№04:因縁の攻防戦
01.中学生メモリアル
「――なあ、ごめんけど、ちょっと名前を見たいから生徒手帳を見せてくれよ」
あれは中学校に入学した二日後のことだったか。
真新しい制服に袖を通して殆ど日が経っていない休み時間に、俺は一つの出逢いをした。
自席に着いて暇を弄ばせていた俺のところに一人の男子生徒が声を掛けてくれた。それが山田健太。俺と同じ匂いのする地味っ子くんだった。声を掛けられた時はしごく緊張したのを覚えている。
入学して二日。その間、小学校から持ち上がりで中学に進学した友達とばっかり話していたから、他校から来た生徒と喋るのはこれが初めてだったんだ。俺達の中学校は二小学校が合併する形で成り立っていた。
「俺の名前? いいよ」
相手の要求を呑み、名前を見せるために新品の生徒手帳を机上に置いた。
覗き込むように手帳を見つめるそいつは俺の名前を口に出して笑った。いたって普通の名前だと思うのに、どうして笑われたのか。疑問符を頭上に浮かべていると、相手も新品の生徒手帳を並べるように机上に置く。
山田 健太。
それがそいつの名前。どこにでもありそうな、普通の名前だった。二つの生徒手帳を見比べて、そいつは指摘する。
「さっきのHRでやった自己紹介の時、お前の名前を聞いてさ。なんか、おれと似てるなーって思ったんだ。こうして比較してみるとおれ達って苗字が反対で名前が一文字違いじゃね?」
「あ、そういやそうかも。へぇ、こんな偶然もあるんだな。“けいた”に“けんた”か。名前までソックリだな、オモシレェ」
“田山 圭太”
“山田 健太”
健太の笑った意味を理解した俺もつられて笑う。似ている、ほんっと似ているな。俺達の名前。俺等は自分達の名前を見比べ、ありきたりな会話で盛り上がった。
これが俺と健太の出逢い話。
大した出逢い話じゃないけれど、俺と健太にとっちゃ大事な出逢い話だ。
小さな契機から友達になることができた俺等は、いつの間にか誰よりも仲良くなっていた。学校じゃゲームや漫画の話をしたり、地味くんはつくづく日向男子の株を上げる助けをしているのだと嘆いたり、どちらが彼女ができるのかについて語ったり。でもどっちにもできないんじゃないかと笑い話にしたり。
プライベートじゃ流行っているテレビゲームをした。お互いの好きなCDを聴き合った。近場にも遠出にも遊びに行った。俺の家に泊まりに来てくれたし、俺も泊まりに行ったこともあった。
俺等は特別に仲が良かった。名前の効力かもしれないけど、とにかく仲が良かった。
一理、偶然にも偶然、三年間同じクラスメートになったことも要因として挙げられると思う。
だから別々の高校に通うと決めた時には、とても少し寂しい気持ちを抱いた。一度は同じ高校に通うことも視野に入れていたけれど、程ほどにレベルのある普通科を選択した俺に対して健太は工業科のある高校を選択していたんだ。同じ高校には通えそうに無かった。
将来のことを考えての選択肢だとは言え、別々の高校に通うことは気鬱だった。
これ以上にないほど、俺は健太と仲が良かったのだから。それは健太も同じみたいで「一緒の高校に通いたかったぜ」と愚痴を零していた。俺も心底同意する。
「健太がいないのか。寂しくなるな……あーあ、田山田(たやまだ)解散か」
「違うって。山田山(やまださん)だろ。田山より、山田の方が王道だぞ。名前的に」
「あ、ってことは、田山は茨道か? それ、全国の田山さんに喧嘩を売る発言だって」
本当のことじゃないか。
健太は笑声を上げて、自分の名前の方がメジャーだと主張した。事実、この日本国は田山より山田の方が多いと意気揚々に綻ぶ健太。言い返せない事実に不貞腐れ顔を作りつつ、「それでも田山田だからな」と大人気なく主張していた俺。本当にくだらないことで張り合い、笑い、馬鹿して楽しんでいた。
そんな俺達の間で約束を交わす。高校に進学してもちょくちょく会おうな。なんてことのない内容の約束だった。別々の高校を選んだけど俺等だけど、いつだって会える距離にいる。会おうと思えば会える。中学みたいに遊ぶ機会は少なくなるけど、俺達の関係はきっと変わらない。そう信じて約束を交わした。
―――進学しても会おうな。
思い出に浸っていた場面がテレビのチャンネルを換えられたように入れ替わる。
それは和気藹々としていた中学時代から、今生きる高校時代。人の胸倉を掴んでくるダークブラウン色に髪を染めた不良が、体を震わせて懇願している。
絶交、憎む、圭太を潰すのはおれだ。今までサンキュ。
沢山の言葉を手向けて、人を川に落とした。瞼を閉じれば水音が鮮明に蘇る。夕陽が射し込む水の中、人肌より冷たい川の水が俺を包んだ。綺麗とは言いがたい水を飲み、溺れるんじゃないかと恐怖しながら岸に這い上がった。
その時にはもう、健太の姿はそこになく、あいつとの関係に終止符が打たれたことを意味していた。
ひでぇの。絶交だけでなく、俺を川に突き落とすだなんて。おかげで体が冷え切ったじゃないか。しかもこのナリ。母さんになんて説明すりゃいいんだよ、この制服の始末。責任取れよ、馬鹿。
“お前とは……絶交だ”
健太の言葉がリフレインする。
絶交……か、まだ夢でも見てる気分だ。
あんだけ仲の良かった奴とあっちゅう間に絶交しちまうなんて。健太、俺等、本当にこれで良かったのか。いや、良かったんだよな。俺はお前にとって敵方リーダーの舎弟。お前は俺にとって敵方のチームメート。今を捨てられない現実が俺達に過去を捨てさせた。立場的に考えても、これが最善の策だったんだ。
分かっている、分かっているんだ。なのに認められない俺がいる。理屈だけじゃこの気持ちに整理がつかない。
ヤな別れ話だよ。
出逢い話は大したこと無いのに、別れ話は激濃厚だぜ。濃厚。ベタな失恋するよりも、これは堪えるぞ。失恋じゃなくて失友か? 俺の場合。んじゃあ失友した場合、どうすりゃこの気持ちに整理がつくんだ。失恋の場合は自棄食いとか何とかするだろうけど。
健太、何にも考えられねぇよ、今は何にも答えが導き出せねぇ。俺達のしたことが正解だったのかどうかも、判断できなくなっちまった。
ぼんやりとして宙を見つめていると、頭にぽふっと何かが掛けられた。
今度こそ現実に返り、瞬きを繰り返す。それがタオルだと気付くのに暫し時間を要した。真っ白な無地のタオルの端をそっと握り、顔を上げる。同着で鼻の先に缶珈琲を差し出された。その腕を辿って視線を持ち上げると、「奢りだ」眦を和らげる舎兄が肩を竦めてくる。
近場のコンビニでタオルと珈琲を買ってきてくれたのだろう。タオルの端を握っていた手を前に出すと、そこに置いてくれた。じんわりと手の平が温かくなる。ヨウはホット缶珈琲を買ってきてくれたようだ。
「ありがと」
嗄れた声はヨウに届いたようだ。
「ん」軽い返事をして、俺の隣に腰を下ろしてくる。自分の分の缶珈琲を開け、口元に運ぶ様は本当に絵になる。イケメンは得ばかりだ。
視線を戻し、手中の缶珈琲を見つめる。折角ヨウが買って来てくれたのに飲む気にならず、ただ両手でコロコロと擂るように転がす。やがてその行為にも飽きて、力なく後ろに凭れかかった。金網フェンスの軋む音が耳につく。
見渡せば、停車している車がずらり。此処は私有地の駐車場だ。泣き崩れた俺を落ち着かせるために、ヨウが此処まで連れて来てくれた。
外灯に照らし出されている車の不気味さはパない。
まるで俺達を侵入者だと言わんばかりに、ライト部分がこっちにガンをつけている。くしゅっ、一つくしゃみを零す。夜風に当たっているせいか寒くなってきた。
「ケイ、ちっとでいいから飲んどけ。気も落ち着くし、体も温まるから」
それまで黙って傍にいてくれたヨウから、優しい気遣いを受ける。
カイロ代わりに持っていた缶珈琲に目を落とし、プルタブに指を引っ掛けてそれを開けた。一口。ほろ苦い甘味が口腔に広がる。比例して温かい。ほんとう温かい。安心する温かさに涙腺が疼く。振り払うように、片膝を抱いてそこに額を乗せた。
胸に広がるのは大きな痛みと喪失感、そして激しい自己嫌悪。他人に見せた弱い自分への情けなさや、泣いてしまった嫌悪感、これからの未来に畏怖する気持ち。それらが複雑に絡んでいる。思いをめぐらせているとおさまりかけた痛みが疼き、落涙してしまう。
馬鹿、折角落ち着いてきたのに、何しているんだよ。
「誰も見てねぇよ」
俺のちっぽけなプライドを一掃してくるのはヨウだった。
頭に手を置いてくる舎兄の優しさに、ついしゃくり上げてしまう。
甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるヨウの口から、何が遭ったのかと執拗に問われない。それはヨウの優しさであり、気遣いだ。もしかしたら弥生達から何かしら聞いているのかもしれない。真実は分からないけれど、こいつの優しさが俺の真新しい傷を癒してくれるのは確かだ。
「……ごめん、ヨウ」
月明かりが濃くなる頃、俺はヨウに謝る余裕ができた。
付き合わせてしまった申し訳なさ。心配して探しに来てくれた嬉しさ。こうして傍にいてくれる有難さ。ひっくるめて謝罪の形にする。八つ当たりに近いことをしてしまったのに、「いいさ」手前がやりたかっただけだから、舎兄はキザな笑みを浮かべる。
腫れているであろう目を細め、舎兄をまじまじと見つめた。
こうしてこいつと仲良く出来ているのは、俺がヨウの舎弟になったから。
でも健太との友情を切り捨てることになった原因もまた、俺がヨウの舎弟になったから。どちらの友情が大切なのか? 問われたら、俺は即答するだろう。どっちも大切だと。だからこそ健太と交わした絶交宣言は堪えた。
もう撤回できない、俺と健太の絶交宣言。元に戻れない関係はまるで硝子のよう。一度割れてしまったら、修復することは不可能。
「なあ、ケイ……弥生から聞いたんだけどお前、向こうのチームにダチがいたんだって?」
話を切り出してきたのはヨウだった。
やっぱりヨウは弥生達に話を聞いていたようで、極力俺が傷付かないよう、遠慮がちに尋ねてくる。真っ直ぐ舎兄を見つめ返し、へらりと力なく口角を持ち上げて答えた。「いないよ」と。自分でも驚くくらいに疲れ切った声を出していた。
向こうの戸惑いが伝わってくる。泣き笑いを零して、「いないんだ」向こうのチームに友人なんていない。しっかりと明言する。
「けどよ。ケイ」
物言いたげなヨウに、「絶交してきたんだ」だからもういない、虚勢を張ってみせる。
「だから気遣わなくていいよヨウ。泣いてなんだけど……これは俺とあいつで決めたことなんだから。ほんっと、あいつ、何しているんだろ。日賀野チームにいるわ、地味から不良になっているは、俺を呼び出してくれるは、川に突き飛ばすは、えらい目に遭わせてくれるは。母さんに制服、なんて言い訳すりゃいいんだろ。ほんっと後先考えずにやってくれやがる。言い訳するのは俺なのにさ、制服、どうしてくれるんだろ。ほんと。三年間使うのに」
饒舌になる俺の口から笑声が零れる。
しかも、次から次に言葉が出てくるのはもっぱら制服の文句。あれ、どうしたんだろう? こんなことどうでもいいのに。なんで制服のことばかり心配しているんだろ。
「俺は、次ぎ会ったら健太を潰す。覚悟を決めないといけない」
「もういいケイ。いいから」
焦燥感を滲ませた声音でヨウに制される。
首に腕を回してくる舎兄が、「悪い」ほんとに悪いと眉根を下げて謝罪してきた。
なんでヨウが謝るんだよ。寧ろヨウには感謝の気持ちをぶつけたいんだぜ。そりゃ面白がって俺を舎弟にしたはヨウだけど、この状況になったのはヨウのせいじゃない。今だから思える、俺はヨウの舎弟になって良かった。ヨウ達と友達になれて良かった。チームの皆は気のいい奴等ばっかりだ。俺はあいつ等に出会えて良かった。
健太のことは仕方が無かったんだ。こうするしか他に方法が無かったんだ。
お互いに今の居場所を譲れないから、仕方が無かったんだよ。兄貴。
「俺はヨウ達が大事で、健太は日賀野達が大切なんだ。なら、選ぶ道は一つしかない。それだけなんだ。あいつとは中学からの付き合いで仲も良かったけど、俺もあいつも昔より今の居場所を選んだんだ。だから良かったんだ。これでっ、これで」
声が震える。
決意すら打ち砕く、情けない声に泣きたくなった。どうしょうもなく惨めな気分だ。カッコ悪い。
「けど……お前にとって大事なダチだったんだろう?」
くしゃりと顔を歪めてしまう。これが俺の答えだ。「これで良かったんだ」繰り返して、鼻を啜る。
「大切なのは今だからっ、これでいい……なあ、ヨウ。俺達の判断は正しかったんだよな? お願いだからそう言ってくれ。じゃないと俺も健太も救われねぇや」
「ケイ……」
「間違いじゃ……救われないんだ。ヨウ、嘘でもいい。正しいと言ってくれないか?」
嗚呼また目から。
これじゃあ、ヨウに八つ当たりをしているのも同じじゃないか。ほら、あんなにもヨウが困っている。困っているから。
なのに俺はヨウに当っている。正しいのその一言が欲しくて、不良に答えを求めている。ヨウは追試の勉強をしなきゃなんねぇのに。俺に構っている時間なんてないのに……どうして俺はこんなにも弱いんだろう。誰かに答えを求めるなんて女々しいぞ、俺。
「わからねぇ」ヨウが返事した。それは俺の求めている答えとは異なった、率直な返事だ。
のろのろ相手と視線を合わせると、「俺が安易に出していい答えじゃねぇ」なによりお前等の関係柄を詳しく知らない。だから分からないのだとはっきり告げてくる。
優しいのか、優しくないのか、分からない奴だな、お前。
「だけど、これだけは言える」
ヨウが首に回している腕の力を強くする。
すっかり冷えてしまった夜の風を頬で受け止め、金髪赤メッシュを靡かせる不良は醜い泣きっ面を作っている舎兄に視線を投げて力強く笑った。
「テメェの弱さはいつだって受け止められる。言いたいことは言えよケイ。ダチってそういうもんだろ? 心配じゃなくて迷惑を掛けろ舎弟」
視界が揺れる。
「チームの迷惑を考えて、テメェは自分の本音を出し切ってねぇ。ケイの気遣いは分かる。けどさ、俺は素のテメェがいい。遠慮すんじゃねぇよ、言いたいことは言え。遠慮ばっかりされると、こっちも寂しいんだよ」
弱音ばかり吐く女々しい俺の気持ちを咎めることもなく、寧ろヨウは一線を引こうとする俺の中の線を消しに掛かった。
どうしてそんなにカッコイイことばっか言うんだよ、俺の舎兄は。イケメンだと言葉もより一層、カッコよく聞こえる。羨ましいな、ほんとに羨ましいな。俺もイケメンに生まれたかったよ。
忙しなく肩を上下に動かし、思い出したかのように落涙が始まる。俺の虚勢は脆くも剥がれ落ちてしまった。
「つらいっ、ヨウ。どうすりゃいいんだっ、おれっ……健太と対立したくない。あいつと絶交したくなかった。あいつを潰すことも、潰されることも怖い。憎まれることが怖いんだ」
本当は絶交なんてしたくなかったんだ。ずっとずっとずーっと健太と友達でいたかったんだ。なんで絶交しちゃったんだろ、俺等。
堰切ったように本音を吐き出す俺に、「そうだな」ヨウは言葉一つ一つに丁寧に相槌を打ってくれた。その優しさが身に沁みて、また俺は目から雫を零す。
夜風に当たりながら、ヨウの優しさを噛み締め、馬鹿みたいに涙を零す俺がいた。
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