第12話「葬列」

 ある、暗い晩である。この晩は星もなく、翌日から雨天になるという予報も出ていた。

 天美空子あまみそらこは薄手のシャツとショートパンツとを着た格好で、深夜の散歩をしていた。

 空子は登校日以来、ほぼ昼夜逆転に近い夏休みを送っていた。いつ出るともしれぬ尸澱シオルに備えて昼間眠っておくという名目があるにせよ、中学生らしい健康的な生活であるとは、お世辞にも言い難かった。

 宗清寺の騒動からしばらく経っていたが、あれから阿吽による呼び付けもなく、エトピリカとしての研修も滞っていた。張り合いこそ無かったが、人が襲われるよりは良いと、空子は思っていた。

 霊珠を出してもらうことで変身自体はできるらしかったが、実際に戦う相手がいなければなんの練習もできない。それならば筋トレでもしていた方がましだ、とは友人・夏海景なつみけいの弁であった。

 昼寝と大食のおかげで、夜になると元気が余り、空子は両親が寝静まるのを見計らってはもない散歩に出かけた。

 決して、先の一件——猿や狐に襲われ、蓬莱ほうらい姉妹に救ってもらったことを忘れたわけではなかったが、今の空子にとって、自宅でじっとしているのは何よりつまらないことであると思えた。

 ある意味で思春期の少女らしい、“か弱く頼りない自分”に酔っている状態とも云えた。

 小柄な女子中学生が真夜中に独り、夏場とはいえ薄着で、携帯電話も持たずに外を歩く。何の目的もなく、何の意味もない。

 これまで、誰とも出会でくわすことはなかったが、万が一危険があっても自分独りでは対処できない。その事を分かっていながら、わざと何の対策もせずに夜をふらつく。

 被虐願望ともつかぬ、己の弱さを露呈し確認する行為は、空子の少女性を掘り起こし、胸の奥にあるお姫様願望のようなものと結びついた。自身の弱さ、頼りなさを気持ち良いと感じる。それを自身だけで噛みしめ味わう。空子はそんな倒錯した快楽を、無自覚に味わっているのだった。

 一時間ほどふらふらと歩いた後、空子は自宅のある区画へと続く一本道へ差し掛かった。

 深夜の住宅街は静まり返っている。

 自分ひとりの足音と、時折どこからか聞こえてくる犬の吠え声が耳につき、空子に寂しさを自覚させた。

 角を曲がって、これまでよりも少し幅のある通りへ出た時。少し先に、ゆらゆらと揺れるが見えた。

 街灯も家々のあかりも、星の光も無い中を、揺れる灯は空子の方へ向かって距離を縮めてくる。

 それが近づいてくるにつれ、ざり、ざり、という足音も聴こえてきた。ゆっくりゆっくりと空子に迫ってくる、それは、大勢の大人が歩く音であった。

 煙草の火よりは大きいが、淡く、どこかおぼろげな灯。それは、提灯ちょうちん燈火ともしびであると分かった。和紙に包まれた蝋燭の火が、ぼんやりと柔らかな光を放っていた。

 この二十一世紀に提灯とは……と空子は驚いたが、更に異様なことには、先頭に提灯を掲げて歩いてくる一団は、みな真っ黒な着物を着込んでいたのだった。

 男女合わせて、二十人ばかりもいるだろうか。道が真っ暗なのと、全員が俯いているのとで、顔は窺い知れなかったが、黒地に白い紋の入った着物——喪服であった——に足袋たび草履ぞうり姿の一団が、なにやら小さな輿こしのようなものを担いで、ぞろぞろと歩いてくる。

 こぉん、と短くかねが鳴らされた。続いて、ぽん、かん、と調子の外れた打楽器が叩かれる。深夜の住宅街を包む闇にみ渡って消えてゆくような、静かな、静かなであった。

 空子はその光景の異様さに、思わず息を呑んだ。道の端へ身を寄せ、通り過ぎるのを待とうと思った。

 提灯を持った者の後には、位牌を掲げ持つ者、笑顔の女性の遺影を掲げ持つ者、白い箱を乗せた輿を担ぐ者、打楽器を持つ者などがずらずらと並んで続く。

 あまりのことに、空子は言葉も出ない。葬列をけた横で、軽く頭を垂れ、瞑目めいもくし、胸の前で両手を合わせて立った。

 かつての空子であれば、真夜中の葬列をただ気味悪く感じ、恐れ、泣くか逃げ出すかしていたに違いなかった。しかしこの一年で、空子は身近に死というものを感じ、学び、知らぬ他人の葬列に合掌し冥福を祈ることができるまでにはなったのである。

 誰ひとり口も聞く者もおらず、ただ大勢の草履の音が、静まり返った住宅街にひたひたと鳴っていた。

 足音と気配で、そろそろ通り過ぎる頃だな、と察した空子は、合掌をやめ、目を開いた。

天美あまみ空子そらこ様のおとむらいでございます——」

 葬列の最後の一人が、口を開き、低い声で抑揚なく告げた。

「!」

 空子は、声も出せず、身じろぎひとつもできず、その場に立ち尽くす。

 首筋とてのひらに、じくじくと厭な汗が噴き出していた。

 ようやく我に帰り、まばたきをし、葬列のき過ぎた方を振り向く。

 そこには、喪服の集団が、立ち止まり、揃って空子を見ていた。

「ひっ……!」

 空子は小さく悲鳴をあげた。

 やはり一人ひとりの顔は見えず、誰なのかは分からなかった。

 夏だというのに、背筋が凍りついた。喉の奥が、ぐぐ、と鳴った。歯の根がぶつかり、がちがちと音を立てた。

 再び、こぉんと鉦が鳴らされた。

「わあああ」

 空子は踵を返すと、弾かれ転げ出すように、家のある方へ駆け出した。

 途中、何度も転びそうになったが、なんとか自宅の前まで辿り着く。

 自宅の門の前には、つい今しがた、弔いの送り火を焚いた跡が残っており、闇の中に白い煙が細く上がっていた。

 家の門をくぐって飛び込むと、玄関の扉には、『忌中』と書かれた紙が貼られていた。

「なん、なん、なんだこれっ」

 荒れる息を整える間も無しに、紙を手で鷲掴わしづかむと、ばりばりと破る。

「こんなもん!」

 丸めて足元に叩きつけると、思い切り踏みつけた。

「お母さあん」

 深夜の無断外出が露顕することなど、今となっては些事であった。空子は家に飛び込んで、履いていた突っかけサンダルを脱ぎ飛ばすと、両親の寝所に踏み込んだ。

 そこには誰もおらず、布団すらも敷かれていなかった。

「お父さあん」

 返事はない。どたどたと廊下を駆け、仏間のふすまを開けると、線香の濃い匂いが鼻を衝いた。

 仏壇の開き戸は開け放たれて、暗い中に線香の火だけがともされている。

 目を凝らすと、仏壇の中に一年間置かれていたはずの大地の写真はなく、代わりに、Vサインを出して微笑んだ空子の写真が、額に入った遺影として立てられていた。

「なんなんだよぉ……」

 空子は半泣きで後ずさる。

 その足が、何かを踏みつけた。厚みのある、柔らかな感触。

 慌てて振り返ると、真っ白な布団に、何者かが横たわっていた。枕の上の頭部には、白い布が掛けられている。

 それは小柄な女で、明るいブラウンに染められた長髪が見えた。

 布団の中で誰が死んでいるのか、見るまでもなかった。

「い——いやーッ!」

 空子は涙とはなを噴き散らして、仏間を出ようとした。が、襖に手がかからない。ただの壁であるかのように襖はぴったりと閉じられ、びくとも動かなかった。

「いやっ、いやっ、いやーっ」

 泣き叫びながら襖をぶん殴り、大穴を開けて、そこから廊下へと飛び出す。

 空子の裸足はだしの足首を、冷たい手が握った。

「ぅおわ」

 がくんと転びそうになり、なんとか振り返って見れば、たった今まで布団で横たわっていた者が起き上がり、空子を逃がすまじと、青白い手を伸ばして足首をがっしりと掴んでいた。

 空子を捕えた者の顔から、白い布がはらりと落ちる。

「ぃぎおあああああ」

 言葉にならぬ絶叫を発し、空子は足首を掴む手を、もう片方の足で蹴った。

 ぼきりと木材が折れるような音を立て、足首を握り締める手首がちぎれて離れた。手首の裂け目から、赤い肉と、白い骨が見えた。

 そのまま空子は、襖をくぐり、廊下を走り抜け、履物も履かずに玄関から飛び出した。

「うっ」

 家の真ん前には、先ほどの葬列の集団が待ち構えていた。

「いやーっ! もう厭だああ」

 空子は恐怖のあまり、その場に立ち尽くす。

 先ほどはよく見ずにやり過ごした遺影は、やはり空子の顔写真であった。

 一団の中から、長い髪をしたひとりの女が、男四人に担がれた小さな輿こしに歩み寄り、その蓋を開けた。中から、白いきぬおおいくるまれた箱が取り出された。女は丁寧な仕草で覆の紐を解き、きりの箱を出す。そして更に、桐箱の蓋を開けると、白い円柱形の陶磁器を手に取った。骨壺こつつぼであった。

 長い髪の女は、震えて動けない空子に近付きながら、手に持った骨壺の蓋を取ると、足元に叩き付けた。焼き物の蓋は簡単に割れ、女はそれを踏んで歩く。

 壺の中に手を突っ込むと、女は白い遺灰いかいを握り、空子の顔にばらばらっとかけた。

「ふあっ……あああ……」

 肺の奥から、力のない声が漏れた。

 空子の鼻に、なにやら嗅いだことのある匂いが蘇る。寂しさとも物悲しさともつかない、体育の授業中にしゃがみ込んだ校庭のような匂い。それが湿り気を帯びた空気に混じって化学変化し、死の匂いとなって、空子に切迫した恐怖心を抱かせた。

「ひいっいいい……」

 空子の顔は、流した涙とよだれと鼻汁、そこに貼りついた骨灰とで醜く汚れ、もはや見る影もない。

 穿いていたショートパンツの裾から腿を伝って、足元に湯気の立つ水たまりができた。

 女は再び壺から骨灰を握って、空子の泣顔に圧し付けた。空子の鼻に口に、目にまで、死人を焼いた骨や、それらが砕けた灰が入り込む。

 空子は嗚咽を漏らし続け、女の手に為されるがままになっていた。震える手足を、自分の意志で動かすことができない。極度のストレスから胃の小間物こまものを戻したくなったが、腹にも喉に力が入らず、嘔吐までは至らなかった。

 焼けて、大部分がざらざらと荒い米粒大こめつぶだいになった骨を、俯いた空子の頭から振りかけてしまうと、女は舌を出し、骨壺の内側をべろりと舐めた。そしておもむろにその壺を、空子の顔に押し当てる。骨が入っていた内側を、空子の鼻と口に被せるようにして、女は無理やりに骨壺を押し付けてきた。壺の硬いふちが前歯に当たり、痛んだ。

「んむぐぅっ……」

 力任せに顔を蹂躙され、空子はそれを手で払い退ける。

 死の恐怖が現実の怒りに転換した。

「この……何してくれてんだっ」

 小便まみれの足で、女の腹を蹴り上げる。不意を衝かれて、女は壺を取り落とす。陶磁器の壺はばらばらに砕け散った。

「馬鹿にすんなぁ!」

 怒りに任せて、空子は葬列の集団に躍りかかる。喪服の男女は何ら抵抗することなく、空子の手足に薙ぎ倒された。先ほど、仏間で掴まれた死人の手首が、空子の裸足の足首から、ぽろりと落ちた。

「あたしは、死んでないっ。生きてるよ! あたしは、大地だいちの分まで、生きるんだから!」

 倒れた者の手から位牌を奪い、自分の顔が写った黒塗りの額に投げ付け、めちゃくちゃに叩き壊す。

「生きてるから、おしっこも漏らす! 鼻水も垂らすんだ! 引っ掛けてやろうか、このお化けめ! 死んでるくせにぃ!」

 自宅前の路面に立ち、ぜいぜいと肩で息をしながら、空子は泣きじゃくった。Tシャツから伸びた生腕で涙を拭い、玄関の方を振り向く。

 荒く鼻息を噴き出し、空子は再び家の中へ踏み込んでゆく。

 玄関と廊下を抜け、仏間へ入ると、そこには何者の姿も無かった。

 布団も敷かれておらず、仏壇の遺影も大地の笑顔の写真に戻っていた。

「……良かった。大ちゃん……!」

 写真に手を合わせると、再度涙を拭った。サンダルを履いて、また玄関から出る。

 玄関先に、先の骨壺の女がひとり、うつぶせに倒れていた。空子が暴れまくってぶっ飛ばした葬列の集団は、もはや影も形も残っていない。

「……」

 伏した女の髪に、ぢろりと青い火が灯った。

「わ」

 火は見る間に燃え広がり、女の首から上を包む。焦げ臭さを撒き散らしながら、長い髪が焼ける。

 動かぬ胴体から首がもげ落ち、ごろりと転がった。

 ついに顔を確かめることのできぬまま、女の首はめらめらと焼けてゆく。湿度の高い夏の夜の中を、髪と肉の燃える厭なにおいが漂う。

「……」

 空子は黙って怖さと臭さに耐え、ひたすらにその様子を見た。

 涙も鼻汁も、腕で拭った。弾んでいた息が戻り、先程よりは落ち着いた頭になってきた。

 やがて胴体を残して、首は真っ黒にすすけた炭の塊になってしまった。青い炎も消えて、黒い煙の筋が一本立ち昇っていた。

 空子は片足を上げ、サンダルを履いた足を、黒い塊の上へ踏み降ろした。

 ざくりという音を立てて、女の首だった塊は崩れて割れた。中はまだ赤く焼け残っており、芯のようなものがぶすぶすと燻っていた。

 空子は再度足を上げ、四度、五度と踏みつけて、炭の塊をすっかり崩してしまう。足が黒く煤けて汚れたが、意に介さない。

 残った胴体と、傍らに砕けて散った陶磁器の破片を見つめ、空子は大きく息を吐き出す。

 不意に、頭上から女の声がした。

「——き世じゃ」

 はっとして、空子は振り向く。自分の家の屋根の上に、誰かの立ったシルエットが浮かんでいる。

き世じゃ。あら憂き世じゃ」

 半袖の上着にスカートを履いた、小柄な女の影。風もないのに、長い髪が揺らめいている。

おのとむらいをおそれたかや。ほほ。小娘が、泣いて暴れるしかなりを持たぬと見えるわ。憂き世の見納めとしては、いきな景色であったろう。ほほほほ」

 聞き覚えのある声音であった。

「——聖亞せいあ、先輩!?」

 目を凝らして見れば、それはほんの先日、空子とぶつかり舌針を浴びせてきた、河津かわつ聖亞せいあの姿であった。聖亞は夜の闇の中、学校指定のセーラー服を纏い、ピンク色の髪をツインテールに結って、空子の家の屋根に立っていた。

 空子は屋根を見上げたまま、驚きで口が塞がらない。

「先輩、なん、なんで——」

「ほう。うぬは此の娘を知っておったかや。此れは面白い」

 聖亞は屋根瓦を蹴って宙に身を躍らせると、空子の目の前に降り立った。

 一般的な女子中学生が無事に着地できる高さではないはずであるが、聖亞はルーズソックスにローファーを履いた脚で、何の躊躇いもなく飛び降りた。彼女の足元のアスファルトは靴底の型通りに一センチ沈み、周りに放射状のひびが入った。

「んなっ——」

 空子は思わず絶句する。何もかもが信じられず、混乱する。動悸が再び乱れ始める。

 己の顔を空子の顔に近づけて、聖亞がにちゃあ・・・・と笑った。可愛らしく造作の整ったはずの顔だが、先日見た聖亞の表情ではない。それどころか、まともな人間の表情ではない、と空子は思った。

 空子は勇気を捻り出し、聖亞の肩をつかんで揺さぶる。

「聖亞、先輩……何っすかこれ……何やってんすかっ」

「ほほ。察しが悪いな。れは最早、うぬの見知ったる娘ではないぞ」

 聖亞は肩の手を跳ね除けると、そのまま手を伸ばして、空子の髪をつかんだ。

「痛っ」

 先日つかまれたよりも更に強い力で、聖亞は空子の髪を握り締める。本気で毛を引きちぎろうとしている、容赦の無い握力。

痛痛痛いたいたいた! 痛いって! やめて、離してよぉ!」

 空子は先輩の腕を叩いて、振り解こうとする。が、その手はびくともしない。もはや、少女の力などではなかった。

 べろりと舌舐めずりをして、聖亞は空子の顔に、ふうっと息をかけた。

「わっ」

 甘ったるい、人工的な匂いがした。似た薫りを、雑貨屋のアロマのコーナーで嗅いだことがあったかも知れない。或いは、煙草の薫りだろうか——と、空子の脳裏に記憶が閃く。そういえば、聖亞は喫煙の習慣がある、という噂も耳にしたことがあった。

「くっ、そっ……やめてよ、先輩……!」

 呻く空子の視界の端で、赤い閃光が走った。

 横から飛んできた光弾に頬を打たれ、聖亞は横薙ぎに吹っ飛ぶ。

 手が離れ、空子も一緒になって地面に転げた。

「クウコさんーッ!」

 叫び声と共に、琴律が矢のように飛んできて、聖亞を更に蹴飛ばした。

「わあっ、コトちゃんっ!?」

「おーい! ごめんごめん! 遅くなっちゃったね!」

「怪我してねえか、クウコっ」

 続いて萵苣、景、蕃茄が駆け寄ってくる。四人ともが、銘々のエトピリカの装束に身を包んでいた。

「み、み、みんなあ」

 空子は身を起こし、仲間の姿に目を潤ませる。阿吽の二人も上空から舞い降りてきた。

 飛び蹴りを喰らわせただけでは飽き足らず、肌の露出の多い衣装を纏った琴律は、倒れた聖亞の前髪をつかんで上半身を引き起こし、その眉間に膝小僧を叩き込んだ。

「人を傷つけるのは性に合いませんが、あなただけは、例外——例外です!」

 琴律の瞳は潤み、頰は紅潮し、息は弾んでいた。

「わ」

 空子は乱暴を見兼ね、駆け寄って琴律の背にしがみ付く。

 さすがに琴律が力を加減したものか、聖亞の顔から血が出たりはしていなかった。しかし琴律は、握った前髪から手を離さぬまま、聖亞の上に馬乗りになる。

「ふん。淫売は淫売同士、肉体の相性がよいものと見えます」

 吐き捨てるように呟くと、聖亞の後頭部を地面に叩きつける。そのまま五回、六回と振り下ろすと、片手で握っていた前髪がちぎれて、琴律の指に絡みついた。

「ちょっと、コトちゃん! 先輩、死んじゃうよっ!?」

「——変身してください、クウコさん」

「へっ」

此奴こやつは——」

 言いかけた琴律の喉に、聖亞の手が伸びて喰い込んだ。

「ぐゥ……」

 琴律は聖亞を睨みつけたまま、顔を歪めて呻く。

「せっ先輩もやめてっ、なんでこんなことすんのっ」

「クウコちゃん、退いて!」

 萵苣が掌から火球を撃ち出す。

 それに気付いた聖亞は、喉輪を締め上げていた琴律の下腹部を膝で蹴り上げ、喉を掴んだまま琴律の大柄な体躯を片手で振るった。

「うぁあああああ——」

 琴律の呻き声が爆音に掻き消される。聖亞は琴律の身体を盾として、炎を防いだのだった。

 立ち込める煙が晴れると、装束の背中が大きく破れ、ぐったりと項垂うなだれた琴律の姿が見えた。その奥で、聖亞が琴律の首を締めたまま、いやらしい笑いを浮かべて寝転がっている。

「うわわわ! コトリちゃん! ごめーんっ!」

 萵苣が飛び上がらんばかりに慌てて叫ぶ。

 聖亞が琴律を地面に投げ捨てた。琴律は悲鳴もあげない。

「コっ、コトちゃーんつ」

「コトっ!」

 空子たちは琴律に駆け寄ろうとしたが、その前に聖亞が立ちはだかった。

「く……!」

 景が唇を噛みしめ、拳を握る。

浮世うきよじゃ——ひひっ」

 聖亞はゆらりと首を揺すり、顔に垂れていた長いピンク髪を後ろへ流す。口の端が切れて、一筋の血が流れている。その血を舌で舐め取ると、聖亞は地面に唾を吐いた。

「——うぬらのそのなりが、エトピリカか」

「へっ!?」

 空子が素っ頓狂な声をあげる。

「せっ先輩、エトピリカ知ってるの?」

「クウコ、早く変身しろっ」

 スキニーなボディスーツを着込んだ景が、空子を隠すように踏み出て、怒鳴った。

此奴こいつは、河津聖亞かわつせいあじゃない。橋姫はしひめだ!」

「……なんで……」

 信じたくない言葉を聞いて、空子は硬直する。

 漂う雰囲気、発する言葉、そして煙草の匂い。それらを感じ取ったからにはその女・・・を思い出さない筈などなかったが、空子はそれを認めるわけにはいかなかった。

 現実に目の前に立っているのは、セーラー服に身を包んだ、学校の上級生である。その上級生が、仇敵の名で呼ばれている。

 それは、自分たちの手で滅したはずの怨敵の名。どんなに恨んでも恨み足りない、弟のかたきの名。

 しかしその敵は、朝日の光に身を焼かれ、空子の目の前で灰となり、崩れ去ったではないか。何故、今になってそのような者の名が出てくるのだ。

「——こいつが。橋姫。大地くんの。仇」

 蕃茄がぼそりと呟いた。横に立つ姉の手を、きゅっと握る。

「エトピリカ。骨嵬あいぬ花魁鳥おいらんどりの名であるとな。うぬら、みなして神威かむいでも拝んでおるのか? ほほ」

「……」

 空子は気絶し倒れ伏した琴律の背中と、上級生の可愛らしい顔とを交互に見遣り、ぐびりと固唾かたづを呑み込む。夏だというのに、首筋が冷える。

「その花魁鳥が、妾を打ち据えようと抜かしおるかや。皮肉なことじゃわ」

 聖亞——の姿をした橋姫は、ひひ、ひひ、という不快な笑い声を喉から絞り出しながら、倒れ伏した琴律に近付く。

「話には、えらく頑丈なものじゃと聞くが——くびの骨を折られてもなおまむしの如く暴れるか?」

 そう言いながら、橋姫は琴律の髪をつかんでもう一度地面から引き上げた。小柄な少女の身体で、自分よりも大きな琴律を軽々と片手で持ち上げる。

 橋姫の言葉通り、頚椎の骨を折られたのであろうか——首をがくりと垂れた琴律は、腕もぶらんと下げたままで動かない。完全に人事不省に陥っていた。

「——あ、ッさんっ! 変身させてっ! たまちょうだいっ」

 空子は全身を震わせ、上空に浮かぶ男に向かって叫んだ。空子の声に呼応し、宙から阿形が飛来する。

「こちらを」

 差し出された空子の手の上に、白い輝きを放つ霊珠が落とされる。

「よっし、いくぞ! 待ってて、コトちゃんっ」

 空子は受け取った霊珠を握り締めた。

 ——聖亞が操られて、自分や琴律たちに酷いことをしている。そう考えるから、迷うのだ。こいつはもう、河津聖亞かわつせいあの顔をしているだけの、ただのお化けだ。仮に聖亞の身体を傷つけてしまったとしても、親友には代えられないのだ。——空子はそう思い込むことにした。

「やれッ、クウコ!」

「お願い! クウコちゃん!」

「——ふん。小娘が、痴れたことを。うぬが此奴らの血肉を癒すこと、妾が知らぬ筈も在るまいが」

 橋姫は嘲笑うように言い放ち、持ち上げた琴律の身柄から手を離した。

 空子が霊珠にかぶり付くよりも速く、橋姫は空中の琴律に回し蹴りを叩き込む。

 小さく可愛らしい女子中学生の身体から繰り出されたとは信じ難いほど、その蹴りは強く、速かった。

 蹴られた琴律はまっすぐに飛んで空子にち当たった。

 空子は短く叫んで仰け反り、琴律と共に地に転がった。小さな手から霊珠が転げ落ちる。

「コトっ! クウコっ!」

 飛びかかろうとした景を横薙ぎに跳ね飛ばし、橋姫は蓬莱姉妹の方へ走り寄った。

 景は翻筋斗もんどりを打って倒れ伏してしまう。

「このー!」

 萵苣が両掌を重ね合わせ、拳大の炎球を連続で射出する。

「ずだるららららららあ!」

 女子中学生の姿をした鬼女は、マシンガンの如く乱射される炎の弾を走りながらけ、萵苣との距離を秒速で詰めた。

 萵苣の鼻先に、聖亞の顔が突き出される。

「わっ!」

 己の発する炎の明滅に目が眩み、敵の接近を測りかねた萵苣は、水落みぞおちに重い拳の一撃を喰らうこととなった。

「ぉぶ!」

 前屈して呻く萵苣の髪を掴んで引き起こし、橋姫はもう二度、もう三度と萵苣の腹部を殴る。

「げうっ! げうっ!」

 やがて髪から手を離し、橋姫は聖亞の両の拳を使って、萵苣の腹に何十発もの連続殴打を浴びせる。小柄な少女の拳とは思えぬほどに打撃は重く、萵苣は物も言えずに胃液を撒き散らすしかない。

「姉さま」

 やられている姉の頭上を飛び越し、蕃茄が日傘を構えて橋姫に躍りかかった。

 橋姫はとどめとばかりに萵苣の顔面を殴り飛ばすと、反動をつけて空中の蕃茄を抱え、アスファルトの地面に叩きつけた。

「……く」

 慌てて身を起こした蕃茄は橋姫に掴みかかられ、互いの両手をがっしりと組み合う格好で、押し相撲のような体勢になる。萵苣を殴りまくった聖亞の拳骨げんこつには、血が滲んでいた。

 互いの力が拮抗し、二人の美少女は顔と両腕とをぐぐぐ・・・と突き合わせてしばらく睨み合った。

 蕃茄が口を開いた。

「あなた。その肉体からだはどうしたの」

「ほほほ。此れは、妾が拾うたもの」

「拾った。どういう意味」

「なに、此れな娘には妾の髪挿かんざしを呉れて遣り、代わりに肉を借りておるだけのこと」

「肉を。食べたの。この子の肉を」

「ふん。其れこそ、うぬらにはかかわりの無い話じゃわ」

 橋姫は聖亞の顔を鬼面の如く引き攣らせ、蕃茄と組み合っていた指をいきなり後方へ引いた。

「あっ」

 蕃茄は地面へ引き倒され、腹這いの格好になる。

 聖亞の姿の橋姫は、セーラー服姿で蕃茄の背に馬乗りになった。足元に落ちていた蕃茄の日傘を拾い上げ、面白そうに少し眺める。

 橋姫は、閉じられた傘を蕃茄の喉下へ当てがうと、ひひ、という笑いとともに思い切り締め上げた。声も出せずに蕃茄はもがく。

「如何なエトピリカとて、息が詰まっては堪るまいが。このまま往生せい。ほほほほ」

 ぎりぎりと締まる喉に喰い込む日傘はやがて、乱暴すぎる力に耐えきれず、派手な音を立てて真っ二つに折れてしまった。

 蕃茄の口から、容貌の清潔さにそぐわぬ呼吸音が漏れた。

 ちっ、と舌を鳴らし、可愛らしい少女の姿をした霊女が、折れた傘で蕃茄の横っ面を殴りつける。傘の骨が当たって蕃茄の頬は破れ、血が流れ出た。

「小娘。うぬの肉も、妾がらうてやろうよ」

 聖亞の可愛らしい口が大きく開き、中から尖った犬歯と、艶かしく濡れた大舌が現れる。

 瞬間、景が飛び出し、上級生の姿の敵に殴りかかった。

「死ねやああ」

「ちっくしょー!」

 ようやく起き上がった萵苣も両掌を合わせ、火球を発生させる。

 景の拳が顔面に届く寸前、橋姫は聖亞の掌でそれを横からはたき、力を逸らしてなした。

 大きくふらついた景は、転ぶ寸前で踏み留まって、振り向きざまに握りしめた拳を振り回す。

 橋姫は大振りの裏拳を最小動作でかわしながら、聖亞の可愛らしい顔でいやらしく嗤った。

「ほほほ。何じゃ其れは。蠅がまるぞ」

 景は聖亞の顔を狙って、硬く握った拳を幾度も突き出す。

「ふざけっやがってっ……手前てめえこのっ、どぐさあまがっ……くたばれっ、死に損ないっ」

 息を切らしながらも、景は汚い言葉を発し続ける。口からは唾が、髪からは多量の汗が飛び散る。夏らしく爽やかに刈られた短髪は振り乱されてぐしゃぐしゃになる。それでも、景は聖亞の顔にパンチを叩き込みたくて仕方がない。

 対する聖亞は、なんと目を閉じたままで、ひらりひらりと景の拳を紙一重でけている。にたにたといやらしい笑みを口元に浮かべながら、必死な景を完全に無礼なめきっていた。

「——夏海ちゃん! けてよー!」

 萵苣が両手の間に生成した巨大な火球を、頭上に掲げて叫んだ。深夜の街角が、真っ赤に染まる。

「姉さま。これはやり過ぎ」

 ようやく起き上がった蕃茄が慌てて萵苣の背後に回り、背にしがみ付いて支えた。

「くそがあ」

 萵苣の声が聞こえているのかいないのか、一声吼えて、景はクリンチの要領で聖亞の胴体に飛び付いた。そのまま相撲の吊り出しのように足を踏ん張って、聖亞の身体を萵苣のいる方へ向けて突き出す。

「此の……狗共いぬどもぐぁああ」

 聖亞の声で、橋姫が呻く。

「ねいちゃん、やれーっ!」

「かぁんこぉらあー!」

 萵苣が奇声とともに、直径二メートルもあろうかという火球をぶん投げた。蕃茄が背を支えていたが、射出の勢いで二人は後方へ押しやられる。

 小さな太陽の如き明るさと熱さに、景は思わず目を閉じた。

 その瞬間、橋姫は景の手首をつかみ、万力のような力で締めあげた。骨が砕けるほどの痛みに、景の腕から力が抜ける。橋姫は、小さな聖亞の身体で景の両腕を取って軽々と振り回し、火球にぶつけた。

 深夜の住宅街に、爆音が響いた。

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