第3節 変な部活動の現実
扉には一枚のポスターが張られており、そのポスターは『自分の悲しかった経験を皆で共有して、語り合いましょう』という文字と、一枚の写真で構成されていた。写真には車座になって座る人々と、一人立ち上がって話をしている人の姿。そしてその写真に写る人間はどこか外国人じみた顔をしている。
「……外国の写真……だよな」」
龍崎は眉をひそめながらも、ポスターの写真から『自己援助同好会』の活動内容をなんとなく理解していた。自由の国で作られた映画でよく見られる、何かしら問題を抱える人々が自身の体験を話し合い、克服を目指す集まり。日本においては被害者の会という名称が近いかもしれない。
そして涼香も、なんとなしに『自己援助同好会』について理解したのか、「なるほどね。そういう部活なのね」と、何度かポスターを眺め「へえ」とか「ふーん」と呟いていたが、
「じゃあヒュドラくん。お願いね」
と言って龍崎の後ろに回り込み、肩をグイグイと押した。
だが龍崎は足に力を入れ、踏ん張る。
「おい。待て、おかしいだろう。一ノ瀬に用事があるならお前が先に行けよ。俺は一ノ瀬と話したことなんてねぇんだよ」
「奇遇ね。私も
「俺はこの学校のれっきとしたココの生徒なんだよ。捕まるはテメェだ!」
すると突然、ガラリと教室の扉が放たれる。
「何か用かな? 龍崎くん」
龍崎がパッと視線を前に戻すと、そこに立っていたのは一ノ瀬詩織。目を細め、睨むような顔をしている。
(……昨日のことまだ根に持っていやがるのか)
が、龍崎が罪悪感に染まるということは皆無。再び一ノ瀬を生贄にするのだから、毒を食らわば皿までということである。
だから龍崎はパッと顔を明るくして、愛想笑いを浮かべた。
「あ、えーと……あれ? あー……実はこの女が一ノ瀬さんに用事が――」
「どうも! 私、
龍崎の言葉を遮ったのは、猫を被った浮舟涼香であった。愛嬌のある笑みを浮かべ、天真爛漫に喋る。
そんな涼香の態度に騙されてしまったのであろう。一ノ瀬は眉間からシワを消して微笑みを浮かべる。
「ああ、そうなの。私は一ノ瀬って言います。じゃあ入ってよ。ゆっくりお話ししようか」
「ありがとうございます!」
涼香はそのまま『自己援助同好会』の部室へと入っていった。
龍崎は、涼香の豹変ぶりに呆気に取られていたが、
「で、どするの? 龍崎くんも……用事があって来たんでしょ? 入れば」
「……あ、はい。お邪魔します。すいません」
棘のある一ノ瀬の言葉に促される形で教室に足を踏み入れる。そして彼は室内を見渡した。
自己援助同好会の教室は広々としている。教室後方には机が積み上げられ、教室の前方から中腹にかけて椅子が輪を描くようにして置かれていた。
教室内にいる生徒は一ノ瀬含め3人。セミロングの女子生徒と死んだ魚の眼のような男子生徒が椅子に座ってる。
と、そこで涼香が一ノ瀬が座った隣の席に「お邪魔しまーす」と言って腰を下ろし、龍崎は一ノ瀬の真正面の席に腰を下ろした。
席順としては11時の方角に涼香、12時の方角に一ノ瀬、2時の方向に死んだ目をした男子生徒、3時の方向にセミロングの女子生徒、そして6時の方向に龍崎。
すると一ノ瀬が全体を見渡すようにして顔を動かした。
「じゃあさっそく始めましょうか……と言いたいけど、まずは自己紹介が先かな。じゃあまずは……」
と、そこで涼香が「あ、じゃあ私から!」と言って勢いよく立ち上がった。
「私、浮舟涼香って言います! よろしくお願いします! えっと、私の悩みは――」
「あの。浮舟さん、自己紹介だから。まだ言わなくてもいいから」
と、一ノ瀬が涼香の言葉を遮り、クスクスと笑う。
する涼香は「あっ」と声を出してから、
「あはは! 間違えた。違う違う!」
と、笑いながら席に着いた。手櫛で髪をくしくしと撫でている。
他の部員二人も、そんな涼香の言動が面白かったのかクスクスと笑い出し、顔に微笑みを蓄えた。
そんな一連の動きを見て龍崎は顔を引きつらせる。
(なーるほど。あのクソ猫被りには意味あんのか)
と、龍崎は気が付き、呆れた。誰もが騙されるような絶妙な演技力で、養殖物の天然であるにも関わらず、自然発生されたド天然を演じているのだと。つまり人の心に隙間に入り込みやすいようにしているのだと。
(タチがワリィ)
すると今度は涼香に続くようにして、セミロングの女子生徒が立ち上がった。
「じゃあ次は私ね。私、
自己紹介をして席に腰を下ろす
それから今度は死んだ魚の眼をした男子生徒が「じゃあ俺だな」と言ってから立ち上がる。
「俺は
と、言って
「大丈夫だって!だから私があだ名付けてあげたじゃん! ねえ、死んだ魚!」
死んだ魚こと、
その様子を見た龍崎は言葉を失った。あだの由来は眼が死んだ魚のようであるから。それは理解できた。できたのだが、それであだ名が『死んだ魚』とはどういうわけか。
(イジメられてないよね?)
だが死んだ魚は「はは」と笑い、篠崎も「あはは」と笑っている。
と、そこで
「私が
「……は、はぁ。そうですね。知ってますとも。ええ」
龍崎は一ノ瀬の視線から逃れるようにして顔を動かすと、そこで篠崎と視線が合った。
「そうなんだ! 龍崎君って言うんだ! でさ、下の名前は何て言うの?」
自然と教室内の視線が龍崎に集まる。
が、龍崎の身体が固まった。できれば名乗りたくない。だがそこで涼香と顔が合ってしまい「はよ、言え」と意味を含む視線を感じ取った。だから龍崎は嫌々に口を開く。
「えーっと‥‥‥龍崎‥‥‥ひゅ、ひゅ、ひゅどらです。……よろしく」
龍崎が言った瞬間、眼の前の3人の動きがピタリと止まる。一ノ瀬と篠崎と死んだ魚だ。お互いに目配せをして、再び龍崎を見た。
「龍崎、ヒュ・ド・ラ……です」
3人は各々に頷くが、涼香は口角を小刻み動かしていた。
「おっけー! でさぁ! どんな悩みががあってココに来たの? ミクに教えてよ!」
切り出したのは篠崎。ニコニコと笑みを浮かべ、両手を顔の輪郭に沿わし、両肘を両ひざにつくような姿勢で龍崎を見た。
が、龍崎は「えっと……」と言いよどむ。悩みなど、ないのである。だからしばらく黙り込んでしまった。
すると、そこで篠崎がガバっと立ち上がる。
「わかった!それじゃあミクから言ってあげるね!」
つい龍崎の頭の中に、洋画のワンシーンで見た『気持ち良くなれる葉っぱ被害者の会』そんな光景が思い浮かぶ。
篠崎はニッコリと笑ってから、右腕の制服の袖をグッと掴み、スッと息を吸ってから、
「私の悩みはね‥‥‥実は最近までね‥‥‥リスカをしていたの! ほら!」
と言い放ちバッ! と右腕を捲り上げた。
そこにあるのは無数の傷跡。黒紫色をした傷の痕跡。
その瞬間、一ノ瀬は手を口に当て首を振り、死んだ魚は頭を抱えて「oh~」と声を上げた。
そして龍崎は苦笑いを浮かべ、
(そこも真似すんの?)
と、別の意味で頭を抱えそうになっていた。しかし涼香は、一ノ瀬の動きを真似るようにして首を小刻みに振っている。
だが、なおも篠崎の話は続く。
「でもね私‥‥‥この部活で話を聞いてくれる人ができたの。それが死んだ魚と‥‥‥一ノ瀬さん。それから、この部活に来てくれて、辛い経験を話してくれた子とかね。そんな人たちに話を聞いてもらったらね、なんとなく私、このままじゃいけないなって思って。だから最近は一ヵ月に一回で我慢しているの」
その瞬間、一ノ瀬と死んだ魚は拍手を始め、ミクは目元に浮かんだ涙を拭った。
龍崎は周囲につられるようにして拍手をして、
(何も解決してないのでは?)
そう思ったがなにも言わないでいた。しかし涼香は、薄っすらと涙を浮かべている。
と、篠崎が腰を下ろしたタイミングで「じゃあ俺が」と言って死んだ魚が立ち上がる。
「俺の悩みはな‥‥‥龍崎くん。わかるかなぁ。コレだよコレ」
死んだ魚は右手に握った見えないナニかを、左腕に打ち込む。そして口をだらしなく空け、息を大きく漏らし、だらりと椅子に身体を預ける。まるで気持ち良くなれるモノを摂取したかのような動作。
その瞬間、一ノ瀬は首を何度も振り、ミクは肩をすくめる。
龍崎は、
(それは大変ヤバイやつなのでは?)
と思ったが黙っておくことに決めた。しかし涼香は、うんうんと大げさに頷いている。
なおも死んだ魚の話は続く。
「でもこの自己援助同好会に入って‥‥‥篠崎に会って、それから一ノ瀬さんに会った。それで思ったんだ。俺、このままキマリっぱなしの人生はダメだってな。だってそうだろ?いつもハッピーなんてあり得ねえんだ。皆、アンハッピーとハッピーの波に乗って生きている。だから俺、代わりにタブレットで気を紛らわしているんだ」
ポケットから手のひらサイズのケースを取り出し、錠剤のようなものを口に放り込んでから、死んだ魚はブルりと震えた。
その瞬間、一ノ瀬とミクは拍手喝采。2人は涙をこぼす。
だが龍崎としては、
(結局ガンキマリなのでは?)
と思ったが死んだ魚の後ろにいる黒い組織が気がかりで口を閉じた。しかし涼香は大きな拍手を送っている。
と、龍崎が顔を正面に向けると一ノ瀬と目が合った。それから彼は視線を涼香へと移し顔色を窺う。流れでいけば次に悩みを言うのは一ノ瀬、涼香、龍崎の3人のうちの誰か。
すると一ノ瀬は龍崎と涼香を交互に見た。
「さあ、龍崎君と浮舟さん。今度はどっちが話す?」
そう言われて龍崎は顎に手を当てた。
ある意味では目的は同じ。つまり優先するべきは一ノの悩みを聞き出すこと。そして一ノ瀬の所属する部活の活動内容は「人と悩みを共有する部活動」であり、これほどの幸運はない。別段、一ノ瀬の悩みなんぞに全く興味はない。だが、それでも探らなければならない。もし失敗しようものならあの女の魔の手が迫る。
と、そこまで龍崎は考えてから一ノ瀬を見た。
「じゃ‥‥‥じゃあ俺も話すから一ノ瀬さんの悩みも話してくれま――」
「それは嫌。私は今回ただの司会役。だから私は居ないものと考えて」
一ノ瀬は腕を組んで龍崎を睨み付ける。
(…………嘘だろ)
龍崎は半笑いを浮かべた。それでは自分に被害が来るのだと。
「いや……それはフェアじゃないっていうか……。『自己援助同好会』って言うぐらいだし、悩みを話し合うのがこの部活の目的なら、それはやっぱり―――――」
「だから私は司会役。そもそもこの部活は助け合って、労わりを持つことが目的なの。そんな気持ち龍崎君にはないでしょ?」
一ノ瀬は、龍崎の言葉を再び遮り、キッと睨みを利かす。その瞳の奥には青い炎が宿っている。
(この女。根に持ってやがる)
龍崎は視線をずらし「どうしましょ?」という意味を込めて涼香を見た。
すると涼香は小さく肩をすくめ、極わずかに溜息を吐いた。が、次の瞬間、彼女はパッと花が咲くようにして笑顔を造った。
「えー! 一ノ瀬さんの悩み、私にも聞かせてよ。そうしたら私も話しやすいし、お願い!」
涼香は両手を合わせ、一ノ瀬を拝み、それでいて笑みを忘れない。ずうずうしさのない自然なお願い。慣れ慣れしく見えない心からの一言。裏表のない何気ない一言。そのあたりを狙っているのだろう。
すると一ノ瀬は眉間に寄せていたシワを消し、涼香を見た。顔に浮かぶのは、恥ずかしそうな、それでいてまんざらでもないという顔。
と、涼香は責め時だとでも思ったのであろう。
「ね~お願い! 誰にも言わないからさぁ……あっ! あはは! よく考えたら無理か! みんなの前で話すんだし」
そして一ノ瀬は堕ちた。クスクスと笑い、それから「仕方ないね」と言葉を漏らす。
「ま、いいよ、浮舟さんがそれで話しやすいなら。それじゃあ先に私の悩みを話すかな」
と言って涼香を見る一ノ瀬。その眼は出来の悪い、それでいて愛らしい犬でも見るような視線を孕んでいる。
そんな光景に龍崎は呆気にとられつつも、
(……やべぇ奴だな浮舟)
と素直に感心していた。浮舟涼香の取り入り、ご機嫌を取るという才能に。
と、そこでパッと立ち上がる。立ち上がったのは―――――――浮舟涼香だ。
「一ノ瀬さんありがとう! じゃあ私の悩みはね……」
涼香は言葉を区切り、笑みを消して唇を引き結んだ。
が、そこで一ノ瀬は「ん?」と小さく声を出して首を傾ける。
(……なにやってんの浮舟?)
龍崎も涼香の行動に戸惑い、首を傾げる。一ノ瀬に『じゃあ先に私の悩みを話すかな』と言わせておきながら、どうして自分が悩みを話し始めようとしているのかと。『一ノ瀬さんが話してくれたら私も話しやすい』と言っておきながら、なぜ自分から率先して話し始めたのかと。
(……ポンコツなのか? 浮舟?)
と、涼香がゆっくりと口を開く。
「……実はね私、ちょっとだけ抜けているところがあったりして、それが悩みなの。大切な場面でドジったりとか、絶対にミスしちゃいけないところでミスしたりとか、本当に困っていて……」
そんな涼香の話に篠崎と死んだ魚はウンウンと相槌を打ち、一ノ瀬はぎこちない動作で頷く。
そして龍崎は頭を抱えるしかなかった。
(浮舟ぇ……浮舟ぇ……)
だが涼香の話は終わらない。
「でもね! 最近は出来るだけ注意しているの。大丈夫かなーって自分でチェックして! そしたら最近ではあまりなくなって!治ったかもしれない! あれ? これ悩みじゃないかな? あはは!」
涼香は言って軽く頭を下げと、篠崎と死んだ魚は「よく話してくれたね」と言って拍手を送る。
涼香は「ありがとうね!」と言いながら椅子に腰を下ろして、勝ち誇ったような顔を龍崎に送った。送ったのだが、彼女は「ん?」と小さく声を出して首を傾げ、たちまち顔を歪めた。自分が何をしたのかようやく理解したのであろう。
対して龍崎は涼香を小馬鹿にする視線を送る。
(このポンコツが)
と、そこで一ノ瀬が「さて」と言って龍崎を見た。
「浮舟さんも悩みを言ったから……次は龍崎くん。はい、どうぞ」
龍崎は軽く涼香を睨み、同時になにを話すべきかと頭を働かせる。
せっかくのチャンスは浮舟が自らの手で作り出し、浮舟が自らの手で葬ってしまった。いや、そもそもの原因。一ノ瀬が司会役に徹するのは、昨日の事件が関係してのだろう。であればこれは、誤解を解くほかない。
龍崎は姿勢を正し椅子に座り直した。
(話せば、わかってくれるかもしれない)
だがそれは許しを請うためではなく、あくまで涼香からの要求を達成させるためである。つまりは一ノ瀬の怒りを消し、どうにかにかして彼女の悩みを吐き出させる足掛かりとしたかったのだ。
龍崎は舌で唇を濡らし、ゆっくりと口を開く。
「……あーえっとですね。俺はなんというか……、怖い人に絡まれやすいんですね。ビックリするほど。ああ、そうだ! 昨日も怖い人達に出会ってしまって全力で逃げました! ねぇ! 一ノ瀬さん!」
すると篠崎と死んだ魚はウンウンと頷く。だが一ノ瀬は眉間にシワを寄せ、額に青筋を立てたままであった。
だが、龍崎はなおも話し続ける。
「で、これを人に話すと言われるすわ。お前が悪いとか、責任はお前にあるだとか。でも本当に俺が悪いのかと。世の中にはどうしようもないことが多い。それこそ産れた時点で運命付けられえているような人間もいるわけです。そんな人間に対して、あーだこーだと……」
と、龍崎はそこで口を閉じた。なぜ、こんなことを自分は喋ったのかと自己嫌悪したのだ。絡まれ体質の話をしているつもりが、いつの間にか、自分の境遇や置かれた環境を引っぱり出してしまっていたのだ。
(アホだな)
と、その時。
一ノ瀬が立ち上がり、龍崎に歩み寄ってから肩に手を置く。
「龍崎君の悩みは分かった。‥‥‥‥そうだったの。そんな悩みがあったわけね。わかった。みんな拍手」
その声を合図にするようにして篠崎と原田が盛大に拍手をした。
しかし龍崎は「へっ」とニヒルな笑みをこぼす。いったい一ノ瀬は「なにが分かったのか」のだろうかと。だが、彼はすぐに気持ちを切り替える。結局、一ノ瀬の悩みは聞き出せていない。
ところが一ノ瀬が、
「じゃあ龍崎君が喋ったことだし‥‥‥」
と言葉を区切ってから、涼香に視線をチラリと送った。
「私の悩みも言うね。篠崎さんと原田くんは何度も聞いているだろうけど」
「あ‥‥…え?」
龍崎に呆気にとられた。いったいなにがどう関係して、このタイミングで一ノ瀬が自分の悩みを話す気になるのだろうかと。だが、そんなことよりも龍崎は安堵した。これで涼香の要求を叶えることができたのだ。
そして一ノ瀬はゆっくりと口を開く。
「実を言えばね‥‥‥‥‥‥私って悩みがないの!」
「————え?」
龍崎は口を開けたままの状態で一ノ瀬の顔を見る。悩みがない、とはどういうことか。
「でも私わかるの。浮舟さんと龍崎くんもの痛みも苦しみも、すっごくわかるの。辛いよね、苦しいよね。だけど大丈夫。世の中にはもっと苦しんでいる人がいるの。大したことない!」
と言ってあっけからん顔をする。
すると篠崎と死んだ魚は頷き拍手をした。が、彼らの顔に陰りのようなものが湧き出ていた。ほら暗い、影のようなもの。
だが龍崎は、そんな彼らの表情の変化を気に留めることもなく、拳を握り込む。一ノ瀬の悩みが聞けなかった。だがそれ以上に彼は、一ノ瀬の言った内容に引っ掛かりを覚え、腹を立てた。彼女の言った言葉を飲み込むわけにはいかなかったのだ。
いったい、どんな権利があって一ノ瀬という女は、人の苦しみを「たいしたことない」と言えるのであろうと思ったのだ。なぜ、人の苦しみを相対化してしまうのだと。
が、なおも一ノ瀬の言葉は続く。
「さあ。だから龍崎君もね。頑張ってどうにかしよ! 絡まれやすいのもきっと努力でどうにかなるから! 一緒にどうにかしてあげるから。龍崎君の悩み大したことないって」
と一ノ瀬は、龍崎の肩を撫でるようにして叩いた。目には慈愛のような感情が浮かんでる。
そんな一ノ瀬の行動を見て龍崎は、つい我慢できなかった。自分の心の中にほら暗いナニかが湧いた。
龍崎は一ノ瀬手を払いのける。
「一ノ瀬‥‥‥それは、ちょっと違うと思う」
「……えっと……龍崎、くん?」
一ノ瀬の微笑みが少しばかりぎこちないものへと変化していく。
「あのさ、そもそも俺と一ノ瀬は全く違う人間だ。考え方とか価値観とかが全く違う。そしてそれを作り上げるのは‥‥‥お前はわからないだろうが、経験と環境と……なんだよ」
龍崎には一ノ瀬の言葉がどうしても許せなかった。こんな部活に身を置いていながら、人の悩みを自信満々に聞いておきながら、その人間の悩みを「たいしたことがない」と笑い飛ばしてしまう一ノ瀬の言動が許せなかったのだ。検討違いの怒りの矛先を一ノ瀬に向けているのだろうと思っていても、龍崎は自分を止められなかった。
「一ノ瀬。人間ってのは、絶対的に相手の対場に立てないんだよ。共感なんてできないんだよ。なのに、なんでそうやって相手の苦しみを『大したことない』って言いやがるんだ。お前にいったいなんの権利があって――」
と、龍崎はそこまで言ってから、言葉を失った。
(これを言ってどうなる)
例えばの話。龍崎家の事情を他人にしたところで意味がないのと同じ。なんの事情を知らない馬鹿が、励ましに似た説教をするのと同じ。リストラされたに人間に「そんな会社に勤めているほうが悪い」と言うヤツも世の中には多い。
『大変だろうけど頑張れ』
『周りのせいにしてはいけない』
『世の中にはもっと大変な人間がいる』
『大したことはない」
そんな言葉で無意識のうちに人を傷つける連中を沢山知っている。自分の基準でしか物事を語れない連中を沢山見てきた。でも、人の苦しみや痛みを『大したことがない』と言う連中になにか言ったところで、意味はない。だから龍崎は適当に言葉を返す。
「……いや、なんでもない。すまん。でもよ、どうしようもないことはあるんだよ」
龍崎がそう言って、一ノ瀬はキョトンとした顔をしてから、微笑んだ。
「うん。そうだよね。でもさ、いつまでも回りのせいにしちゃダメだって。やっぱさ……努力しないと。龍崎君、世界中の貧しい国の人に比べたら恵まれてるでしょ?」
瞬間、龍崎は「へっ」と鼻で笑った。大方、予想していた通りになったからである。
「……一ノ瀬。俺、お前の事が大嫌いだわ」
一瞬、呆気にとられた顔をした一ノ瀬であったが、すぐにぎこちない笑顔を造る。
「‥‥‥えっと……なんで、そんなこと言うの?」
「なんでって……俺はお前みたいなヤツが嫌いなんだよ。理由はね。くたばりゃいいと思ってる」
そう言ってしまってから龍崎は小さく息を吐いた。言ったところでわからないなら、なぜ言ったのだろうかと。
一ノ瀬の眼を涙の被膜が覆い始め、鼻をスンと鳴らした。
「なんで‥‥‥なんでそんな酷いこというの。私はただ‥‥‥龍崎君のためを思って‥‥‥それで」
龍崎はばつの悪そうに一ノ瀬から顔を逸らす。その先あったのは、笑みを消して見据えてくる涼香。ただ、なにを考えているのかわからなかった。非難しているわけでもなく、軽蔑の色を含んだ眼をしているわけでもなく、ただコチラを見据えているのだ。
と、そこで龍崎は、篠崎と死んだ魚が視線を地面に落としている姿を見て、気が付く。
(……言い過ぎた)
龍崎はすぐさま顔を一ノ瀬に向ける。
「いや、違う一ノ瀬。だから俺が言いたいのは―――」
と、そこで乾いた音が教室に響いた。
龍崎の顔が左に大きく逸れる。痛みを感じ、頬のぶたれたのだと知った。
「このクズ!死ね!」
一ノ瀬は、龍崎の隣にあった椅子を押し除けて、そのまま教室を飛び出す。途中、一ノ瀬が弾いた椅子がガタンと倒れ、けたたましい音を立てた。誰かの吐息すら聞こえてきそうなほどに教室はシンと静まり返ってしまった。
と、龍崎が恐る恐る視線を前に戻すと、涼香と目が合う。彼女は肩の力を抜くようにして溜息をつき「ア・ホ」と声を発することなく口を動かした。
が、その時。
涼香の光彩が赤く光った。立ち上がり、一ノ瀬の駆けて行った方向に顔を向ける。
「ヒョドラくん、ここから動かないで!」
涼香は言うのが早いか駆け出した。龍崎の脇をすり抜け教室から飛び出す。
と、龍崎は眼の前を涼香が通り過ぎて行く一瞬、彼女の右手がスカートのポケットに突っ込まれているのを知った。あのポケットの中にはなにがあるのだったか。
「おい浮舟! テメェなにするつもりだ!」
龍崎は叫び、涼香の後を追おう駆け出す。
と、そこで。
「……龍崎くん、すまん」
その声に龍崎は脚を止め、振り返る。そこには椅子に座っている篠崎と死んだ魚。篠崎は顔を俯かせていたが、死んだ魚は顔を上げていた。
死んだ魚が、溜息をついてから口を開いた。
「龍崎くん‥‥なんていうか。最近の一ノ瀬さん。ずっとああなんだ。怒りやすいというか、感情的になりやすいというか。ちょっと前までは……あんな独善的じゃ……。とにかくすまん」
すると篠崎が目を伏せたまま口を開く。
「一ノ瀬さん、ちょっと前まではあんなふうじゃなかったの。でもここ数日‥‥‥なんていうか‥‥‥ちょっとおかしくて‥‥‥私、疲れちゃって」
死んだ魚がハンカチを差し出し、それを「ありがとう」と言って受け取る篠崎。2人は疲弊しているようであった。
だから龍崎は少しだけ声のトーンを落とし、
「わかった……。すまん、邪魔したな」
とだけ言って教室から出て、ゆっくりと扉を閉める。
龍崎は、早足気味に廊下を歩き出した。
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