第7話「春愁」

 襖を開けた奥は、部屋の中とは思えぬ広さの、蜂蜜色の空間であった。薄明るく、桜の花弁はなびらが幾枚も舞っていた。静かな中に、水のせせらぎと、鶯の声とが聴こえた。

「これは……」

 琴律は呆気あっけに取られ、部屋の入口に立ち尽くす。

 辺りには、なにやらいい匂いも漂っていた。

 襖を開いた横手には小さな川が潺湲せんかんと流され、これまた小さな朱塗りの太鼓橋が架かっている。橋の傍には、石灯籠が佇んでいた。人工を凝らし、可愛らしく雅趣を感じさせる設計であった。

「春……?」

 思考が停止したかのようにただ呟く琴律。その顔に向かって、正面からいきなり赤いものが飛んできた。

「きゃっ」

 反射的に、飛んできたものを蹴り上げる。赤く丸いものが、とぉーんと宙に跳ね上がった。琴律が見上げると、それは真っ赤なボールのように見えた。

「——なになに?」

「なんだよ。別に変なとこじゃなくね?」

 空子たちも襖から顔を覗かせ、辺りに漂う香りを嗅ぎながら、景色を見渡す。

「うん! 私らが知ってるのと変わりないよ!」

「そうなんだ……なんで、閉められてたんだろ」

 空子は空気の匂いを嗅ぎながら、辺りを見回す。

「はー、いい匂い。ハニトーみたい」

「そこまでこんがり香ばしくもねえよ」

 景に苦笑されながら空子が前方へ目をやると、ヰ子が携帯電話を持って話しながら、ぺこぺこと頭を下げている。

「——へえ。へえ。すんまへん。目貼りはうちが、後で。へえ。おふだは持ってます。へえ。あっ、ゑさん姉さんは、今ちょっと。いいえぇ。ほんまに、すんまへんどした。へえ」

 携帯電話を切り、エプロンのポケットにしまって、ヰ子は溜息をつく。

 その様子を見て、空子はヰ子の目の前へ回り込んで問いかけた。

「ねえ、お姉さん。ここって、なんで開けられないようにしてたんっすか?」

「ええっとお……すんまへん……」

 空子に問われたヰ子は、決まり悪そうに口ごもる。空子もそれ以上、ヰ子を問い詰めることはしなかった。

「……どうしたの。龍泉寺さん」

 蕃茄が、上空を見上げたままの琴律を見咎め、声をかけた。

まりが——」

「鞠?」

 空子たちも、一緒になって宙を仰ぐ。

 蹴り上げられた真っ赤な球が、琴律の目の前へまっすぐ落下して、再びとーんと弾んだ。見れば、それは確かに、綺麗な糸で刺繍を施された手鞠であった。

 真っ赤な手鞠はとーんとーんと弾みながら、まるで意志を持つかのように、小川のほうへ向かってゆく。

 五人がそれを目で追うと、川に掛かった橋の袂に、いつの間にやら着物姿の娘が立っていた。

「あっ」

「誰!?」

 遠目で顔はよく見えないが、空子よりも幾分小柄で、長い黒髪を首の後ろで結っている。

 手鞠は一際高くぽぉーんと跳ね上がり、娘の手の中へ落ちて収まった。

「——おい、あんな奴、さっき居たか!?」

「わかんない! 居なかったんじゃないかな!」

「あの子が、襖を叩いたんかな?」

「鞠をぶつけたとも考えられますね」

 娘はくるりと後ろを向き、両手で手鞠を地面へ落として、とんとんとついた。弾んだ鞠を受け止めて、持ったまま橋を渡り、春霞の中へ消えて行く。

 五人はそれを見守るばかりで、身動みじろぎ一つもできなかった。

「——あの、皆さん。どうかお外へ」

 焦った様子で、ヰ子が五人の周りをうろうろする。

「襖の目貼りは、うちがまた、しときますよって……」

「ヰ子さん。今のは。何」

 蕃茄がヰ子に一歩近づいて、目を覗き込んだ。

「……」

「おう、答えられんのかよ。知らんって訳じゃなさそうだけどなァ」

 景もヰ子を睨みつける。

「か、堪忍しとくれやす……うち言いましたやろ、勝手に開けないでって」

 ヰ子は半べそをかいている。

「……とりあえず、出よっか」

 空子がヰ子の背中を押して、入ってきた方へ連れ出そうとする。

「ヰ子ちゃんも、お仕事だからさ! あんまり言っちゃ、可哀想だよ!」

 萵苣も景の手を取って、部屋を出ようと歩き出した。

 次の瞬間、景の後頭部に、叩きつけられるように何かがぶつかった。

「どわっ」

 景はそのまま地面に倒れ伏し、傍には赤い手鞠が転がる。

「ケイちゃんっ」

夏海なつみちゃん!」

「なな、何ともあらしまへんかっ」

 ヰ子も慌てて景に駆け寄る。

「くっそォ」

 身を起こし、

「——何なんだコラァーッ! 無礼なめた真似しくさって! 出て来い、あたしが文字通り御陀仏おだぶつにしたるァー!」

 手鞠を拾って、小川へ叩き込む。

「おらぁ、ふっざけんなよガキが! こそこそ隠れやがって、手前てめえの垂れた下痢糞ゲリグソ啜って死に腐れやぁ」

 怒りに任せて、橋の袂の石灯籠をぶん殴る。苔生した灯籠は上半分が倒壊し、砕けて地面に散らばるやら、川に落ちるやらの惨状を呈した。

 肩で息をする景の前の川面に、赤い鞠がぷかりと浮かび上がる。

 見る間に鞠は膨れ上がり、景の身体よりも遥かに大きくなった。と、次の瞬間、川から飛び出した鞠が岸にどちゃり・・・・と落下して、真ん中からばっくりと裂けた。

 三日月型に裂けた部分からお歯黒はぐろを塗った歯と真っ赤な舌が覗き、鞠は老婆のような甲高い声で笑い始めた。耳障りな哄笑とともに大量の唾が飛び、汚らしく周囲に撒き散らされる。

 あまりのことに、景はこめかみに血管を浮かべて、言葉にならぬ声で吠える。

 景の背後から、琴律たちの声が聞こえた。

「な、な、何なんですか、これは」

「わー、怖いっ」

「ひどい。これはもう。妖怪変化」

「ううー、時々こないないけず・・・がありますんで、来客の方の目ぇに触れへんようにしてたんどっせ……」

 駆け寄ってきた皆を尻目に、景はますます怒号の勢いを強める。

「……ッだコラ! 人無礼なめんのも大概にしろやあ! それで脅かしてるつもりかぃ!」

 景は巨大化した鞠に手を伸ばすと、口の部分を両手で引っ張った。丈夫に縫われた絢爛な絹糸はエトピリカの手でもなかなか引き裂けず、業を煮やした景は、舌打ちと共に再び川に投げ込む。静かな春のせせらぎに、ざぶりと高い波が立つ。

 景はくるりと振り向き、

「出るぞ」

 と一言呟いて、大股で歩き出した。

「……」

 空子たちの見守る中、鞠の残骸はゆっくりと川底に沈んでゆく。

「あ、あのっ、何ともあらしまへんか?」

 ヰ子が駆け寄って景に並び、おどおどと声を掛ける。

「……おう。怪我はしてねえよ」

 他の四人も、二人に続いて歩き出す。

「堪忍えぇ。こないなトラブルがあってはあきまへんよって、入ってほしくあらしまへんでしたんえ」

「あんたが謝らんでもいいだろ。勝手に入ったのは、あたしらなんだ」

 憮然とした面持おももちで、景は歩き続ける。

「——ねえっ、あの子」

 突然、空子が大声をあげた。

 ヰ子と景が同時に振り向くと、先程の川から、着物姿の娘が上半身を岸に乗り上げて倒れている。

「あの子、助けてあげないとっ」

 言うが早いか、空子は川の方へと駆け戻る。

「クウコちゃーん!」

「天美さん。待って」

 蓬莱姉妹が慌てて踵を返し、空子に着いて走る。

「っち、あの莫迦ばかが……放っとけよ、あんなもんっ」

 苦々しく呟きながら、景も琴律の手を引いて走った。

 空子と萵苣が手を引き、蕃茄が胴体を持ち上げる格好で、着物姿の娘は岸に揚げられた。春のエリアと云うだけあって水温は高かったが、引き揚げられた娘はぐったりとして身動きしない。

 琴律がしゃがみ込み、顔を覆うようにへばり付いた黒髪を退かす。

「——!」

 誰もが息を呑んだ。

 娘の白い顔には、顔が無かった・・・・・・

「わー! 大変!」

「これは。どうしたこと」

 背格好からすると十歳にも満たぬであろう娘の顔面部は、案山子かかしの如く目鼻口が無く、つるりとしたのっぺら坊であった。

「何これ、どういうこと!?」

「知るか! だから放っとけっったんだ!」

 娘の額を触ったままの琴律の手に、長い黒髪が絡みつき、ぎりりと絞めた。

「きゃあっ」

 そのままぐいと引っ張られ、琴律は態勢を崩して、腹這いの格好で引き倒される。

「コトちゃんっ」

「コトっ」

「ししけばぶー!」

 萵苣が掌から炎球を生成し、娘に向かって力任せに投げつける。

 娘の黒髪は炎を避けるようにして琴律から離れると、顔の無い娘の身体を逆立ちのように持ち上げた。髪は蜘蛛くも章魚たこの脚の如く分かれて、うねうねと蠢く。

 四人は慌てて跳び退ずさる。

「く……」

 痛みを堪えながら、琴律もそれ・・を睨みつける。

「わわ、皆さーん! お逃げやっしゃっ」

 ヰ子が息を切らして駆け寄ってきた。

退いてろ、ネエちゃんっ」

 吠えると同時に、景がジャンプして、逆さ吊りの娘を殴った。

 手応えは感じたものの、景は拳の感触に違和感を覚えて舌を出す。

「うえっ。何だ此奴こいつ、気持ちわりいぃ」

 景の拳は、白く濁った粘液が付着し、糸を引いていた。

「えぇいっ」

 ようやく起き上がった琴律も、娘の延髄部分に飛び蹴りを喰らわす。が、やはり景と同様に、べたべたとした粘液に塗れることとなった。

「ああっ全く、気色の悪い。何なんでしょう、此奴は」

「どねるけばぶー!」

 奇声を発し、萵苣が掌から炎球を撃ち出す。炎は黒髪に命中して弾け、霧散した。

「あーん! なんで燃えないの!」

「姉さま。私が」

 大きく飛び上がった蕃茄がどこからか黒い日傘を取り出し、横薙ぎにうち振るった。

 ばしんという大きな音とともに、娘のつるりと白い顔面に傘が叩き込まれる。

「効いていない。姉さま。一緒に」

 続けざまに、蕃茄は傘で娘をばしばしと打擲した。

 顔の無い娘はそれをダメージとも感じていない様子で、髪の毛を触手の如く操りながら傘の攻撃を捌いてしまう。

 蕃茄を援護する形で、萵苣が周囲を走りながら何発もの炎球を射出する。しかしそれらは全て、髪の束で弾かれてしまう。

 やがて蕃茄は、切先に見立てた石突いしづきを、とどめとばかりに娘の喉に突き刺した。血の一滴さえ流させることなく、傘の先端は娘の白い喉の中へ沈む。

 着地した蕃茄は、毛髪でできた脚の一束に、抱きつくような格好でしがみついた。そのまま力を込めるが、腕や脚の隙間から髪がすり抜け、蕃茄の身体に巻きついてくる。

「まずい」

 蕃茄は髪に軽々と持ち上げられ、振り回され、投げ飛ばされた。地に叩き付けられる寸前で、蕃茄は猫のように身体を回転させ、着地する。

 娘の腕が喉から傘を引き抜き、蕃茄を目掛けて投げつけた。

「りゃ!」

 萵苣が振り向きざまに炎を放つ。槍のように蕃茄を刺してしまう寸前で、傘は火球に跳ね飛ばされ、地面に突き立った。

「ありがとう。姉さま」

「うん!」

「こ、こりゃあ、強い——っていうか、攻撃が効かないのかァ」

 空子はあたふたと足踏みし、どうしようかと動きあぐねる。

 娘の身体を逆さに掲げたまま、髪で地を踏みしめ、それ《・・》は五人に迫ってくる。

「お逃げやっしゃーっ」

 再びヰ子が叫んだ。

「効かないんなら仕方ない! 逃げよう!」

 豪奢なスカートを翻し、萵苣が空子の手を引っ張って走り出した。

「わわわわ」

 空子は引かれるまま、萵苣に着いて走る。

「くっそ! むかつくなああ!」

 景も唾を吐き捨て、踵を返して走った。

 蕃茄は琴律とヰ子を脇に抱えて、姉に着いてゆく。

 髪の化物は、どたどたと脚を踏み鳴らして、六人の女たちを追う。

「……おい、まだだったか!?」

 さすがにもう出口だろう、という距離を走ったところで、景がヰ子を振り向いた。

 入ってきた襖が見当たらない。

「来た道を戻っているはずですよね!?」

 琴律も抱えられたまま、ヰ子に問う。

「えっ、えっ、出口、あらしまへんかー!?」

 ヰ子は慌てて辺りを見回す。

 遥か前方に、ぽつんと建造物が見えた。

「おお!? あれかよ!」

「入口、あんな位置じゃなかったよね!」

 化物に惑わされているのか。入ってきたはずの口は見当たらず、およそ考えられない距離に、塀と門が見えた。

「——仕方ないわあっ」

 ヰ子はエプロンのポケットを探り、なにやら紙切れを取り出した。

「蕃茄さん。投げてもらえまへんか、これを後ろにーっ」

「何。これ」

「三枚のおふだどす。ええから、はようーっ」

 手渡された長方形の和紙——護符のようなものを、蕃茄は走りながら、化物に叩きつけるようにして投げた。

 護符はみるみる大入道の如き人型をとり、化物に立ち塞がる。かみかみの取っ組み合いが始まった。

 力がぶつかり合い、髪の化物は僅かに押し戻される。

「今のうちにーっ」

 ヰ子の叫びを待たず、少女たちは全力で門を目指して走る。

 そのうち、化物は紙の人型を破り、再び後を追ってきた。気休め程度の足止めにはなったが、残念ながら、そこまで大きな時間稼ぎにはならない。

「蕃茄さん、これもぉ」

 ヰ子に言われるがまま、蕃茄が二枚目の護符を投げる。

 護符は化物の手前の地面に落ち、今度は何やら板のようなものをにょきにょきと生やした。

 それは六基の、筆で文字の書かれた卒塔婆そとばであった。

 空子はそれを目にして、お墓で見たことあるな、と思う。

 化物はそこへ追いつくと、髪の束を振るって、板塔婆いたとうばを割り始めた。

 化物に掲げられた娘の頭がばっくりと割れ、黄色味がかった歯と真っ赤な舌が覗く。よだれらしき液汁が、真下の地面へぼとぼとと落ちる。

「ぎょわわわ。何あれグロいっ」

「あんなものの餌になるところだったんですね、私たち」

きたならしい。おぞましい」

 自分たちを追ってくる妖怪変化の醜怪さを目の当たりにし、少女たちは怖気をふるう。

 折れて散らばった木の板を髪で器用に拾い集め、化物は己の一部である娘の頭に生じた口に運ぶ。口は卒塔婆の破片をばきばきと咀嚼し、旨そうに呑み込んでゆく。あたかも、逃げる女たちの存在を忘れたかのような所作であった。

「何してんだ、あれ」

 走りながら、景が訝しむ。

「へえ。あれを、うちらやて思い込んでるん違います?」

 ヰ子は蕃茄の腕の中、どこか悪戯っぽい口調で返答する。

「それか、おいしい筍か何か……よう知らしまへんけど」

「へー。やるなあ、ネエちゃん」

「いいえぇ。うちやのうて、お札の力なんどっせ」

 少女たちは走り続けて、やがて門の手前まで辿り着いた。

 木造りの門は閉ざされておらず、中には古い土蔵と、柄杓の置かれた手水鉢ちょうずばち、そして古い手水場ちょうずばが見えた。

「……お邪魔しマッス」

 空子たちが門をくぐると、途端に門戸が音を立てて閉ざされた。

「しまった、罠かっ!?」

 景が舌打ちをする。

「仕方ありません。このまま、成り行きに任せましょう」

 蕃茄に下ろしてもらいながら、琴律が息をいた。

「あのっ、皆さん、お怪我やあらしまへんか」

 ヰ子が五人の顔を見渡しながら、泣きそうな顔で声を掛ける。

「怪我とかはないんだけどさ。ここって、いろいろと大丈夫なんすか?」

 空子が息を弾ませながら問う。

「へ、へえ。この根之國ねのくにいうんは、あらゆる死人しびとつどわはる処なんどす。その分いろんな方が来はるもんですんで、垣内かいと——いわゆる塀なんかで囲われた敷地やとか、あと建物の中なんかは、基本的に“結界けっかい”になってますんどす。尸澱シオルやら、ああいった妖怪変化ばけもんの入れる処ではあれしまへん。それやから、ここでなにか不思議なことが起こったとしましても、罠やらではあれしまへんのどす」

 ヰ子がようやく笑顔を見せた。

「——まあ少なくとも、今は護符おふだが足止めをしてくれてます」

「あれって、効果あんのか? なんか一発目に強そうなの出てきたけど、わりとすぐにやられてた気がするなァ」

 景が苦笑しながらヰ子をからかう横で、空子が大仰に鼻をつまんでみせる。

「てーかさー。ケイちゃんとコトちゃん、ベッタベタなんすけど」

 空子に指摘され、逃げるのに夢中で己の体に纏わりつく腥気せいきに気を払う余裕など無かった景と琴律は、互いの身体に残留する粘液の悪臭に、顔をしかめた。

「やべえな、これ」

「お風呂に入りたいですね……」

「この水で洗うしかあれへんのと違います? 他に水場もおへんし。よう知らしまへんけど」

 ヰ子は竹筒から水の流れる古い手水鉢を指して、二人に促す。

「えー。便所の手洗いだろ、これって」

「まあ、仕方ないのでしょうね。失礼します」

 二人は渋々装束をはだけ、細く流れる水で体を洗い始めた。

「ここって。お手洗いなの」

「そうみたいだね! 蕃茄、して来てもいいよ!」

「それじゃ。そうする」

 蕃茄は、萵苣に促されるまま、古い手水場に入ってゆく。

「あ、次あたしね」

 空子もぴょんぴょん跳ねながら、予約を入れた。


 板張りの個室は簡素ながら、空子が予想していたよりも衛生的な空間であった。格子窓からの外光により室内は明るく、臭気もほぼ無く、落とし紙を入れた木箱までも設えてあった。

 景、琴律らと揃いのエトピリカの装束は、ミニ丈の着物であったが、これには、小用を足しやすいという、下世話ながら意外な効能があった。

 用を足し終えて立ち上がり、下着を上げようとしたところで、空子は鳥の啼声なきごえを耳にした。テッペンカケタカ——と聴こえたその声は、子規ほととぎすのものであった。

 窓の格子越しに覗いた空は、春霞に曇っていた。


 蕃茄・空子に続き萵苣が手水を使い終えた頃、景と琴律も体を洗い終えていた。

「ここは——どなたか、個人の御邸宅おたくなのでしょうか」

 半裸の琴律が、静かな屋敷と庭を見渡しながら呟いた。

「いえ。どなたさんかのおいえなどというものは、根之國にはらしまへん。そもそも根之國ゆうんは、あくまでも通過点言いますか待機所みたいな場所でして、住まうようなとこではありまへんのどす。うちも、このおいえがどういうとこやら、見当がつかへんのどすわ」

 ヰ子は土蔵を見上げながら、不思議そうな顔をする。

「貴女が御存知ないのなら、お手上げですね」

 琴律が苦笑する。

 庭に建つ二階建ての土蔵を見上げていた空子は、明かり取りの小窓に、赤い色のものがちらりと翻るのを見た。

「ねえ、お姉さん」

「へえ」

「中に、誰か居るよ」

「えええっ?」

「ほらっ」

 空子は土蔵の下に駆け寄って、ヰ子を手招きした。

「そんなはず、おへんけど——」

 ヰ子は空子の示すまま、格子になった小窓を見上げる。

「なんかね、赤い服の人がいるっぽい」

「赤色のお召し物——どすか?」

 小窓からは何も見えなかったのか、土蔵の出入り口の重い引き戸をそろりと開けて、ヰ子が中を覗き見た。そして、

「あらぁー」

 と感極まったような声を上げた。

「いややゎこれって空子さん、これって……」

 そのままヰ子は絶句する。

「なんだよ。どうした」

「やはり何者かがいたのですか?」

 景や琴律もエトピリカの装束を着込みながら、ヰ子の背を見る。

「お姉さん、どうしたの!? ねえねえっ」

 気配に気付いたはいいが、肝心の正体を見ていない空子は、焦りながらヰ子のエプロンを引っ張る。

 土蔵の中から目を離せぬ様子で、ヰ子がゆっくりと引き戸を開ける。

 空子たちの目に飛び込んできたのは、真紅の花びら——ではなく、金魚の群れであった。

 空間を水中の代わりとし、大きな尻鰭しりびれを揺らしながら、夥しい数の金魚たちが昼間の土蔵の中を泳ぎ回っていた・・・・・・・

 少女たちはしばらく口も聞けずに立ち尽くしていたが、やがて景が、かすれた声を出した。

「なんだよこれ……気がどうかしたんか、あたし」

「でも。綺麗」

 相変わらず感情の読み取りにくい顔をしながら、蕃茄がぼそりと呟いた。

 ヰ子と五人のエトピリカたちは、そう広くはない土蔵の中に足を踏み入れ、不思議な光景を眺め渡す。

 無数の金魚が舞っていることを除けば、蔵の中には行李こうりやら古い書物やらが置かれており、なんら特別な様子は感じられなかった。

「……クウコさん。先ほど貴女が見たのは、これだったのですか」

 琴律が空子の肩に手を置きながら、震えたような声を出した。

「えー、分かんない。ひらっと見えただけだからにゃー。……でも、多分そうだと思う」

 目の前の有様があまりに現実離れしているせいで、空子は身体が浮くような錯覚を感じながら口を開く。

 琉金りゅうきん蘭鋳らんちゅう赤出目金あかでめきん——。いずれも紅色の金魚たちは開け放たれた扉から逃げ出す様子もなく、まるで土蔵全体が水槽であるかのように、ゆったりと泳ぎ続けている。

「へー! 可愛いね! この子ら、ここで暮らしてるのかな!」

 萵苣がそっと手を伸ばし、一匹の金魚の鼻づらを指で突つく。

 瞬間、金魚はひらり・・・と身を翻し、一枚の紙に姿を変えた。

「わ!」

 萵苣の発した甲高い声に、五人はそちらへ振り返る。

「ど、どうしはったん、萵苣さん?」

「なにか。あったの」

 誰もが見つめる中、萵苣は大きな目で激しくまばたきしながら、足元に落ちた紙を拾い上げる。

 和紙の上に色鮮やかに刷り込まれたそれは、男女の情交をえがいた浮世版画——いわゆる春画まくらえであった。

「うわわわ、何これ。エッチなことしてるっ」

「おまっお前っ、なに出してんだよっ」

「まあ……大きな」

「きゃー! きゃー! いやー!」

「破廉恥」

「あの。これ、何処どこでどないしはったんどす」

 中学生たちが銘々に頬を染め、指の間からそれを見つめる中、ヰ子が萵苣に問う。

「えっ! あたしが出したんじゃないよ! あの! ええっと! 金魚をこうして、触ったらね!」

 こういったもの・・・・・・・に慣れていない様子の萵苣は、あたふたと言葉を返す。茹蛸ゆでだこのように染まった顔の横を泳ぐ出目金を指で触ると、やはりこれも同じように絵の刷られた紙へと、ふっと姿が変わった。

「ええっ、どういうこと!?」

 空子はその奇術めいた所作に、目を疑った。

 さらに周囲の金魚を何匹か突つくと、それらも次々と絵に変わる。

「どういう仕掛けなのぉ!?」

「みな、遊女ゆうじょ物ばかりなのですね。尼僧と老僧ですとか、異種間のシチュエーションですとか、変り種もあれば、面白いのですけど」

 手に取った卑猥画を順々に眺めながら、琴律が呟く。

 日本髪に結った女たちが絢爛な着物を乱しながら、目元も涼しい優男たちに、たっぷりとした肉体を提供している。男女の劣情を煽る猥褻いやらしさもありながら、色彩の鮮やかさも手伝って、版画の一枚一枚が万華鏡のごとき鮮烈さを漲らせている。

 琴律は綯い交ぜになったエロスと美に翻弄され、くらくらと脳が揺さぶられるような感覚を得ていた。

「そもそも。どうして。こういう絵・・・・・ばかりなの」

「おいおいおい……すると此奴こいつら、みんなこの、エロ絵なんじゃねえだろうな!?」

 目の遣り場に困った様子で、景が金魚の舞う蔵の天井を仰いだ。

「——あっ」

 しばらく絵を眺めていた琴律が、何かに気付いた様子で声を出した。皆の視線を受け、慌てて紙をまとめる。

「あ、いえ。気のせいかとは思いますけれど……」

「気付かはりましたか」

 ヰ子が琴律の傍に立ち、静かに声をかけた。

「……ヰ子さん。これ、ご存知だったんですか」

「いいえぇ。存じあげてたわけではおへん。ただ、見た途端すぐに、分かってしまいましたんどす」

「……」

 そのまま黙ってしまった二人を、空子が見咎めて口を開く。

「なに、どうしたん? この、エ、エッチな絵が、どうかした?」

「いえぇ。何にもおへんえ。ただ、いやらしなぁって——」

 繕おうとするヰ子の向こうから、背の高い琴律が空子を見つめ、低い声を出した。

「この、錦絵にしきええがかれている方——橋姫はしひめなんです」

「へっ」

 見当違いな場所で、思ってもいなかった名前を耳にし、空子は変な声を出してしまう。

「何だと?」

 景も反応する。

「この、絵の女がか?」

 琴律から紙束を引ったくり、景は卑猥画を見た。恥ずかしいという感情は消え失せ、一枚ずつ食い入るように、鮮やかな錦絵の中で房事に耽る女の顔を確認する。

 現代の漫画やイラストのように、細かくリアルではない。しかし、人の特徴を捉え強調した筆遣いにより、それが誰を描いたものなのか、厭でも分かる絵であった。

「——こ、琴律さんっ」

「隠しても、仕方ないですから」

「……」

 景は眉をひそめたまま、その辺りにふわふわと浮いていた金魚に手を伸ばし、掴む。金魚はもがいたのち、和紙に変わる。

 それもやはり春画であったが、内容を見た景は、

「畜生がッ!」

 と叫んで、手にしていた紙束を土間へ叩きつけた。

 景の声にびくりとした空子は、慌ててその紙を確認しようと、景の足元へ手を伸ばす。が、それらは空子の手をすり抜けてひらり・・・と舞い上がり、再び金魚へと姿を変えた。

 金魚たちは逃げるように、ひらひらひらと階上へ向かって泳いでゆく。

「……なんでここに、あの女の絵がある?」

 景の声は少しかすれていた。振り乱して目にかかったショートヘアを手でかき上げながら、土蔵の二階で泳ぐ金魚の群れをめつける。

 ヰ子は静かに目を伏せた。景の鋭い目つきを恐れたような仕草であった。

「お人の“おもい”いうんは、色んな形でのこるもんなんどす。尸澱をやっつけはった後の勾玉まがたま、ご存知ですやろ。皆さんがエトピリカに変身しはるときの霊珠れいじゅは、勾玉を参考にして、根之國で開発されたもの。その他にもお道具はいろいろありますんえ。この金魚きんととさんも、そういうもんのひとつなんですやろなあ」

「では——これは、あの女の残留思念——なんでしょうか」

 琴律が寂しげな顔で問う。

「へえ……ただあくまでも、うちの当て推量どすえ」

 空子はしばらく俯いていたが、二階に溜まったようにして泳ぐ大群の金魚を見上げ、口を開いた。

「人を——子供を死なせたやつのおもいが、こんな綺麗なふうになるの」

 誰もが黙って、空子を見た。

 やがて、何も言わずに、一人ずつ蔵の外に出た。

 景が黙ったまま、空子の頭に手を置いた。景の口の立たないのを知っている空子は、それが景なりの感情表現であることをさとり、黙ってその手に自分の手を重ねて握った。

「——皆さん。せっかくやって来はったところ、えらいすんまへんけど、これ、帰りはった方が宜しおすえ。うち、何やら嫌な感じ、受けてますんどす」

 最後に蔵から出てきたヰ子が五人の顔をじっと見ながら、ようやく口を開いた。

「そうだね! 私らが見学できるのは、どうせ根之國くらいだし! 天津國あまつくにとか行けないから、つまんないよ!」

 ヰ子の顔をちらちら見ながら、空子たちに向かって萵苣も言った。

「すんまへん。うち、少ぉし失礼しますえ」

 すっと頭を下げ、ヰ子が手水場の方へ向かった。

 こっち・・・の人も、おトイレ行くんだなあ——などと、空子は変なことに感心する。

「ねえ! ここから出たら、どうしよっか! さっきの滝の水、また飲ませてもらおうか!」

「あっ、いいね! めっちゃ美味しかったもん!」

 萵苣の提案に、空子はぱっと顔を輝かせた。

「私はまた、水を浴びたいです」

 琴律も両手を合わせて同意する。

「あ? お前またストリップすんのか? ついさっき体洗っただろが」

「それとこれとは、また別です」

 景が蕃茄と並んで立つ琴律とを見比べ、大仰に顔を顰めてみせる。

「……まさかこいつ、この妹ちゃんにハダカ見せたいだけなんじゃねえだろうな……」


 五人から離れてヰ子は手水場へ向かった。木造りの引き戸の前へ立つと、着物の懐に手を入れる。

 取り出した三枚目のお札を便所の板扉に貼りつけると、口の中でなにやらをごにょごにょと唱え、手印を結んで、さっさっとくうを切る。

 そしてそそくさと五人の元へ戻り、

「さあさあ皆さん、ここを出ましょ。早いとこ、出口を探しますえ」と声をかけた。


 結局、六人が入ってきた入口はまるで見当外れの箇所に見つかった。見知らぬ国で彷徨い、誰もが無口になるほど疲弊し、せっかく見つかった帰路に駆け寄ることもせず、重い足を引きずりながら座敷の襖をくぐる。

 往時と同様にお役所的な手続きを経て、五人はヰ子と別れ、坂道を歩いて、阿密哩多アムリタの滝へと帰り来た。

 へとへとにくたびれていたはずの中学生達は、汗だくの全身に冷たい水を浴び、喉を鳴らして飲んだことで、すっかり元気を取り戻した。

「ねーケイちゃん! いよいよお腹減ったねー!」

「あたし、なんか猛烈に肉食いてえわ。今夜この面子メンツで焼肉行っていいか、帰ったら親に訊こうぜ」

「私は、とにかく横になりたいです……」

「私も眠い! おやすみ!」

「姉さま。ここで眠らないで」

 五人は銘々に欲求を口にしあい、銘々の日常へと帰って行った。

 根之國、『春』の部屋。

 暖かな陽気に包まれ、花の咲き誇る屋敷は無人であったが、鳥の歌声が響き渡り、まるで掛軸の絵のような雅趣を湛えていた。

 屋敷を囲んだ塀に、巨大な毛髪の塊がぶつかり、静けさを打ち破った。

 歌唱を楽しんでいた鳥たちは逃げ、美しく均衡のとれていた景趣は調和を乱された。

 それは、六人の女たちを襲った、髪の化物であった。

 足留めをしていたはずの卒塔婆を食い切ったのであろうか、化物は逆さ吊りのような体勢の“娘”の頭頂部に開いた大口から涎を垂らしていた。

 門から入るという知能など持ち合わせぬ様子で、化物は髪の束を振るって塀を破壊すると、無理やり敷地内に押し入った。屋敷や蔵には目もくれず、庭の水場に向かってどたどたと歩み寄る。

 六人が使用した手水場の前までやってくると、化物は“娘”を高々と掲げた。人型のそれは、頭頂部にあたる部分から歯を剥き出す。老婆の如き耳障りな笑い声が、辺りに轟き渡った。

「まだまだ。まだまだ」

 不意に、便所の扉の内部から可愛らしい声が響いた。

 それが聞こえてか否か、化物は一瞬動きを止めた。が、再び動き出し、便所の柱に、がぶりとかぶり付いた。

 またも、それらが旨そうな何かに見えてでもいるのであろうか。妖怪変化の浅ましさか、化物は髪の束を腕のように柱に巻き付けて、便所そのものを壊し食らおうとする。

「まだまだ。まだまだ」

 次に声が響いた瞬間、ヰ子が護符を貼り付けた便所の板戸が勢いよく開き、“娘”部分に食らい付いた・・・・・・

 板造りの便所は、札の貼られた板戸を大口のように開き、内部に“娘”を引きずり込んだ。

 食おうとしていたものに反対に食われそうになった化物は、髪の毛を蠢かせ、身を引き剥がそうとする。

 しかし抵抗むなしく、髪の化物はその巨体をすっかり便所に飲み込まれ、板戸を閉められ閉じ込められてしまった。

 やがて内部で暴れる音もしなくなり、辺りはひっそりとした静けさに包まれた。

 時が経って鳥が戻り、水が流れ始めれば、屋敷は再び春らしい音を取り戻すのであろう。

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