パトリシア
水城しほ
パトリシア(前編)
十年付き合った彼氏にフラれた。いや、むしろあたしがフッたのか?
「結婚迫られてるみたいで重いんだよなぁ。なぁアスノ、俺たちさぁ、もう別れた方がいいんじゃねぇ?」
ヘラッとした口調でそう言われたので、あたしはヨウヘイの横っ面を思いっきり引っ叩いた。その後は手当たり次第に物を投げつけて、勢いで玄関から叩き出した。
「出てけ! もう帰ってくんな!」
「ちょ、出てけって急に言われても、荷物」
「知るかぁー!」
いつも持ってる鞄は投げつけてやった。あたし優しい。まぁ、あいつのお気に入りのスニーカーは、あたしの足の下で潰れてるけどね。
「はああああああああ!」
部屋に戻って、あいつに投げつけた雑誌や服を片付けながら、あたしは咆哮と溜息を混ぜ合わせたような奇声をあげた。別に、別れ話を切り出された事そのものが腹立たしいわけじゃない。そろそろ言われるかもしれない、とはうっすらと思っていた。問題はそこじゃない。
「家賃折半しろとは言わないけどさ、お金がないからって盗み食いするのはやめろっつーの。せめて勝手に食べたものは報告しなよ。それがわかったなら、あんたが食べたあたしの『うめえっちゃん』を速やかに買って来い。いいか、焦がしネギ味だ。絶対に間違えるな。もし高菜味を買って来たら、この家から出ていって貰う!」
……これが結婚迫ってるように聞こえたんだったら、絶対にあいつの耳か頭がおかしい。まさかインスタントラーメンで別れ話になるなんて。昔はこんなじゃなかったんだけどなぁ、と情けなくなる。
ギターを弾き始めた頃のヨウヘイは、キラキラしていた。まだあたしたちが熊本で地味な高校生をしていた頃だ。「俺は世界で通用するギタリストになるんだ!」なんていうお約束を差し引いても、ギター大好きって感じが、オーラのように全身から溢れ出ていた。
欲しいギターの為に汗水垂らしてバイトして、まぁ親戚の農家の手伝いだから微々たるものだけど、それでもコツコツお金を貯めて。ようやく手に入れた時は「これでアスノの為の曲とか作っちゃうぜ俺!」なんて、まるで伝説の武器でも手に入れたみたいな顔をしていて。あたしはその顔が、大好きでたまらなかった。
あたしたちは進学を口実にして、福岡でそれぞれ一人暮らしをはじめた。本当は東京に行きたかったけど、うちの親の許可が下りなかった。東京は遠いけど福岡くらいなら……という親心、結構ありがちなパターン。ヨウヘイは「アスノがそばにいないと、俺たぶん弾けなくなっちまう」なんて、すごくすごく可愛い事を言った。
ヨウヘイは楽器屋でバイトを始めて、そこで知り合った友達と「トリックトラック」ってバンドを作って、学校そっちのけで音楽漬けになった。出席日数不足で退学になった時、親に仕送りを止められて、あたしの部屋に転がり込んできた。それからは、仕事以外はずっと一緒だった。
ライブハウスのステージでギター弾いてる時のヨウヘイは、世界中のどんなギタリストも敵わないくらい、最高に格好良かった。だからあたしも頑張った。ライブのチケットを売ったり、グッズ販売の売り子をやったり、通販の処理をしたり。お互い忙しくしていたけれど、あの神様のような指先が荒れたら嫌だから、ヨウヘイに家事なんて絶対にやらせなかった。
だけどヨウヘイの指は、もうあの頃のようには動かない。
一年前、ヨウヘイはバイクで転倒して、ガードレールに突っ込んだ。右腕を骨折したせいで、その指先に痺れが残った。
どこにも怒りのやり場がない、夢を追う道からのリタイアだった。
お医者様から「完全な回復は見込めません」と宣告された時、ヨウヘイはか細い声で「そうですか」と言った。せめてもの慰めのつもりだったのか、お医者様は「日常生活に大きな支障はありませんよ」と続けた。ヨウヘイは唇をぐっと噛み締めて、それからもう一度、消え入りそうな声で「そうですか」と言った。
あいつがそんな顔をしてる事が悲しくて、悔しくて、でもあたしのその気持ちは、ヨウヘイの苦しみの一万分の一にも届かないのだろうと思った。
速弾きはできなくても、簡単な演奏なら……と、ヨウヘイも最初は練習をしていた。だけどヨウヘイは「弾いてるうちに指の感覚を見失う」と言って、ギターを握る事すらやめてしまった。なのでトリックトラックのみんなとこれからの事を話し合った時、ヨウヘイは「トリトラのギターはもう俺には弾けない、誰か代わりを探してくれ」と言い出した。
だけどドラムのポンちゃんが「ヨウヘイがいないならやる意味ねぇわ」と言って、ベースのヤナくんも、ボーカルのニッシーも、みんながその言葉に賛同した。
そうしてヨウヘイが人生の全てをかけていたトリックトラックは、あっさりと解散した。
自分の名前が入ったギターピックを部屋中にぶち撒けて、苦しそうに「これなら死んでた方がマシだった!」と叫ぶヨウヘイは、ただただ可哀想だった。
彼の痛みのいくらかでも、わかってあげたかった。代われるものなら、代わってあげたかった。ヨウヘイの指が元に戻るのなら、あたしの命をあげたってよかった。
次第にヨウヘイはギタリストとしてでなく、人としてダメになっていった。
バイトを辞めて、親の仕送りで生活するようになった。二人で住んでるアパートの家賃や水道光熱費は、全てあたしが払っている。色々と頑張った結果そうなってしまうのなら、それは別にいい。だけどそれが当然のように振る舞うヨウヘイに、正直言ってイライラした。
最初はそんなヨウヘイの全てを、ただ黙って受け入れていた。できるだけ笑顔でいようと、優しく寄り添おうと頑張った。だけど仕送りはスロットやソシャゲに消えてゆき、優しかったヨウヘイもどこかに消えてしまって、あたしに子供じみた意地悪をするようになった。まるで、わざとあたしを怒らせようとしているみたいに。
あたしたちのケンカは絶えなくなって、セックスを拒んだら、それからは連絡無しで外泊するようになった。多分、今は誰かと浮気をしている……ああ、もう浮気じゃなくって、そっちの女が本命なんだ。
あたしは結局、ヨウヘイに何もしてあげられなかった。
朝起きて郵便ポストを見たら「うめえっちゃん」の焦がしネギ味が、半ば無理矢理に五個も捻じ込んであった。そうか、あいつは五個パックを全て食べていたのか……なんか色々とバカバカしくなって、もう食い下がらずに別れを受け入れようと決めた。
そうと決まれば、髪を切ろう。
だってなんか「ザ・失恋」って感じするじゃん、どうせなら失恋を楽しんでやる。メソメソと泣いて終わりだなんて、そんなの格好悪すぎるもんね。
どのくらい切ろうかな、ベリーショートは短すぎかな。でも、もしかしたら思いがけなく似合うかもしれないよね? あたしずっとロングだったし。いやほら、ヘドバンする時は髪長い方が気持ちいいじゃないですか。長い髪で派手な色にすると、気分もめっちゃ上がるんだよね。さすがに就職してからは暗めの茶色だけど。短めの髪なら、今よりは明るくしても目立たないかなぁ。
いつもお願いしている美容師のみかちゃんにラインを送ると、今日は空いてるよって言うから、仕事終わりの時間に合わせて予約を入れた。
「アスノさん似合う!」
「え、そ、そうかな……」
思わず自信なさげな声を出してしまったのは、あたしの髪が背中までのロングから、一気にセシルカットにされたからだ。お任せしちゃうって言ったのはあたしだから、文句なんかは言わないけどね。
「失恋したからばっさりって言うから、ばっさりいっときました!」
みかちゃんはご機嫌だ。きっと大成功なんだろう。他の美容師さんたちも「すごーい大変身ー」とか「こんな長いの切る事ってなかなかないよねー」なんて言って盛り上がってる。
「アスノさんは頭の形が綺麗ですもん、小顔だし。どうせだからメイクも変えましょうよ、これからお時間ありましたらぜひ、メイクモデルになって下さい!」
おお、みかちゃんが楽しそうだ。いいよ、どうせ帰っても一人ぼっちだから。
閉店までコーヒーをご馳走になりながら、置かれている雑誌を適当に読んだ。特集の「カレが触りたくなるカラダの作り方」を、意味もなく三回読み返した。掲載されているモデルの可愛いご尊顔を拝見して、お前らならカラダがだらしなくてもエロスとか言われちゃうんだろうよ、と心の中で悪態を吐いた。病んでる。
最後のお客さんが帰った後、ウキウキのみかちゃんにお化粧を落とされた。キャンバスになったあたしは、未来のカリスマ美容師による試行錯誤と悪戦苦闘の末、フランス映画の女優みたいな女に生まれ変わっていた。
やったぜ大成功だ、と二人ではしゃいで、みかちゃんとツーショットチェキを撮った。励ましてくれてるんだと気が付いて、嬉しくなった。
スタッフのみんなに誉めそやされて上機嫌で帰宅して、シャワーを浴びて鏡を見たら、そこにはサルみたいな女がいた。
腹立ち紛れに、東京行きの航空券を買った。インターネットは便利だね。一泊二日の逃避行、家出だ家出。お腹を空かせたヨウヘイが帰って来ても、あたしはいないぞざまーみろ。うめえっちゃん食ってろバーカ。ちなみに週末なので仕事は休みだ、なんてタイムリー!
で、わざわざ東京まで何をしに行くかというと、一回しか会った事のないバンドメンと飲みたくなりました。普段は決して顔を合わせない人で、キラキラしたヨウヘイを知っている人と、ヨウヘイの話がしたかったんです。
『明良さんこんばんは。三年前に福岡のイベントでご一緒した「トリックトラック」のスタッフで、楽屋でお話させて頂いた寺川明日乃です。ご無沙汰してます。明日そちらへ行く用事があるので、よかったら夜どこかで飲みませんか。もしご都合が合うのでしたら、邦也さんもお誘いできればと思います。ぜひ近況を聞かせて下さい』
一か八かツイッターでダイレクトメッセージを送ると、五分ほどで返事が送られてきた。快諾。
ああ、嬉しい。アキラさんは、ヨウヘイのギターをいっぱい褒めてくれたんだ。
アキラさんは「丁度休みで暇だったんだ」と言って、羽田空港まで迎えに来てくれた。あたしより五歳年上の、二ピースバンド「ケスクセ」のボーカル兼ギタリスト。普段は都内で会社員をしているらしい彼は、バンドマンとは思えないほどに落ち着いている。ステージでも「ケスクセ」の二人は、爽やかで自然体だったなぁ......アコースティックスタイルの真骨頂、という感じで。
アキラさんが「車でお迎えに参りましたよ」と冗談めかして頭を下げ、サラサラの短髪が揺れる。駐車場までエスコートされて、ラパンの助手席に恭しく招かれた。可愛い車に乗るんだなぁ、でもなんか、似合う。
「あの、あたし乗っちゃって大丈夫ですか」
「なにが?」
「女を助手席に乗せて、怒られたりとか」
「怒るような人はいないね」
マジか、独り身か。落ち着いてるからてっきり、長い付き合いの彼女ぐらいはいるんだろうと思ってたのに。
「髪切ったら雰囲気変わるね、それ似合ってる。ジーン・セバーグみたいだ」
「ありがとうございます」
「今から予定はどうなってるのかな、お昼は一緒に食べられそう? クニヤはいま仕事中だから、僕と二人だけど」
「……予定、ないん、です」
え、とアキラさんが驚いたように、あたしの目をじっと見つめた。
あたしは、アキラさんに全てを打ち明けた。
バイクで事故を起こしたせいで、今のヨウヘイはあの頃のようにギターが弾けない事。
作詞も作曲も演出も、全てがリーダーのヨウヘイ頼みだったトリックトラックは、代わりのギターを入れずに解散してしまった事。
人が変わってしまったヨウヘイとは毎日がケンカばかりで、とうとう別れを切り出された事。
ヨウヘイのギターを褒めてくれたアキラさんに、ずっとずっと会いたかった事。
一切を包み隠さず、正直に告げた。
アキラさんは運転しながら、ただうんうんと相槌を打ちながら、あたしの話を聞いてくれた。その柔らかな声が、耳に心地良かった。
車はファミレスに入った。お昼のピークを過ぎた十四時、あたしたちは向かい合って四人掛けのテーブル席に座る。こんなにも明るい場所で顔を合わせるのは初めてで、アキラさんの首筋に二つ並んだホクロがあるのに気が付いた。セクシーだ。
あたしがランチセットを頼むと、アキラさんは微笑んで「じゃあ僕もそれで」と言った。
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