第四十八夜 最後の晩餐

 これは、平井という男の話だ。


 話は今から二十年ほど前に遡る。

 当時はまだ世見の守屋総合病院も、今みたいな新築じゃなくて古い建物だった。確か今が三代目だった気がするから、二代目の建物だった頃かな。

 平井は俺の大学時代の親友で、卒業してからも度々会っては居酒屋で話に花を咲かせたものだ。


 そんな平井が突然入院したというので、折りを見て見舞いに行った。

 当時はボロアパートに住んでいたから、世見なんかの病院に入院する平井の経済力には少し驚いた。


「胃潰瘍だってよ」


 予想に反して、平井はへらへらと笑って言った。

 聞いた話によると、急に胃痛を感じて病院に駆け込んで、即入院とのことだった。だが病室まで来るとそれも微妙に話が違っており、実際には胃痛はしていたがしばらく放置していたとのことだった。話はあまりに二転三転していたが、いずれにしろ無事そうで安心した。


「しっかし、結構なでかい病院だなあ。なんでこんなとこに?」

「近所の爺さんがやってる医院に昔っからかかってたからさあ、最初はそこに行ったんだけどよぉ。二回も三回も行ったら紹介するから此処いけって言われて」

「なんだ、病院自体は行ってたのか」

「薬だけ貰ったほうが楽だったんだがなあ。ちょっと行きすぎたか。無視しても良かったんだろうけど、親が行けってうるさくて」


 平井は渋い顔をした。

 だがまあ、それで即入院からの手術なり治療なりということなら問題ないだろう――俺はそう笑ったが、平井のほうは暇すぎてそれどころではなかった。


 そんな風に、急すぎて俺や他の友人達にも連絡する暇が無かったのだという。

 二十年前なんて携帯電話も今ほど便利ではなかったし、電磁波だか電波だかがどうとか言われて、病院での使用も制限されていた。今も制限はされているが、それでもだいぶ緩い。


「ああ、でもよ。あそこのナースいるだろ? あそこに可愛い子が一人いるんだよ」


 俺たちは悪友でもあったので、どのナースが美人だとか、あいつは年増で駄目だとか、性格がキツいとかよく言い合った。おっぱいがでかいとか、尻が大きいとか小さいとか、そういうことをいちいち言うので、ナースたちは時折ぎろりと睨んできた。

 更に平井は酒もタバコも禁止されているにもかかわらず、こっそりとそれらを持ち込んで小さく騒いだりもした。


 そんなことが続いたある日のことだ。

 ふと最近、見舞いに行っていないなと気が付いた。自分が忙しかったのもあるが、そういえばまだ入院しているのかと改めて思ったのもある。繁忙期は過ぎたし、また酒でも持っていこうかと足を伸ばすことにした。

 ぶらぶらと酒を隠し持って病院まで行くと、廊下でばったりと平井の母親に出会ってしまった。


 ――げっ。


 不味い奴に見つかった、と思った。

 なにしろ、平井の母親もまた見つかるとクドクドと説教をしてくるタイプなのだ。しかし出会ってしまったものは仕方が無い。挨拶だけして早々に立ち去ろうと考えていると、平井の母親は厳しい目をして俺を呼んだ。

 あちゃあ、と思った。

 まあ、本当に運が悪いなと思っていると、平井の母親はこんなことを言い出した。


「ありがとうね、来てくれて。驚かないでね」


 母親が涙ぐんでいるのを見て、胃潰瘍程度で大げさなと思った。

 けれども、次の言葉が出てくると、真っ白になった。


「実はあの子……癌なんです」


 この頃はまだ癌は不治の病、死の病という印象も根強く、俺は何を言われたかわからなかった。特に当時は本人に告知をするかどうかも悩む頃だった。だが、ある程度治療法も確立してきていて、状況によっては抗がん剤などでの治療を行う。


「本人にはまだ言ってないから……」


 母親は俺に文句ひとつ言うことなく、ごめんなさい、あの子に会ってやってと口早に言って立ち去ってしまった。

 俺は呆気にとられながら、平井がどんな状況なのか確かめるため、恐る恐る病室に足を踏み入れた。


 だが、そんな俺の思いは見事に砕かれることになる。


「よお! 来てくれたのか!?」


 耳についたのは、明るい声だった。


「なんだよ、へへへ。わかるぞ、例のものを持ってきてくれたんだろ……」


 呆然とする俺を目の前に、平井は入院した当時となんら変わることなくべらべらと喋り続けた。

 驚かないでなどというから、人相から変わってしまったのかと思ったが、そんなことはない。ごく普通の、いつも通りの平井である。


「ん? どうしたんだ? 俺の顔になんかついてるか?」

「あ、ああ。なんでもない。というか、静かにしろよ」

「わーかってるわーかってる。静かにな、静かに」


 平井は揉み手をしながら、俺が隠し持ってきたものを所望した。


「しかし、これは禁止されてるんじゃなかったのか?」

「今回こそ最後の晩餐だよ。つっても、お前が持ってきてくれるからなあ。最後にするには惜しいんだよなあ」

「俺のせいにするなよ」


 俺は先ほど言われたこともすっかり忘れて、平井と小さな酒盛りをした。持ってきたつまみもすべて平らげ、最近の女優は誰が美人でどうだとか、看護婦の誰それは上から覗き込むと豊満だとか、そういう話で盛り上がった。

 久々に楽しい時間を過ごし、相手が病人だということも忘れかけた頃、俺は家路を急いだ。


 ところがそれから二日もしないうちに、平井の両親から急に電話がかかってきた。

 平井が死んだというのである。


 俺は信じられなかったが、とにかく葬儀と通夜があるのでもし良ければ来てほしいという話だった。指定された会館に行くまでもずっと悪戯ではないかと疑っていたが、平井の名が書かれた提灯や、平井の写真が飾られた祭壇を見ると、それが冗談でないことを突きつけられた。

 俺は戸惑いながら中に入り、頭が真っ白になったまま挨拶をし、受付を済ませる。


 まだ通夜が始まる直前だったこともあり、棺桶の前には人が集っていた。おそらく親類だろう人々が、若すぎる死を悼む――というより、ああだこうだと噂していた。

 俺はその人たちを素通りし、ふらふらと棺桶に近づいた。


 蓋についた窓から顔が見えるようになっている。


「……えっ」


 俺は絶句した。

 平井はこんなに痩せていたか?


 確かに写真の中の平井は、まだ健康な時の写真なのでわかる。しかし、棺桶の中の平井は(葬儀屋によって整形されているとはいえ)痩せていて、髪の毛もほぼ無かった。妙に皺が寄っていて、これだけで壮絶な最期を予感させるものだった。

 でも、最後に会った時、確かに平井はまだ――。

 俺が呆然としていると、後ろから平井の母親の声が聞こえてきた。


「ええ、そうね。最後にあの子――ほら、今、棺桶の前にいる子。あの子が来てくれた頃には、もうガリガリに痩せちゃって、物も食べられなくて……。それからすぐに容態が急変して、そこからはあっという間で……」


 そんな馬鹿な。

 それじゃああの日、俺が見た平井は何だったのだろう。


 ――「最後の晩餐だよ」。


 あの日の平井の言葉が、妙に耳についた。

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