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上尾に捕まっていたせいで、数少ない電車に乗り損ねてしまった。
空はもう夕焼けを終えて、淡いエメラルドが見えた。吸い込まれそうなグラデーションを横目に、駅まで十五分の道のりを走る。
私の暮らす街は人口三十万程度の都市の外れの方で、農業の中でも特に稲作が盛んな地域だ。私の両親は、農家でもなんでもなくて、ただ土地が安かったからという理由でこの地域に家を建てた。父も母もただの会社員だ。
私の六歳年上の兄は、昔から賢かった。当時小六の兄は両親に頼み込んで、中学生からは電車で行かないと通えない地元の周辺地域の中心地の私立に通っていた。
一方の私は農業にも興味が持てず、実業系の高校に行きたくないという理由だけで、普通科のある高校に通っていた。農家の子供が多い環境で私のような人は稀だった。周囲の人は私が農業高校に行かないことを知って眉を顰め、兄のことを思い出して、なんでも納得した。
お兄さんもそうだもんね。その一言で私の輪から乱れた行動は認められる。それが不愉快で仕方なかった。
だけど、そうやって通い始めた今の高校も好きにはなれなかった。
元を辿れば兄が悪いのだ。兄が親を味方に付け、私の志望校を勝手に決めて、そこ以外は受けさせてもらえなかった。私は沙苗と同じ学校が良かったのに。兄が「あそこは不良とかが多いから駄目だ」なんて余計なことを両親に吹き込んだのが全て悪いのだ。
案の定、電車を乗り過ごした私は仕方ないので、次の電車が来るまで駅内の書店に居座ることにした。
文庫本のコーナーで気になった本を片っ端から目を通していく。文庫を見終わると今度は、漫画コーナーに移る。出来るだけ多くの物を自分に取り入れたかった。自分が普通ではないことを認めたくなかった。フィクションの世界であれ、自分と同じような人を見つけたかったのかもしれない。
そうこうしているうちに電車の時間が近付き、書店を後にする。改札に向かって歩いていると、今日の諸悪の根源に出くわす。
「帰り?」
私は肩をくすめる。私の素っ気ない対応が何故かお気に召したのか、彼はやけに嬉しそうだった。
「あんたは?電車?」
「いや、俺はバス。駅発の方が本数多いからね。ちょっと遠回りになるんだけど、こっちまで来てるんだ」
「へえ。大変だな」
あまりにも私が抑揚無く言うので、今度は彼は吹き出して笑った。本当に表情がころころと変わるやつだ。
「ほんと村谷さんは面白いね。……で、今はどっちなの?」
一瞬何の話か分からなくて、反射的に彼の顔を見てしまった。彼があまりにニコニコしながら訊いてくるので、私はやけになって言葉を吐き捨てる。
「……女」
「ふーん。それにしても、村谷さんは俺に感謝した方が良いよ」
「は?」
「今の村谷さんを簡単に受け入れられる奴なんて、多分俺くらいしか居ないよ?」
返す言葉が見つからない。彼が言うことは紛れもない事実だったから。
「で、一年七組の村谷累さんはなんで男装してんの?」
なんで僕のクラス知ってんだよ。
そんな僕の心の声が聞こえるわけもなく、目の前の男の子はストローの袋を破く。彼は未だ名乗ろうとせず、僕そっちのけで優雅にストレートの紅茶を啜っていた。しかし直ぐに顔を顰める。どうやら苦いのは嫌いらしい。急に無言で立ち上がり、三個もガムシロップを持ってきた。
「流石に理由なく男装なんてしないでしょ。あ、もしかしてそういう性癖なの?」
「……は?」
「怒んないでよ。今のは冗談ですー。じゃあ質問を変えよう。俺のことは知ってる?」
「知らない」
「まあ当然か。俺は一組の小野寺知希。覚えてね」
僕はペラペラと饒舌に話す小野寺を観察する。
小野寺は、どこにでもいるような特徴のない顔立ちで、唯一の特徴が髪の毛だと思った。剣山みたいに尖っていて、ちょっとは触ってみたい気もする。
彼は話しながら三個のガムシロップを余すことなく紅茶に注ぎ込んだ。
「今日は何しに来たの?」
「……映画を見ようと思って。あんたと会ったところ映画館なんだってさ」
「へえ!初めて知った!」
良いこと知ったなあ、と小野寺が心底嬉しそうに言うので、僕は毒気を抜かれてしまった。小野寺は、再び紅茶に手を伸ばす。今度は丁度いい甘さだったようだ。にこにこしたまま僕に話し掛ける。
「映画見るの好きなの?」
「まあ人並みには」
「あ、もしかして映画見る時だけ男装するとか?」
「それ以外でもしてる」
「とすると、学校以外ではしてんの?」
「学校と家以外では」
「……一応確認だけど、性同一性障害?」
「それは、ちょっと違う、と思う。僕は、身体は女だけど中身はどっちでもない」
「どっちでもない」
「分からないんだ。女だと言われれば、身体は女なわけだからそんな気もするし。でも、男だと言われても否定出来ない。現に今、僕はあんたに男として接してる。でも、僕自身その行動に違和感を感じない。かと言って、長時間男でいるとそれはそれで結局、辛くなる」
「うーんと、あ、続けて」
「分からないからこうやって、自分を試してる。僕はどっちなのかはっきりさせたい。まあ今のところ、どっちもしっくりこないんだけどね。いずれ、はっきりすることを心のどこかでは期待してる。多分どこかでケジメを付けないと僕は、このまま大人になって今みたいに男装を続けちゃうだろから。あ、男装が悪いとか嫌だと思ってるわけじゃないよ。もし、僕に性別が無いなら無い、あるなら男と女どっちなのか、自分で納得してないと今以上に生きてるのが辛くなりそうだから」
「ごめん、ちょっと待って」
「分かった」
小野寺は額に手を当てて考え込む。その手は次第に下がって来て、小野寺の目を覆う。きっと混乱しているのだろう、当の本人である僕でさえ、理解し行動に移すのに時間が掛かったのだ。つい先ほどまで話したこともないし、完全に他人だった彼が僕のことを簡単に理解して、受け入れられるとは思えなかった。
「あ、あのさ。答えたくなかったら無視していいんだけど、村谷さんの恋愛対象ってどっちなの?」
「僕が最初に気になったのは、女の子だったよ。笑顔が眩しい子でね、よくふたりで映画にもショッピングにも行った。いつその子と話しても飽きなくて、僕はそれが恋なんだと思った。確か中二の時だったかな。そのころの僕は驚くくらい無知でさ。同性愛ってのを知らなかったんだ。でも告白寸前に、学校の授業で学んだからギリセーフだったね」
「……」
「その時、僕はこの想いは間違ったものじゃないにしても、受け入れられないことの方が多いんだなって悟ったんだ。今もその子とは仲良しだよ。確か来週末には、カラオケに行くとか行かないだとかと言ってた」
「その人のこと、今も好きなの?」
「どうだろ。今は友達で十分だと思ってるよ」
「もしかして男装始めたのって、そのあと?」
僕は控えめに頷く。
「前からどっちなんだろうとは多少は思ってたんだけどね。あの時、これははっきりさせなきゃダメだなって。じゃないとろくに恋愛も出来ない気がして。僕、そんなに器用じゃないからね」
彼は宙に視線を朧げに彷徨わせる。僕がこれまで言ったことを時間をかけて整理しているようだった。たっぷり五分、彼はそのままだった。
「男装の理由はこれでいい?」
「あーそうだね。うん、いいよ」
「じゃあ僕はこれで」
「え、帰るの?」
「あんたのせいで映画を見損ねた。もう今日はやらないから家で寝る」
「ふうん。じゃあね村谷累、くん」
彼が手をひらひらと振る。僕は振り返らず真っ直ぐ出口に向かった。
時間だから、と去って行った小野寺知希の背中を私は無意識に凝視していた。
どうして彼は私のことを簡単に受け入れられたんだろう。
私自身、まだこれっぽちも自分のことを認められていないというのに。どっちか分からない、だなんて甘えなんじゃないか。最近の私はよくそう思う。女子として生まれたんだから女子として生きるのが無難なんじゃないか。だけど、もし本当に私が男になりたいんだとしたら、その意思を歪めるのはよくないことのような気がする。
毎日考えても答えは出ない。明日には自分の納得出来る答えが見つかることを私は強く祈った。
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