動かない。
涙を浮かべて痛がるゑ鯉の上半身を琴律は蹴倒し、土が着いて汚れた靴で、
体重をかけると、琴律の靴裏とゑ鯉の顔とが擦れあって、じゃり、と音が立った。
「おンどれァ、くそ、ガキぃ……」
「刀、抜いてほしいですか」
綺麗な口元にうすく微笑を浮かべて、琴律は問うた。
「
「では、エプロンと着物を脱いで、裸を見せてください。襦袢まで、全てです。その上で、私に謝ってください。——あっ、左右の
「ふっざけんなクソ!」
「……そうではないでしょう」
琴律は一旦足を上げ、ゑ鯉の顔面を再度踏んだ。体重をかけ、二度、三度と靴の裏を落とす。ゑ鯉が鼻血を噴いた。
美しい年上の女に対して抱く優越感であろう、琴律は完全に加虐の快美に酔っていた。
琴律はしゃがみ込んで、土と血と涙で汚れたゑ鯉の顔を掴むと、無理やりその口を開かせた。
「おっ、ご……!」
「謝れないのなら、私の唾を吞んでください」
ゑ鯉の口の上で、琴律は舌を突き出す。
「——え、え、ええ加減にしよし!」
たまらず、ヰ子が声を上げた。
「琴律さんっ、ゑ鯉さん姉さんいじめんの、よしとくれやすっ。
それは相変わらず震えた声であったが、琴律は舌をちっと鳴らして、そちらに目を向けた。
「……ヰ子さんに免じて、乱暴はもうやめてあげましょう」
しゃがんだ姿勢のまま、琴律は掴んだゑ鯉の顔を己に近付けた。そして、土の付いたままのゑ鯉の顔を両手で挟み込むと、出し抜けにその唇を吸った。
ヰ子も、当のゑ鯉も、思わず我を失い、目を見開いたままで硬直する。
半開きの口の中へ舌を捻じ込み、双方の唾液を混じり合わせ、舌同士を
琴律はたっぷり時間をかけ、気の済むまでと云わんばかりに、年上の美女の口腔内および唾液の味を楽しんだ。
やがて大きく鼻息を漏らし、糸を引かせながら口を離す。
「——はあっ!?」
思わず間の抜けた声を発して口を拭ったゑ鯉の足から、琴律は刀を抜いた。血が噴き出し、ゑ鯉は苦悶の呻きをあげて転げ回る。
「時間を取ってしまいました。先を急ぎます」
ゑ鯉の着物の袂で刀の血を拭い、琴律は歩き出す。立ち尽くすヰ子の目の前を無言で通るが、万策尽きたらしきヰ子は、エプロンを掴んで唇を噛み締め、目に涙を浮かべて琴律の顔を見ているばかりである。
鞘を拾い上げて刀を納め、大門をくぐって、琴律は駆け出した。
「クソぉ待てコラあーっ! ガキい! ぶっ割いてしばき倒したるァーッ!!」
蒼い空の下には、ゑ鯉の怒号がいつまでも響いた。
*
さらさらと流れる水音が、耳に心地良かった。
青い空の
空子は一度深呼吸をしてから、肩先を飛ぶ阿吽に声をかけた。
「ねえ。ここって、まだ根の国?」
「左様でございます」
「ほぼぎりぎりと云ったところではございますが」
「まさに
「幼くして死んだ
「いわゆる
「
阿吽の案内により根之國を縦に走り抜け、とうとう賽河原に辿り着いた空子が真っ先に抱いたのは、「静かできれい」という印象であった。
ここで琴律は、何を仕出かそうというのか。
空子は友人が凶行に及ぶ姿を想像すると、恐ろしくて堪らなかった。
琴律がどんな夢を見たのかは分からない。本人も語らない。しかし、大きな刀を持った人間がすることといえば、そう多くはないはずである。
「ねえ、ここにコトちゃん来てるんだよね?」
「左様でございますね」
「此処は根之國の中でも殊更に広いエリアでございまして」
「琴律様お一人を探し出すのは大変根気の要る事かと存じます」
「ええ……じゃあここを探し回らなきゃってことぉ?」
うんざりした顔で、空子は再び走り出した。
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