08 凶刃

 騎士だ――という叫びが、僧兵らの間を駆け抜けた。

 エルレールははっとして振り返り、彼女の愛しい騎士の姿を目にとめた。

「クインダン!」

「現れたか」

 ヨアティアは唇を歪めた。

「臆するな。所詮、若造がふたりだ。それも、弱っている。取り囲め、殺ってしまえ」

 長髪の男は王女の腕を掴むと、十四、五名ほどの僧兵にそう叫んだ。命令に従おうと、兵たちはばらばらと剣を抜いたが――探るように互いを見ていた。

 それとも、戸惑うように、と言うべきであろうか。

「何をしている」

 苛ついた声でヨアティアが言った。

「早くしろ」

「ですが、ヨアティア様」

 ひとりの僧兵が神殿長の息子を呼んだ。

「シリンディンの……騎士です」

「そんなことは判っている。一対一であれば敵わないとしても、こちらには人数もいるし、言ったように向こうは弱って」

「シリンドルの守り手だ」

「剣を向けるなんて」

 その僧兵たちは、シリンドルに生まれ育った者たちだった。雇われではない、生粋の。

「ええい、何をいまさら」

 ヨアティアは目を吊り上げた。

「いまさらそのようなことを言うのか。ラウディール、ハルディールに刃を向けてきながら」

「ですがそれは」

「ラウディール陛下が……」

 僧兵たちの逡巡。彼らとヨアティアとの温度差に気づいたエルレールは顔を上げた。そこですうっと息を吸う。

「聞きなさい。お前たちは、間違いを犯している。ヨアフォードは王の殺人者に過ぎず、その命令に神の声はない」

 シリンドルの王女は声を張り、彼女の国の民たちに話した。

「お前たちが仕えるのは〈峠〉の神よ、ヨアフォードじゃない」

「ですが」

「神殿長様は、神の代弁者で……」

「祭祀に関する王陛下の決定には、苦汁をなめる思いもあった……」

「――王の決定が気に入らなければ暗殺をするの? そして、正当な継承者を差し置き、王弟の妾腹を王に戴く? それは誰の陰謀なの」

 エルレールは彼らを見回すと、深く息を吸ってこう叫んだ。

「神がヨアフォードにそのようなこと指示したと、本当に思っているの!?」

「いい加減に黙れ」

 ヨアティアはエルレールの首を掴んだ。

「殿下から手を放せ!」

 抜き身の剣を手にクインダンは叫ぶと、かまわず突進した。戸惑い気味の僧兵たちは、誰からともなく、騎士に道を開ける形となった。

「な、何をしている、役立たずどもが!」

 声を裏返らせて、ヨアティアは叫んだ。

「早くそいつを殺れ。殺った者には褒美を出すぞ」

 その言葉にも僧兵たちは、やはり目を見交わすばかりだった。積極的にクインダンに打ちかかろうとする者は、いない。

「クソ、これを見ろ、ヘズオート。王女のきれいな顔に傷を」

 つけたくなければ止まれだの、言うことを聞けだの、ヨアティアが何を言おうとしたのであっても、それは発せられなかった。

 エルレールが空いている手で神殿長の一族とは思えない品のない男の顔を引っかくのと、クインダンと彼らの間にひとりの僧兵もいなくなったのは、ほぼ同時だった。

 うろたえてヨアティアはエルレールを放し、王女は意趣返しにと平手打ちを一発お見舞いした。

「エルレール様!」

「クインダン」

 想い合うふたりはどちらからともなく抱き合った。

「あ……」

「も、申し訳ありません、殿下」

 立場をよく知る彼らは、生憎と言うのか、はっとなるのも早かった。衝動的な抱擁はものの二トーアで終わりを告げた。

「この、逃がさんぞ」

 ヨアティアは剣を抜いた。

「騎士を殺せんなら王女を守れ、屑どもが。木偶でくのように立ち尽くすだけで神の意志に適うと思うのか!」

 それは僧兵らに新たなる困惑を引き起こした。

 神と王家と神殿は常に同じ方角を向いているはずなのに、それはあの日から曖昧になった。

 彼らがヨアフォードに従ったのは、死んだ王ラウディールが神と神殿をないがしろにしていることに悔しさを覚えていたからだ。ヨアフォードこそ、彼らには王だった。

 もしヨアフォードがここにいて、騎士はもはや神の騎士に非ず、神にあだなす裏切り者だと言えば、僧兵たちは躊躇いつつも騎士たちに剣を向けただろう。

 だがヨアティアでは、そうはいかない。僧兵らもまたルー=フィンと同じだった。神殿長の息子だから命令を聞くが、本心から仕えたいと思う者は稀だったのだ。ましてや、王女に乱暴を働こうとした男。

 ヨアティアでは、シリンドルの民に、シリンディンの騎士を――王女を守ろうとするシリンドルの守り手〈シリンディンの騎士〉を殺させることは、できなかった。

 僧兵が信じていた「神と神殿が同じ方向を向く間、王家だけが横を向いた」という前提は、急速に危うくなった。「王女と騎士」と「神殿長の息子」では、前者の方がぐんと重かったのだ。

「褒美を目当てに、騎士に刃は向けられない」

 ひとりが剣を下ろした。

「だが……王女殿下をお守りすることはわれわれの」

「いや待て。殿下をお守りすることこそ、騎士の役割では」

 僧兵たちの間に、困惑が駆けめぐった。

「役立たず、役立たずめが」

 ヨアティアはかっとなって叫んだ。

「いいか、お前たちは全員、神に逆らった罰で処刑だ! 毒の洗礼を楽しみにしているといい」

「そんな」

「神に逆らう気持ちなど」

 幾人かが焦り、剣を持ち上げた。

 いまや僧兵たちは二分にぶんしていた。騎士につくというのでこそないが、シリンドルの守り手と刃を戦わすなどできぬと完全に剣を下ろした者と、ヨアティアはやはりヨアフォードの息子であり、その言葉に従って王女を取り戻すことは誤りではないと感じる者。しかし後者も、せいぜい剣を上げただけであり、クインダンに一太刀浴びせようという様子すら見せなかった。

 ヨアティアが雇い僧兵を連れてきていれば、話は違っていたろう。彼らは騎士たちに何の感慨も抱かないからだ。だが王女の護送には、シリンドル国民たる兵士が適切だった。ヨアティアにとって皮肉なことに、それは裏目に出た。

「ええい」

 役立たずども、とヨアティアは繰り返した。

「かまわん! 俺がやる」

 男は、怒りに任せて突き進んだ。

「ヘズオート、死ね!」

 ヨアティアは、左腕に王女を抱く騎士を狙って剣を繰り出した。クインダンは反射的にエルレールを凶器から遠ざけ、彼女を抱きとめたために下ろしていた武器を素早く上げた。

 カァン、と音がした。

「レヴシー、殿下を!」

 少女をかばったままでは、一撃目を受け止めるのがせいぜいだ。そう判断した年上の騎士は、エルレールを信頼できる男に託すべく、後輩を呼んだ。

 彼が視界の端でレヴシーの位置を確認しようとした、その瞬間だった。

 ひと際強い一撃が、クインダンの細剣を打った。

 剣はそのとき、握力の弱まっていたクインダン・ヘズオートの手から逃れるように、飛び跳ねた。

「しまっ……」

「クインダン!」

 エルレールの悲鳴と、ヨアティアの笑い声が重なった。

「もらった。死ね!」

 ヨアティアは繰り返すと剣を振り上げ、力任せにそれを騎士の右肩に打ち下ろした。

「クイン!」

「いやあああ、クインダン!」

 赤い滴が――飛び散った。クインダンはよろよろと後退した。

 少しかすった程度の傷とは違う。長さ二十ファイン以上、掌を広げたよりも大きく彼の肩は切り裂かれ、刃も深く肉を断った。驚異的な意志の力で苦痛の叫びをとめようとしたクインダンだが、それでもうめきが洩れるのをとどめることはできなかった。

「クインダン、クインダン!」

「駄目です、殿下!」

 レヴシーは、クインダンに走り寄ろうとするエルレールをとめるので精一杯だった。

「は、はは! 何が、シリンディンの騎士。見たか! 神の加護など、この男にはない。少し剣を学んだだけの、単なる若造だ」

 ヨアティアは目をぎらつかせた。

「とどめだ」

「やめて! 誰か、助けて! その男をとめて!」

 声を限りにエルレールは叫んだ。レヴシーが彼女自身を止めているいま、それを成せるのは僧兵たちだったが、ヨアティアに剣を向けるという行為も彼らには難しいことだった。

 凶刃が振り上げられる。

 クインダンは激痛に視界を歪むのを感じた。

 痛みは肩口から全身に走り、反撃をしようにも剣がない。

 クインダンは、そのとき、逃げるべきだった。目を血走らせて刃物を振り回す男がたとえ素人でも、こちらが丸腰であれば危険だ。

 本当に素人や、足元も覚束ない酔っ払いであれば、多少の怪我を覚悟で取り押さえることもできるかもしれない。だがヨアティアは、手練れとは言えずとも訓練を受けた剣士であり、クインダンは既に深手を負っている。

 逃げるべきだった。アンエスカの言ったように、引くべきときに引くことは、騎士の名誉を汚さない。

 だがクインダンは、退かなかった。

 彼はしかし、自身の名誉のために戦いを続けようとしたのではない。

 愛しい王女に怖ろしい思いをさせたけだもの。ヨアティア・シリンドレンは、シリンディンの騎士が――クインダン・ヘズオートが成敗する。青年騎士の心に浮かんでいたのは、そのことだった。

 ヨアティアが再び剣を振り上げた。その態勢は隙だらけであり、クインダンが得物を持っていれば、負傷をしていても不埒者の腹を突き刺すことができた。しかし騎士は細剣を持たず、危急の際である故に、短剣の類も身につけていなかった。

 クインダンにできたのは、神の加護を信じ、生まれ持った両手両足を使って、神殿長を名乗る男の息子に飛びかかることだけだった。

(神よ!)

 彼にただ、祈った。

「クイン、無茶だ!」

 レヴシーが悲鳴を上げる。

「やめて、クインダン」

 王女も恐怖に涙声となった。

「いやよ、死なないで!」

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