送迎、送る人、迎える人(前編)
六月五日の朝はいつもより少しだけ早い起床だった。
目が覚めてから少しだけ時間が経った午前六時半。
「おはようございます」
部屋に入って来た玲奈さんは柔かな笑顔で朝の挨拶をする。
「はい。おはようございます……」
「ちゃんと起きて挨拶をする坊っちゃまは大変お偉いですよ」
「…………」
玲奈さんの顔をまじまじと見ると心なしか肌艶が昨晩よりも良くなっている気がする。
「朝食の準備が整いましたのでキッチンへお越し下さい」
「…………」
玲奈さんに色々と訊きたい事があった。
薬の件とか、俺の服が下着も含めて昨日と変わっている事とか、ゴミ箱の中身とか。
そんな疑問の種を喉の奥に押し込んで俺はあくまでも自然体でそれに応える。
「はい。分かりました」
全てはうたかたの夢。気にしたら負けだ。昨日の出来事は自分の中で無かったことにしておいた。
「はい、坊っちゃま。あーんでございます」
席に着くや否や一口サイズに取り分けられた卵焼きを
昨晩の焼き直しが目の前に。
「完治したのでもう大丈夫です。そろそろ一人で食べさせて下さい、お願いします」
そう言って断りを入れると玲奈さんは不服そうな顔をして渋々と箸を置いた。
「むぅ、坊っちゃまの意地悪」
どこをどうしたら今の発言が意地悪になるのか。
「べつに意地悪なんてしてませんよ」
というか、なんで平然としているんだ。こっちは気恥ずかしさを堪えるでいっぱいいっぱいなのに。
やっぱり俺が自意識過剰なだけ──じゃないな、だって下着が変わってるし。
「なるほど、坊っちゃまは「一人でできるもん」を仰りたいお年頃なのですね。その御気持ちは良く分かります」
「…………」
なんでまだ俺を子供扱いするんだろう。立派な殿方はどこに行ったんだ。
やっぱり玲奈さんはちょっとだけウザい。そう思った。
閑話休題。
「ところで坊っちゃま。この
朝食の後で玲奈さんに指摘されたのは、冷蔵庫に貼りつけておいた姉からの手紙だった。
「あー……それは、ですね」
「いえ、分かっています。分かっていますとも。これは『お嬢様』からのお手紙でございますね?」
「…………あっ、はい」
分かっているなら聞かないで欲しいと思った。
「坊っちゃま、差し支えなければ手紙を拝読してもよろしいでしょうか?」
「あー……どうぞ」
俺の許可を得た玲奈さんは姉からの手紙をスラスラと黙読する。
「……なるほど。これは大変『お嬢様らしい』報せでございますね」
あの姉を知る玲奈さんだからこそ、そんな感想が出てくるのだろう。
「差し出がましいのを承知で玲奈から一つ、坊っちゃまにお節介したいことがございます」
「お節介、ですか?」
「はい。これは坊っちゃまの『将来』に関わる重要なことであると玲奈は考えております」
「…………」
将来とか、ずいぶんと仰々しい物言いだな。玲奈さんは一体何を言うつもりなんだろう。
「最近の坊っちゃまは『夜間の外出』が目立つ様になってきましたね?」
「……っ!?」
ブスリと。
俺がやったここ最近の諸々の非行に釘が刺さった瞬間だった。
「……そ、それは」
なんでそれを知っている、と言う視線をチラリと玲奈さんに向けると満面のニッコリスマイルでそれに応えられた。
「玲奈の実家である燕の家は帯織様の御向かいですから。坊っちゃまが夜間に出歩いているのも外から人の声がすると『偶然』見てしまうのです」
「…………」
そういえばそうだった。すっかりその事を失念していた。
やっぱり夜中だと人の話し声って気になるよな。
「……別に悪いことをしているわけじゃないんです。ただ夜中に出かけなければいけない用事があっただけなんです」
言い訳がましいけど。非行をしているつもりは全然無いんだ。
「ええ、それは玲奈も理解しております。坊っちゃまが良い子なのは玲奈が一番知っていますから」
ですが、と。玲奈さんは言う。それはあくまでも俺と玲奈さんが旧知の中だからだと。
「インターネットが普及した今の御時世ですから、どこに監視の目があるか分かりません。それに坊っちゃまの人柄を存じていない方々から見れば『それ』はやはり青少年の深夜徘徊に映るのかもしれません」
「…………」
こうやって言い聞かされると玲奈さんが『大人』で自分がまだ未成年の『子供』なのだと嫌でも実感させられる。
「それを踏まえた上でお嬢様の仰る『身の振り方』について玲奈の方から補足をさせていただきますが、よろしいでしょうか?」
「……はい。よろしくお願いします」
俺は素直に玲奈さんの話を聞くことにした。
「今から話すことは坊っちゃまの『将来』に関わる話であり、法律にまつわるちょっとだけ難しい専門的なお話になります」
玲奈さんが語る『その話』は子供の俺には理解しがたい内容だった。
「六年前に旦那様と奥様が争った裁判離婚における焦点は坊っちゃまの親権であり、主に監護権を巡るものでございました」
親権と監護権。
高校生には耳馴染みのない単語だった。
「親権は何となく分かりますけど監護権って何の権利なんですか?」
「……そうですね。口頭説明だけでは分かり辛い部分もあるので、坊っちゃまにはタブレット端末を用いて御説明いたします。少々お待ち下さい」
そう言って玲奈さんは一旦席を外して、どこからか自前のタブレット端末を持って来た。
「説明にタブレットを使うとか、まるで携帯電話の契約みたいですね……」
ふと去年の春頃に携帯電話の契約でタブレットを使用したことを思い出した。あれはすごく快適だと思った。学校の授業にもタブレットを導入して欲しいとか思うレベル。
「ふふっ。最近では医療の現場でも電子カルテなどでタブレット端末を使う場面が増えてきてるんですよ。そういえば首都圏の小中学校でも授業でタブレット端末を使用しているのだとか」
「へぇ……便利な世の中になりましたね」
うちの高校も授業にタブレット導入して欲しい。たぶん金銭的に無理なんだろうけど。
「それでは坊っちゃま、こちらの画面をご覧下さい」
テーブルに置かれたタブレットの画面よりもテーブルに乗った豊満な胸に視線が行きそうになる。
「やだ、バレない様にチラ見する坊っちゃま可愛いっ」
「…………っ」
胸の谷間を凝視したい気持ちをグッと堪えて玲奈さんの説明に耳を傾ける。
「まず、親権を大きく二つに分類しますと『財産管理権』と『身上監護権』に分かれます。財産管理権は文字通りの坊っちゃまにまつわる財産を管理する権利と法律に関する同意権を親として行使できる権利でございます」
その後も説明で小難しい単語がずらずら並んだけど、この説明で玲奈さんが最終的に言いたい事はこの一言に集約されていた。
「つまり親権は『権利』であると同時に親が果たすべき『責任』なのでございます」
果たすべき責任、か。
タブレットに映る小難しい文字列を見るとどうしても生意気なことを考えてしまう。
母さんは親としての責任を全うできているのだろうか。
「──ですから、坊っちゃまにはなるべく日常生活を少しばかり自重していただきたいのです」
少しばかり考え事をしていたせいか、玲奈さんの説明が耳と頭に入っていなかった。
「ご説明は以上です。御清聴していただき誠にありがとうございます」
「……っ!?」
不味い、肝心なところを聞き逃した。
「何か御不明な点がございましたらなんなりと玲奈にお申し付けください」
「あー、えっと……」
その笑顔に良い様のない申し訳なさを感じた。
こういうしょうもない事があるから俺は優等生になれないんだよなぁ。
どうしよう。もう一度聞くべきか? けっこう大事な説明みたいだったし。
「……すいません玲奈さん。もう一度──」
ピンポーン、と。
言い掛けた言葉を遮ぎる様に部屋にインターホンの音が鳴り響いた。
「はーい」
呼び出しに反応して玄関に向かおうとする玲奈さん。
「ちょっ!? 玲奈さん、その格好で客対応は社会的に不味いですよ!」
フリフリのメイド服で出迎えは完全にアウトだから!
「大丈夫ですよ坊っちゃま。玲奈に全部お任せ下さい」
「駄目です! 俺が出ますから!」
バチコーンとウインクをキメる玲奈さんを制して俺は玄関に向かう。
玄関に向かう最中でキュッと心臓が萎縮した。
この時間に
「…………っ」
ドアノブに掛けた手がわずかに震えている気がした。
まだ会いたくない。
気持ちの整理がついていない。
「坊っちゃまファイトです。大丈夫、坊っちゃまなら一人で出来ますよ!」
そんな。
そんな事情を知らない玲奈さんの言葉に背中を押された俺は意を決して玄関のドアを開いた。
そこにいたのは──。
「おはよう大和」
思い描いていた人物ではなく。
「ボクが君を迎えに来たよ」
少しばかり
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます